脳辺雑記帖 (Nohhen-zahts)

脳病と心筋梗塞を患っての独り暮し、Rondo-Nth の生活・世相雑記。気まぐれ更新ですが、気長にお付合い下さい。

機縁。

2019年07月28日 10時15分57秒 | 雑談
ようやく東京は梅雨明けなのか、暑くなってきた。昨日、近所でセミ
の声を聞いた。7月もあとわずか。いつの間にかの夏である。8月1日
に生活家電と電話の引っ越しをして、役所等に住所変更届を出せば転居
はほぼ終わりである。近所や親戚には、転居の挨拶状も必要である。

何しろ、祖父母の代から3代、90年住み続けてきた土地である。母も
この地で生まれ育ち、私のきょうだいもこの地で生まれ育った。その家
を壊し、地所を全て売却するからには、挨拶くらいしないといけない。
もっとも同じ町の1丁目から2丁目に移るだけなのだが、しかし、我が
家の歴史としては、その歴史のピリオド、終焉にも等しい。

我が家の向かいに、小さなお寺がある。私が幼少の頃、境内で遊んだ懐
かしいお寺でもある。寺は往時の佇まいのままだが、最近老朽化のため
建替えだかで、解体が始まっている。奇しくも同じような時期に、我が
家と同じ運命を辿っていることに、機縁を感じる。

懐かしいものが次々と失われてゆく。歳を取るということは、様々な
「別れ」に晒されることなのだなと思う。人やモノ、物事との「別れ」
が次々と訪れるのが、老年というものなのだなと、最近気づいた。
「別れ」を自然なものとして受け容れられること。運命として、そう観
念せざるを得ない。悲しみの遠くに従容と見送ること。それが老いへの
倫理なのだ。

「別れ」というが、人も物事も、全ては過ぎてゆくだけなのだ。出会え
ば別れがあるのが必定だが、私は自分という人生を流れているだけ、風
景のように全ては過ぎてゆく。永遠に手に残るものなど何も無いのであ
る。でも、出会ったからには「縁」があったのである。悪い出会いとい
うのもあるだろうが、感謝を捧られる縁があるだけ、幸せ、「仕合わせ」
だったのだ。
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