モゲログ

汎発性脱毛症になりましたが元気です。自分のこと、家族のこと、子どものこと。家づくり育児ブログ??になってきました。

首・・・曲がってますよ

2010-05-24 22:32:01 | なか
2010年5月24日

 奇跡のような写真が撮れた。

 人間の関節にある皮膚はけっこう伸びるみたいだ。

 治癒の見込みのない病気が、世の中にはたくさんあるんだけれど、中には遺伝学のように研究が進んでいない分野や、病気の原因そのものがわかっていない分野があるのだから、完全に治癒の見込みがないわけでもないんだろう。脱毛症だってそんな類のひとつ。もちろん「きっと生える」って希望を持つことも大切だと思う。実際、プラシーボ(?)効果みたいな人間の心理的な効果もあるようだし、それ以上に近い将来「免疫学」は非常に大きな進歩が期待される分野だと思う。少し前に、脱毛症なんてものは命にかかわりもないから研究が遅れているんだなんて思っていたけれど、そんな次元の話ではなくて、万能細胞や免疫学の研究は、人間のあらゆる機能の回復に画期的な進歩をもたらしそうな可能性を秘めているのは確かだ。

 ところで、「ホスピス」って言葉がある。
 これは、治療の見込みのない患者に対して治療よりも苦痛の除去を目的とした施設だ。要するに、治癒の見込みのない患者は死を回避できない患者のことで、死ぬことへの心の準備や精神の安定を目的としている。
 
 誰でも、「受け入れる」ことは難しい。その極みが「死」であることは疑いようのない事実だとも思う。でも、その前にたくさん私たちは受け入れなければいけないものを見てしまっている。
 仕事場を意に反してかえることになった。
 第一志望ではなく第二志望の学校に入学した。
 最愛の人を失った。
 髪がなくなった。
         ・・・その変化を受け入れる。


 そんないろんな自分の苦悩を受け入れることの連続が、「死」を受け入れる準備にもなるような気がするんだな。
 

 まずは、受け入れよう。そこから自分を高めなきゃ

 

・・・それでもなおかれの顔が幸福であるように見えるのはどういうわけだろう

2010-01-14 00:24:10 | なか
2010年1月13日

 タイトルなげーよ(~o~)

 実は、無呼吸症候群だったりする・・・。
 子供のころから鼻の穴が二つ同時に通ったことがない。鼻くう湾曲症だっけ?
だから眠りがいつも浅い。高校の時も電車で寝てしまって。授業中寝てしまって。予備校で寝てしまって。教科書はよだれだらけだ・・・
 といっても、きっとそれだけじゃないんだろうけれど、とにかく昔から眠気は大敵だ。

 何度も言うようだけれども、なにかしら人にはそれぞれ「生きにくさ」みたいなものがあると思う。どんな健康そうに見える人でも、多かれ少なかれ心身に何かしら不完全なものを持っている。心身共に健康ってことは逆に異常なんだとさえ思う。逆説的にいえばそれが生きにくさになってくる。そもそも心身ともに健康な人なんてごくごく少数派だからだ。
 自身の生きにくさばかりじゃない。生きにくい環境、時勢。そんなものもあいまっていっそう私たちの生きにくさを助長する。そんなものと付き合いながら私たちは生きている。


 そんな時に自分とは違った生きにくさを負いながら、それでもその困難を乗り越えようとする人を目の当たりにすると不思議な感覚におそわれる。
 困難を乗り越え生き生きと生活を送っている人に「生きにくい」なんて言葉は無用だ。「大変だね」と思う気持ちが不遜だってことだ。もしかしたら大きな葛藤があるかもしれないし、うっ屈した感情がそこにはあるかもしれない。それでも、乗り越えようとする姿、乗り越えたと思える姿は私たちの心を揺さぶるもんだ。もちろんもしかしたら何もないかもしれない。

 
 「あれほど多くの苦しみにさいなまれながら、それでもなおかれの顔が幸福であるように見えるのはどういうわけだろう」アルベール・カミュ


 「お前自身が懸命に生きればわかるよ」と言ってあげたい。
 でも、偉人の発問はそれ自体がすでにその人の頭の中で結論付けられているんだからメッセージ性があるんだろうね。いろいろな困難さを私たちは受け止めたり、はねのけたり、時には忘れたりしながら一生懸命日々を過ごしていかなけりゃいけないんだね。きっと

