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汎発性脱毛症になりましたが元気です。自分のこと、家族のこと、子どものこと。家づくり育児ブログ??になってきました。

心の中に夢をしまっておく場所を空けておけ

2009-11-20 02:41:41 | なか
2009年11月18日

 いつの間にやら冬がやってきていたような・・・
 住宅の窓から見える木々はその葉がいつの間にか数えるほどしかなくなって、それでも風に飛ばされまいと気を張っているような気がする。空々漠々たる想いってのはこんな感じなのかもしれない。そんなとらえどころのない焦燥が全身から流れ出て、今の季節に追い付けない自分の中の季節感がおかしい。

 小学生のころ、冬には必ずマラソン大会があって、いやだという気持ち以上に冬になってしまったことをよく実感した。子ども心にはクリスマスや冬休みが楽しみなものなんだろうけれど、北風が肌を刺すような登下校はそれはそれで嫌だった。 あの頃は、裏とか表とかそんなものなくて、すべてが本音で自分の感情をいっぱいに表現してた気がする。子どもなんだから当たり前か・・・。嬉しければ喜んだし、悲しければ泣いた。理不尽なことがあれば怒った。でもやっぱりだんだん世の中や自分のおかれた環境がどんなものかを知っていくと、人と比べて落ち込んだり、本心とは裏腹な行動をとるようになっていく。世の中が建前で塗り固められたものだって気づくのが早すぎたのかもしれない。もっと素直でいればよかったと思うけれど、今となってみればどうでもいいことだ。

 子どもだって器用に「いい人」を演じることがある。そうすれば必要以上の痛みとか、心配をされなくて済むのだ。そして、不思議と人は集まってくる。人にやさしくする時に本心でなかったとしても、結局は自分に「いい人」の評価が下される。そうしていかなければ心地よい環境を手に入れることができなかったんだと思う。それは既存の環境から少なくともマイナスにならないようにと願う本能的なふるまいだったのかもしれない。自分を守るように。

 人を分析する以上に自分を分析することは難しい。それは真に客観性を持ちえないからだ。分析の材料に私見や私情が絡みつき、真情を得ない。永遠に解読されない不等式をさもしたり顔で眺める。まさに「僕って何?」の世界だ。

 残念ながら成人してしまったらもう自分の本質など変わりもしないことは自明のような気もする。今まで苦労しながら得てきた処世術である。自分が順応してきたものを新しい眼を持って見直すことはなんによらず愉快なものではないからだ。

 でも少し考えてみよう。「人間は変わらない」で終わってしまえば残りの生は色身のないものになる。まずは自分のすべてを自分に披瀝して、自己と向き合うほかない。たしかにそうすることは難しい。誰しも自分にとって自分は決して誇れた人間ではないからだ。でも、人間なんて独善と強欲であふれていて当然だ。自分に目をそむけてはいけない。自分の醜さに目をつぶってはいけない。そうすれば心の中に誇れるべき自分が見つかるかもしれない。そしたらそこに好きなものを入れればいい。愛だの、夢だの理想だの。

 マーチン・ルーサーキングはこう言っていた。
「心の中に夢をしまっておく場所を空けておけ」

 もちろん、その前に詰め込まれた荷物を何とか自分で整理するほかないのは、日曜日の部屋のかたずけも一緒だ。

 冬はそんな季節なのかもしれない。