昨晩、娘とレゴで遊んだ。ご飯も食べず、風呂も入らずにやっていたら
気付くと8:45(手話ニュースの時間)
こんな日いいな。娘も「たのしい」とひとり呟いていた。
私がこんなゆるゆるな日は、夫が過干渉気味になるが、その夫も
細かすぎて伝わらないものまね選手権を見てたのでお互い関与せず。
連休明け、病み上がり、先週のやなことをまだ引きずってそうな感触、
昨晩のママさんのメールに気付けず連絡が遅れたこと、宿題、学校での
娘のこと、全ての不安材料が完全に私の手元から離れているような気が
します。「あ、対策、解決、なーにも出来ないや」と、なんだか晴々
したような、安心したような気持ち。
今日はとってもスムーズに家を出た娘。出る直前まで私もアイロンを
かけていたので動画閲覧している娘に何も干渉しなかった。
娘に何か辛いことがあったら、それがわかる年齢になったら、
私は一体どうすればいいのか?どうなってしまうのか?
何をどう捉えたらいいのか?
今の答え、「娘の人生、経験の邪魔をしない」
何があってもそれは娘に起きたことなので、
娘がたくさんそれに向き合ったり、感情を感じられるようにする。
おそらく、私は自分のことよりも娘のことになると感情が揺れ、
パニックになるかもしれない。それではだめなんだ。本当に。
その、脅威な出来事!として捉えてしまう心、この身が。
ここまで書いておいて、
・面倒だから
・行動を起こしたり、抗議したり出来ない私だから
・味方がいないから
単に、そう思うようにしているだけかもしれない。という意見にも
なりそうです。それが言葉では全く伝わらないところです。それに
あぐらをかくと、はたまた成功体験としてひとつの模範にしてしまった
途端、そういうことになるのかもしれないのです。確かに。
全て手放す、その都度手放す。
全ての出来事、状況、景色に神を感じる練習をする。
神の子である私を忘れない。
私が思っている理由でそうなのではありません。
常に神に包まれている私を忘れない。
何を書いても胡散臭くなってしまうのは、文字だから。言葉だから。
分離したこの身体が解釈するから。