ブログをご覧になって下さっていた皆様へ
好きな事 楽しみ笑い より長く (会葬礼状より)
大好きな立科の地で余生を満喫しておりました父ですが、5月14日水曜日の夜天国に住まいを移しました。
気まぐれな内容ながら、毎日更新することをモットーに頑張っていましたが、私の想像以上に読んでくださっていた方がおられたようで驚いております。
父の気力を支えてくださり、ありがとうございました。
病気と向き合い、体力が落ちる中でも気持ちだけはいつも前向き。
最後に過ごした病院内でも、暇な時にはカメラ片手にうろうろとしていたようで、ベッド脇のカメラの中には、退院した際にアップするための写真をたくさん残していました。
病院の待合室、窓からの風景、最後の日には昼食のメニュー、ほほ笑んだ顔で自撮りまでしていました。
幸いあまり苦しむことなく逝けたようで、顔も穏やかなままでした。一瞬のことで、本人が一番驚いているかも知れません。
前向きな気持ちのまま、自分の意思を通し、最後を迎えることができた父を、私たち家族も誇りに思っています。
このたび、父の遺志を継いで、最後の写真を投稿したいと思います。
<やはりどこにいても浅間山が気になるようですね 2014/5/10 >
<病院の中庭でしょうか>
<昼食メニュー 2014/5/14 >
葬儀の際に父に会いに来てくださった皆様、本当にありがとうございました。
心から感謝しております。
色々なことに興味を持ち、なんでも知りたい父でしたので、たくさんの方々にお世話になったことと思います。
最後に葬儀の際、父の友人であるT様がくださった弔辞を載せさせていただきます。
ご本人ご了解済みです。
温かく、素晴らしいお言葉をありがとうございました。
また、このブログを書くにあたってパスワードを調べてくださったもうひと方のT様
候補の3番目で入れましたことを報告します。わざわざ自宅までお運びくださり感謝しています。
ブログを書くことは、晩年の父の生き甲斐でした。 どんなに眠くても疲れていても、いつもパソコンの前に座ると、夢中になって打ち込んでいました。 ブログ用の写真にと、カメラを持ち歩くのも楽しみの一つだったようです。
父にブログの書き方を教えてくださりありがとうございました。 人生がより豊かになったことと思います。
家族一同
弔辞
ご霊前に謹んで哀悼の意をささげます。
H様~
あなたが、大好きな『立科から見る浅間山』の写真をこれから一体誰が撮り続け、誰が発信していってくれるのでしょうか。
あなたは、ブログに毎日 数枚の写真を載せ続けてくれました。
「立科の四季は素晴らしい。毎日が発見で、語り尽せない。」と繰り返し殊に「五月の新緑が、一番好きだ」と言っていましたね。
二十一年前の『五月』に佐久市から立科に転居し、立科を熱烈に愛する特出の一人として、全国に、いや世界に『立科の魅力を発信』してくださいました。
三年前の『五月』に大手術をして、この『五月』に天に飛び立つ。 「五月が一番好きだ」 と言っていたその五月に、私たちは掛替えのない大切な方を失うとは思いませんでしたよ。
残念でなりません。
振り返れば四十一年前、佐久市のT信州工場から、経理にたけた抜群の仕事人として引き抜かれ、東部町M工業経理部部長に赴任、営業担当の私と二人三脚で苦楽を共に夜遅くまで懸命に働きましたね。
その五年後、会社は、社長が仕組んだ会社更生法により倒産。 あなたは精算管財人と戦いながら、見事その破産会社を再建し、社長に就任。 社名を変え、立派に建て直し、雇用を維持、社員の家族を支え、更には業績好転へとつなげ発展させました。
素晴らしい実績です。 社長の人柄と経営手腕を、取り囲む多くの皆さんが認めて 称えての結果は『東御市工業振興会長』 として活躍するにも至りました。
退職後は、好きなゴルフと立科町のボランティア、歴史研究会、エコクラブ、ユーユーたてしな等数々のまちづくり活動に積極的かつ精力的に取り組み、地域の活性化に多くの貢献をされる中、民生委員としても活躍。 人の為、地域の為に、奉仕精神を立派に貫かれ、何人分も頑張って頂きました。
健康で医者知らずの人生に、突然襲った三年前の食道がん発見。 大手術後の精神力の味方にしたのが、大好きなゴルフ。
抗がん剤・放射線拒否で選んだのが毎日ゴルフでしたね。 しかし、体力の衰えは克服出来ずに体重四十一キロ。消化不良の腸閉塞。 それを支えてくれたのが、M会長の心のこもった、本当に献身的なパワーローラーでの施術の連続。
この効果あって車の運転OK、ゴルフOK、この四月三十日にもゴルフをしたそうではありませんか。
無茶をして『五月』を迎えてはいけませんでしたね。
その『五月』に事件は起きてしまいました。 四十一年前まで働いていた仕事場 『T信州工場』の跡地に出来たばかりの『医療センター』での出来事です。 あなたが十八番で歌っていた 『千の風になって』の『強い千の風』が吹いたのです。
八年続いた流行語並びのあなたの今年の年賀状、その締めくくりに、「ご愛読頂きました流行語賀状、余命がらみで、今年で筆を折ります。 長い間本当にありがとうございました。」 ~この厳しい文面が、『千の風』を吹かしてしまったのかも知れませんね。
その文章の前には、「これからも、好きな和食に少量の酒、甘みも楽しみ、笑って免疫高め、いよいよの時にはありがとうと、自分らしく黄泉の世界に旅立ちたいもの。」 と書いてありますよ。
『いよいよの時』 には早すぎました。 本当に残念です。
人間を愛する、心の深いあなたは、私ども立科町民の誇りであります。 町にとってあなたを失うことは、大きな損失であります。 これからも、そばにいて、この町をず~と見守ってください。 でも、浅間山の写真を撮ることはもうできませんよね。 ブログに載せることも出来ませんよね。
これからは、浅間山の方から立科をいつまでも見守ってください。
あなたの立科を愛する気持ちを大切にしながら、意思をしっかり受け継いで参ります。
Hさん~長い間大変有難うございました。 お世話になりました。
あなたの業績は、人々の心に必ずや受け継がれて行くことでしょう。
どうか、安らかにお眠りください。 さようなら。 合掌。
平成二十六年五月十八日
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