  

心の中に夢をしまっておく場所を空けておけ

2009-11-20 02:41:41 | なか
2009年11月18日

 いつの間にやら冬がやってきていたような・・・
 住宅の窓から見える木々はその葉がいつの間にか数えるほどしかなくなって、それでも風に飛ばされまいと気を張っているような気がする。空々漠々たる想いってのはこんな感じなのかもしれない。そんなとらえどころのない焦燥が全身から流れ出て、今の季節に追い付けない自分の中の季節感がおかしい。

 小学生のころ、冬には必ずマラソン大会があって、いやだという気持ち以上に冬になってしまったことをよく実感した。子ども心にはクリスマスや冬休みが楽しみなものなんだろうけれど、北風が肌を刺すような登下校はそれはそれで嫌だった。 あの頃は、裏とか表とかそんなものなくて、すべてが本音で自分の感情をいっぱいに表現してた気がする。子どもなんだから当たり前か・・・。嬉しければ喜んだし、悲しければ泣いた。理不尽なことがあれば怒った。でもやっぱりだんだん世の中や自分のおかれた環境がどんなものかを知っていくと、人と比べて落ち込んだり、本心とは裏腹な行動をとるようになっていく。世の中が建前で塗り固められたものだって気づくのが早すぎたのかもしれない。もっと素直でいればよかったと思うけれど、今となってみればどうでもいいことだ。

 子どもだって器用に「いい人」を演じることがある。そうすれば必要以上の痛みとか、心配をされなくて済むのだ。そして、不思議と人は集まってくる。人にやさしくする時に本心でなかったとしても、結局は自分に「いい人」の評価が下される。そうしていかなければ心地よい環境を手に入れることができなかったんだと思う。それは既存の環境から少なくともマイナスにならないようにと願う本能的なふるまいだったのかもしれない。自分を守るように。

 人を分析する以上に自分を分析することは難しい。それは真に客観性を持ちえないからだ。分析の材料に私見や私情が絡みつき、真情を得ない。永遠に解読されない不等式をさもしたり顔で眺める。まさに「僕って何?」の世界だ。

 残念ながら成人してしまったらもう自分の本質など変わりもしないことは自明のような気もする。今まで苦労しながら得てきた処世術である。自分が順応してきたものを新しい眼を持って見直すことはなんによらず愉快なものではないからだ。

 でも少し考えてみよう。「人間は変わらない」で終わってしまえば残りの生は色身のないものになる。まずは自分のすべてを自分に披瀝して、自己と向き合うほかない。たしかにそうすることは難しい。誰しも自分にとって自分は決して誇れた人間ではないからだ。でも、人間なんて独善と強欲であふれていて当然だ。自分に目をそむけてはいけない。自分の醜さに目をつぶってはいけない。そうすれば心の中に誇れるべき自分が見つかるかもしれない。そしたらそこに好きなものを入れればいい。愛だの、夢だの理想だの。

 マーチン・ルーサーキングはこう言っていた。
「心の中に夢をしまっておく場所を空けておけ」

 もちろん、その前に詰め込まれた荷物を何とか自分で整理するほかないのは、日曜日の部屋のかたずけも一緒だ。

 冬はそんな季節なのかもしれない。

君がために僕は生きよう

2009-10-22 00:00:00 | なか

2008月10月22日

 「空っぽの一日を与えられたらどうしよう?」
 彼はきいた。
 「寝ればいいさ」
 僕は答えた。
 「一日楽しむには本でも読めばいいかもしれないね。でも空っぽってことはそれ すらないんだ。仕事?・・・ないない。ギター?・・・もちろんない。」
 「頭を休めればいい」
 僕は続ける。
 「人間は空想好きな動物だと思うけれど、その中身を詰め込むものも、容れ物も 与えられなかったら、恐怖とも少し違った虚無感でたまらなくなる。前提すら与 えられないことは悲しい。とくべき命題もそこからは生まれてはこないから。悲 しい」
 「君は不安なんだな」
 「不安・・・とも違う」

