那田尚史の部屋ver.3(集団ストーカーを解決します)

「ロータス人づくり企画」コーディネーター。元早大講師、微笑禅の会代表、探偵業のいと可笑しきオールジャンルのコラム。
 

しいのみ学園

2011年11月05日 | 書評、映像批評
『しいのみ学園』(清水宏、1955年、白黒)


{あらすじ}

児童心理学を教えている大学教授(宇野重吉)の家庭。兄弟の子供が居るが、その兄のほうが高熱を発する。病院で調べてみると小児麻痺で、片足が不自由になる。
 小学生になって、野球をしたがるが、同級生たちは仲間に入れてくれない。それどころか、みんなでビッコの真似をしたり、泥棒の濡れ衣を着せたりしていじめる。兄は、大きくなったら、小児麻痺の子供を集めて学校を作ろう、と決意する。
 ある日、小学校低学年の弟も高熱を出して小児麻痺にかかる。兄より重く、両足が利かない。
悩む両親。ついに、あらゆる財産を処分して、自分たちで小児麻痺で足の悪い子供たちを集め学校を作ることを決意する。名前は「しいのみ学園」となる。
 生徒たちが集まってくる。教授の教え子の一人(香川京子)が学園の教師になる。
そこへ岡山の鉄工所を営んでいる男とその後妻が小児麻痺の子供(テツオ)をつれてやってくる。
後妻が小児麻痺の子どもと暮らすのを、世間体が悪い、と嫌がるので、引き取って欲しいと男は言う。教授は、そんな子供を捨てるような動機では引き受けられないと一度は拒絶するが、そんな後妻に育てられる子供が可哀想になり、結局面倒を見ることになる。
 ある日、みんなで両親に手紙を書くことになる。テツオは「歌が歌えるようになったから、おとうさん会いに来てください」と手紙を書く。他の子供にはすぐに返事が来るが、テツオにはなかなか返事が来ない。返事を待っている間に、テツオは高熱を出して倒れる。医者に見せると、テツオは先天性の心臓疾患がある上に、急性肺炎になっていることがわかる。教授は父親にすぐに来るよう電報を打つ。テツオはうなされながら、父親の手紙が読みたい、という。女教師は、父親の名前で手紙の返事を書き、郵便局に出す。そしてその手紙をテツオの枕元で読み上げる。テツオはその嘘の手紙を聞きながら息絶える。
 教室の生徒たち、テツオの眠るお寺をあて先にして、全員で手紙を書く。書けた生徒から順番に手紙を読んでいく。女教師はそれを聞きながら涙が止まらない。
 生徒と教師、しいのみ学園の歌を歌いながら、その手紙を郵便局に出しにいく。


{批評}

『蜂の巣の子供たち』で戦災孤児を取り上げた清水宏はここでは、当時差別を受けていた小児麻痺にかかった子供たちを題材にしている。現在ではテレビのニュースやドキュメンタリーがこの種の話題を取り上げることがしばしばあるが、当時はこのような題材を取り上げることは画期的だった。
 そういう意味でこの作品は高い価値を持っているし、また割合評価も高い。
しかし、私はこの作品については、美学的な立場から高い点数はつけられない。
 まず、前半はほとんど室内撮影で、苦悩する大学教授一家を描く。露出もアンダー気味で重苦しい。
後半になり、しいのみ学園が出来た後、ピクニックのシーンや校庭で子供たちが遊ぶ場面に少し実写の明るさが見られるが、それでもいつもの清水監督の自然を背景としたオールロケーションの味わいからは程遠い。結局室内劇が中心を占めるのである。しかも悩んだり、泣いたりする場面が多く、新派悲劇的な古臭ささえ感じる。
 次いで、清水映画の特徴である、独立した各シーンが一つの宇宙を持っていること、つまりポリフォニックな構造がこの映画では見られない。物語が単線的に展開するのだ。前半は教授夫婦とその子供が主人公になり、後半は女教師とテツオが主人公になる。清水宏のポリフォニックな物語構造は、シーンごとに「即興で」味付けを施していったことで生まれたようである。しかし、この映画は原作に基づいてきちんと作られすぎているため、逆にそれが欠点となって、清水映画の個性を失っているのである。
 第三に、『蜂の巣の子供たち』では本物の戦災孤児を使っていたが、ここでは本物の小児麻痺の子供を使わずに、子供たちに芝居でビッコの役をやらせている。この点が、どうも気になる。倫理的にも、大勢の子供にビッコのまねをさせるのはどうかと思うし、演技の上でも、ちょっと無理があるように見える。ここは本物の小児麻痺の子供を使うべきだったと思う。
 最後に、あまりにこの映画は涙の場面、苦労の場面が多すぎることである。身障者の世界にも、笑いもあれば、喧嘩もあるだろう。しかし、この映画では彼らの哀れさばかり強調されていて、どうしても新派悲劇調になってしまう。このあたり、清水宏の素朴なヒューマニズムが裏目に出ている。もっと透徹した眼で身障者のリアリティを描くべきだろう。
 以上の理由から、私はこの映画を評価できない。ただ、彼の着眼点が、時代の先端を行っていた、それだけは価値がある。清水は「自然」と「長閑さ」を描くと天下一品だが、このような単線的な物語を描くと凡庸に落ちてしまう。
 ヒューマニズムと美学という2点に問題を絞って考えると、清水は前者に留意したために彼独自の美学を退けてしまっている。表現者は、両者を両立させねばならない。いや、悪魔のように冷徹な眼で、美学を優先すればこそ、ヒューマニズムの訴求力が生まれるのである。『蜂の巣の子供たち』で清水は美学を優先することが出来たが、この作品ではそれが出来なかった。原作に忠実でありすぎたこと、小児麻痺の子供たちに「憐れみを抱きすぎたこと」が、このような欠点を生み出した理由だろう。残念だ。




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2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
なし (名無し)
2014-06-02 22:38:02
俺は普通に心を動かされた作品でした。
たしかに物語を描く観点は偏ってるとも言えるけど、
あの観点はあってもいい。いや、なくてはならない。
その感性を大切にしたい映画だと思いました。
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なし様 (那田尚史)
2014-06-04 02:10:03
コメントありがとうございます。

この映画を見られただけでも素晴らしいと思います。
 仰る通り、あの時代に小児麻痺をテーマに映画を撮ったことだけでも優れた作品です。

私の批評は当時の映画、その監督の作品全体を比較対象にして、美学や技術の突出性や新規さにスポットを当てる傾向があるので、「清水宏にしては原作に従いすぎたために窮屈な映画になった」と辛口の批評をしました。それは彼が他に優れすぎた作品を撮っているためです。
 ですから、なし様の感想を否定するものではありません。今売れている映画と比較すればはるかに志の高い作品でしょう。

清水宏は実生活ではデタラメな部分と生真面目な部分とが入り混じった、分かりにくい人物のようです。その辺りお調べになって投稿してもらうと嬉しいです。

ともかく、清水宏はもっと評価されていい監督と思います。彼はネオリアリズムの先駆者だったと私は評価しています。
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