脳辺雑記帖 (Nohhen-zahts)

脳病と心筋梗塞を患っての独り暮し、Rondo-Nth の生活・世相雑記。気まぐれ更新ですが、気長にお付合い下さい。

「死」を死ぬ人間存在について。

2019年07月12日 18時08分39秒 | 読書・鑑賞雑感
1週間前の朝日新聞の記事だが、安楽死について、佐伯啓思氏
の文章を読んでいた。オピニオン&フォーラム「異論のススメ」
という掲載欄である。私も将来可能なら安楽死を望むかもしれ
ないが、文中「人間の死」についてハイデガーが引かれていた。

佐伯氏によれば、人間が「死すべき者」であるのは、死ぬのは
人間だけであり、動物はただ生を終えるだけだからだ、とハイ
デガーは述べているそうである。以下は佐伯氏の文書から。

  なるほど、と思った。動物は死なないのである。ただただ
 自然に生命が消えるだけだ。「死」とはひとつの意識であり、
 意図でもある。人間は、死を意識し、死に方を経験すること
 ができる。
 (佐伯啓思 2019年7月6日 朝日新聞朝刊から引用。)

佐伯氏のこの箇所に同意出来るが、私は飼い犬の末期に立ち会
ったことがあるが、犬や猫でも自分の死を対象化し得るのでは
ないかと感じている。人間のみが「死」を死ぬという、ハイデ
ガーや佐伯氏の論に概ね異論はないが、ふと自分が望む死につ
いて、逆に意識させられた。

私は「死」を死にたくないのである。動物のように自然と生命
が消えるように死にたいのである。私の死について、余計な意
味は一切いらない。星が瞬くように自然と消えたいのである。
ここで「星が瞬くように」と書くと、ある色合いの「死」を死
ぬという意味を帯びてしまうので、矛盾だが…。

昔、森鴎外の「山椒大夫」という短編を読んでいて、どうして
か印象深かったシーンがある。安寿と厨子王は人買いの舟に乗
せられ運ばれるが、一緒に付き添っていた年老いた乳母だかが、
その舟から海へ躊躇なく身投げするシーンがあった。

細かい経緯や前後は忘れたが、乳母は自分の前途に絶望して身
投げしたということでもあろうが、そのような説明や意識・意
図が巡るよりも早く、自分の生を断ち切ったのである。生に何
のわだかまりも未練も寄せ付けず、潔くきれいに「死」を死ん
だ、いやただ死んだ、「ただ生を終えるように死んだ」。

一人暮らしの年寄が、アパートで死んでいるのが発見されると、
「孤独死」がどうのとか形容するが、彼・彼女が孤独であった
かは人知れない内面の真理である。勝手な決めつけを言うなと
いいたい。「孤独死」ではなく「単身死」か「独居死」と言う
べきである。

私は母親を自宅介護して死を看取ったが、死ぬ瞬間には立ち会
えなかった。夕方、気が付いたら母はベッドで死んでいたので
ある。私にとって母の死は、急にお迎えが来たように見えた。
今日がその日とは自分でも知れずに、あっちへ逝ってしまった
かのようだった。

哲学的な理屈では、人間のみが「死」を死ぬ存在であるが、実
際には、人間も最期の最期には、「ただただ自然に生命が消え
る」ように死ぬだけではないか、と思う。

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