 安心なんてものを感じないから不安は不安でない。心が立ち騒ぎ、まどろみの幕さえ容易に下がらない。奇異な想念の正体はなんだろう。たぶん自分がいちばん知っているはずなんだと、誰かが不意につぶやく。そうだ、一番恐ろしいのは留まること。






2009月10月22日


 コンタクトの汚れが気になる。
いくら目洗っても、網膜にしみ込んだあの光景は忘れない。
 

 去年のこの日。


 ・・・彼は死にました。 

拾いすぎてはいけません。でも・・・すべてを大事にもたなくてもいい

2009-10-20 00:04:41 | なか
2009年10月20日

 「秋晴れ」とはこのことを言うのかと思った。雲ひとつない。山に向かって空の青は広がっていて、稜線が近づくと微細なグラデーションのようにその色は白く薄れていく。澄んだ秋の夕映えもいい。夜にはオリオン流星群が見られるのだろうか。

 飽きもせずに何か景色を眺める経験はあまりない。そんな素敵な景色に巡り合える時ほど、その場に長居することができないものだ。いざ勇んで素敵な景色に出会おうとしても、案外なんの感動も感興もなかったりする。そういう意味で日常は面白い。

 出会おうと思っても出会えないこともあるし、そうでないこともある。何かとの出会いは複雑であるけれど、「ひと」であり「もの」であり、出会いそのものが奇跡的な確率をたどっている。もし一年前に出会った人に、今出会うなら、それは同じ出会いにはならない。人は日々変化も成長もするからだ。もちろん毛がなくなることもある。過去の自分にもうだれも出会えないと考えるのは、さみしくもあるが、結局その分新しい何かが自分に加わるわけだ。


 時間軸と場所、人間が交差し、ものがあふれるこの日常で、一つ一つの出会いはやっぱり貴重だとしか言えない。もちろん背反する「別れ」も大切なことだ。
私たちは何かを拾ったり、こぼしたりしながら今を生きている。
拾いすぎてはいけないし、すべてをこぼさないように無理をしなくてもいい。

 自然体で、心地よさを感じられるように生きてみよう。
 少しの勇気以外、人は生きるすべを知っていると思うからだ。

形も重さもない

2009-10-05 03:30:28 | なか
2009年10月5日
 

 飲めば飲むほど・・・
 二日酔いでけだるい

 残念ながら世の中お酒と煙草だけでは解決できないことばかりだ。
 饒舌になればなるほど言葉は重みを失っていくし、煙草を吸えば吸うほど血管は悲鳴をあげる。煙のように形も重さもない言葉が宙に浮いている。それは不思議なことなんだけれど、飲めば飲むほどいっそう正体を際立たせて悩ませる。その正体は責任のない言葉たち。
 酒は楽しもう。不毛な言葉たちと手をとって踊り明かせば、少しは気が晴れるかもしれない。

 問題は山積みだけれどとにかく一区切り。



 さあ・・・どこへ向かって歩き出そうかな。



 
 

トランペット狂の詩

2009-10-02 03:33:33 | なか
2009年10月2日

 朝ごはんを食べて・・・
 ギターの弦をアーニ―ボールに張り替える。
 トランペットは高いミまででるようになった。
  それだけでなんだか世界が変わったように思えるんだから、人間の感覚なんて現金なものだ。すこし厭世的になっていた自分が滑稽にすら思えることがある。

 鬱屈した感情を抱えた人間が広大な自然を目の当たりにして何か浄化されたような気持になるなんてこともよくあることだ。世界で2番目に大きい一枚岩を最初に彼が見たとき、自分の悩みの小ささを知ったという。人間とはこうも小さく無力であるのかと・・・

 大自然への畏敬から自分の存在のちっぽけさを自覚し気持ちが晴れていくこともあれば、何気ない日常の変化がそれを感じさせてくれることもある。束縛、悲しみ、逆境を食べながら人は生きていく。それによって自由と解放、喜び、成就感や達成感を際立たせる。


 「束縛があるからこそ  わたしは飛べるのだ
  悲しみがあるからこそ 高く舞い上がれるのだ
  逆境があるからこそ  わたしは走れるのだ
  涙があるからこそ   わたしは前に進めるのだ」
                 マハトマ・ガンジー

 今日はガンジーの誕生日だったね。
 あなたが今日の世界を見たらどう思いますか?
 
