喜寿祝う 喜びしばし 余命未知?
25年1月4日(金)夜半に雪舞うも晴れ、一番の冷え込み(364日) ー8度
トップニュース「ミャンマーに500億円借款・麻生氏「3月までに」
喜寿を祝福しひつじ雲染め昇るお日様
粉雪までが庭に祝い舞う
浅間山の上にも祝い雲浮かび
昨夜寝たのは日付も変わる2時過ぎである。寝不足気味であるが、母がデイサービスに行く日なので7時30分には起床する。
寒いからと床暖のダイニングで寝た長男は、30分ごとになる時計の音で熟眠が出来なかったとか。ここで寝たことがなかったので、気がつかなかったが音を出す時計が3個も有ったのだ。家に来た時から、うるさいと思っていたそうだ。すまないことをした。座敷で寝たほうがよかったようだ。
さてお話し代わって、1936年1月4日大阪市で産声をあげ、蝶よ花よと才媛美女の母に育てられ、当時は珍しい幼稚園で遊び、小学校に入学する。
しかし激しさを増す戦争の空襲から逃れて、父の故郷である佐久に疎開する夢酔。
祖父の家で一人学ぶも、母が病にて急逝する予想しない悲劇に直面。
父こちらに帰りて始まる小学校教員と、義母と生まれた妹2人での転勤生活。
欲言えば我が人生に「竹馬の友」なきことを嘆く。
そして学校出てから、佐久はツガミの経理で腕を振るうも、再建王・大山氏の非情な言動に嫌気さす。
地元の名門メーカー宮島工業にスカートされ、鋭意努力をするも会社更生法で遭遇し倒産。過去の経験生かして、艱難辛苦を乗り越えてのドラスチックな再建完了。
T社で18年、M社での28年経営者体験。リタイア後10年日記を継続は力なりと、昨年で空白なく書き続け終わる。
息子・娘と、祝の金子をもらい、妹2人からは祝電で祝ってもらう。
波乱万丈の人生も、今日で77歳喜寿を迎える。
佐久の青空にトンビゆーゆーと舞い
ばっちり見事な雪化粧の浅間
家族が4人揃ったので、季節はずれであるが高柳のお墓に墓参する。
吹く風は肌をさし、お線香に火をつけるだけでも大変である。
内科M先生からの最終診断下る 判断は自分で!
先日のPET診断をコンピューターで示し説明を受ける。
頭と睾丸の赤みは心配ないが、食道のリンパの所に、2箇所のがんが再発しているという。
奇しくも77歳の喜寿に、人生の岐路ともゆうべき診断を告示される。
1・77歳の高齢だが、検査入院して体力と、がんに適合した抗がん剤の点滴と、放射線治療を1週間続ける、そしてまた1週間おきに同じ治療を繰り返し2ヶ月半もの入院。
問題は副作用の吐き気、下痢、口内炎、白血球減少による肺炎の併発。
そして消える可能性は30%、70%は残る。完全治癒は期待できない。
このままおけば、リンパ節が腫れて呼吸が出来なくなる。
2・早ければ余命6ヶ月、うまくいけば1年?苦しい抗がん剤治療をしても1年から2年?どちらも予想はつかない。どちらを選択するか!?
昨夜の家族会議での、自分のわがままを聞いてもらい、延命治療はしないことにする。
再手術や飲む抗がん剤はない!とのこと。
残された余命人生をいかに生きるか。確率の低い治療よりも、残された人生を短くとも今のままで、元気に普通の生活ができる時間を出来るだけ長く持ちたい。巡りあえた人々と、出来るだけ長く元気にお付き合いをしたいものだ。
一日一日を大切に生きる。手術執刀のNドクターには3ヵ月ごとの検査をお願いできることを確認する。終末の痛みなどは予想できなそうだ。
「終活」に向けたカウントダウン人生の始まりが、77歳の喜寿の日となるとは・・・希望的には「来年の4日」を元気で迎えたいものだ!!!
我が人生まさに波乱万丈である。
佐久総合病院・駐車場から望む浅間山
寒いはずである。浅間山はこんなに真っ白に雪化粧している。
仕事始めというのに、こんなにも駐車場が満杯なのはいかに病人が多いかを物語っている。
佐久のツタヤで立ち読み
時間があったので、久しぶりに雑誌の立ち読みをする。
ほしい雑誌は売りきれとか。注文すると1週間はかかるという。
これから岐阜に帰宅の長男
1泊しただけで、公務員という長男は今夜にも生徒が相談に来るとか。
暗くなり始めているが車で帰る。恵那産トンネルを注意とアドバイス。
4時間以上はかかるだろう。
睡眠不足だがテレビで「鬼平犯科帳・スペシャル」を見る。
母の介護をしないと困る敬妻は、お墓参りで足をひねって痛むようで、歩行困難と2階まで上がれないで困る。困る!困るの日になってしまう。
祝の日がとんだ厄日となる悲惨な喜寿の誕生日である。
でも長女が残っていてくれて助かる。