 世界は争いが絶えませんが、なんとか人間は生きていますよ。
 そして僕は吹きますよ・・・トランペットを

本当に大切なことはなんだろう。

2009-09-11 23:59:59 | なか
9月11日(金)


 一週間お疲れ様でした。このブログは免疫異常の人のハゲログです。いい天気でした。この天気を「少し肌寒いね」というか「過ごしやすい天気だね」というかではだいぶ違います。そんなひとことが次の会話を支配することもあるんだから不思議です。とりあえず第一声はポジティブよりの言葉を選ぶと会話も楽しくなるかもしれません。・・・ならんかな。


 あるジャングルの部族が雨乞いをすると必ず雨が降る。それはなぜか?
子供だましのようだけれど・・・・・答えは「雨が降るまで雨乞いをするから」


 松下電器の創始者である松下幸之助さんの言葉。
 『失敗したところでやめるから失敗になる。成功するまで続ければそれは失敗でなくなる。』

 失敗は成功への布石だ。成功という強いイメージを持ち続ければ、失敗があっても、それは取り返しがつかないひどいものではないはずだ。

 失敗したくなければ成功するまで続ければいい。
 もちろん多くの人は失敗で終わる。だから成功したければ強い意志を持ち続けるしかない。人並みでは成功はありえない。成功の対極に失敗があるのではなくあらゆる失敗は成功に包括される。
 もし仮に成功というゴールにたどり着けなくても、失敗から何かを学べばそれもやっぱり失敗ではなくなっていくと思う。

 「転んでもただで起きるな。」
人は失敗を成功にも成長にもつなげることができる。

 逆にいえば失敗しない人生は不幸な薄っぺらいモノになってしまうかもしれない。ものはいいよう、考えよう。一つ一つが生きることを豊かにもするし貧しくもする。でも・・・本当はどうでもいいんだよ。本当は。でも失敗を悲観するくらいなら、どうでもいいことを貧しい理解で留めておくことほど愚かなことはない。思い、考え、やはり生きることは面白いと思えば今日のこのブログは自分にひとつの意味を与えよう。

 それでいいさ。


今日の頭皮 「愛こそはすべて」
明日の予想 ビートルズ

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「時間の自由」は平等なんよ

2009-08-02 02:08:11 | なか
8月1日(土)

 今日も皆様お疲れ様です。暑中お見舞い申し上げます。
カルボナーラさん、ライブいけなくてすみませんでした。夏バテていました…。
このブログは不思議な脱毛症に襲われたモゲのブログ。モゲログです。

 やっと夏らしい暑さが戻ってきたのはいいですが体調を大切にいかないといけませんね。角度のある真夏の太陽からの日差しが頭皮に突き刺さります。近所の畑のヒマワリが、まるで赤ん坊が伸びをするように咲いています。でも、よく見ると皆ばらばらの方向を向いているんですね。「おいおい、ヒマワリは太陽の方向に花を向けるんじゃないのか」と考えましたが、どうやらその原因は自分の住宅の影なのではないかと思いました。南向きの住宅の陰に半日ほど入っているわけですから、ヒマワリも大変です。植物にも日照権を保障してあげなきゃいけませんね(笑)

 フランスだかどこかでは、20代後半から30代を「夏のひまわり」というそうです。女性が一番華やかで美しい時期だからでしょうか。男はまだまだバカな気がしますが・・・。人生を一年ととらえたとき、自分は今どのあたりにいるんだろうかと思うことがあります。もし70年生きるとしたらまさに今は夏の時期。やはり、何かに打ち込んだり、がむしゃらに何かができる時期ですね。
 秋が深まれば、人間としての色や人間味が深まればいいですし、冬が来たときじっと腰を据えて己が人生(一年)についてかんがみるのも一興かもしれません。

 それにしても、時は無情なほどに日々刻々と移り変わり、自分やその周りの景色を変えていきます。私たちは時に抗うことはできないけれど、たった一つの確実に言えることは、「時間の自由」は誰もが平等に与えられるものであるということです。金持ちも貧乏人も、天才も秀才も凡才も。健康な人も、死と隣り合わせの病の人にも、もちろんハゲにも「時間の自由」は与えられている。この時間をどう使っていくか。極端な話、仕事に行くもいかないも自由ですからね。
 それを含めた意味での「時間の自由」

 時間を浪費するのが悪いとは思わないですが、その浪費した時間を言い訳にするくらいなら何かをしなくてはと思う。時に浪費も必要だろう。大切なことは「時間の自由」を自分に還元すること。もし、こうなりたいと理想があるのなら、才能や能力を穴埋めするくらいの「時間の自由」は誰にでもあるんです。時間は誰にでも限られるが、その限られた時間をどうやって使うか…。
 自分にはそれが試されているのではと思う今日この頃でした。

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明日の予想 コンサート

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こころの二極化

2009-07-29 23:07:43 | なか
7月29日(水)

 今日も一日ごくろうさまです。このブログはひどい脱毛症になった人のブログ、モゲログです。また、コンサートに向けて今日は帰宅してからギターの練習です。最近は忙しさも落ち着いてきて、少し自分の夏の目標が決まってきました。この目標はなかなか大変なものですが、今からコツコツ努力をしたいと思っています。

 
 日本の民法では20歳が成人と規定されているんですが、今、その成人とみなす年齢を18歳にしようという議論の声が高まっていることをご存知でしょうか。政府が成人年齢の引き下げを検討しているとの報道は記憶に新しいところです。世界各国では多くの国が18歳を成人とし、選挙権や自己決定のための権利を与えています。サミット参加国だけ見ても、成人年齢が20歳なのは日本だけです。賛否が分かれる議論ですね。

 自分としてはそんなことはどちらでもいいんですが、「成人する」ことが、「自立する」ということでいえば、自分の生を自分で引き受ける覚悟ができるかが大切だと思います。
 とかく私たちは、自分の性分や性格、能力すらも環境のせいにする。確かに、自分の育った環境は、その人を形作る大切な要因かもしれないけれど、成人するころまでには、もう充分「あなた」は完成されているはずです。換言すれば、遺伝的要因も環境要因もそれからの自分の成長にはほとんど関係ないということです。あとはあなたの意思が将来を決定づけていくし、その意味で自分の生を引き受けなければいけない。
 「自立する」とはそういうことだと思うんです。

 「こんな私に誰がした」ではないけれど、大人であれば、自分の自己実現もスキルアップも自分の意思を始まりとします。「よし!!やろう」とする気持ち。そこには環境は関係がない。多少の煩わしさや障壁とするものはあるかもしれないけれど、それを乗り越え何かをしようとするのは、自分の意思によるんです。自分の意思を働かせようとする強い意志が必要なんです。
・・・・ちょっとややこしいかな?
 
 ある人は、自分が大学にいけなかったのは家が貧乏だったからだと言った。
 たしかにお金がなければ大学進学は難しい。でもそんなことは理由にならない、本当に行きたければバイトをすればいい。奨学金を借りればいい。それは体のいい「いい訳」をつくりだしたいだけ。それでは自分の生を引き受ける覚悟が足りない。本当に自分がやりたいものが見つかったときには労力がいる。努力もいる。もちろん大切なものを捨てなければいけない時もある。それを含めて、よりよいものと考える未来に向かって自己決定できるか。意思できるか。それが大切なんです。

 自分は忙しいからとか、恵まれない環境だからとか、ましてやハゲだからなんて言ってられない。もう環境のせいにしてはいけないし、人のせいにもしてはいけない。あなたは自分が考え行動するという意思を発する唯一の存在だから。

 この二極化の顕著な現代社会で、自分の生を自分のものとして引き受けることができるか・・・そこにも大きな2極化は存在すると考えるんですよね。

モゲログ的にいうなれば「こころの二極化」


今日の頭皮 えらそう…
明日の予想 気を悪くなさらないで…

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