梟の独り言

色々考える、しかし直ぐ忘れてしまう、書き留めておくには重過ぎる、徒然に思い付きを書いて置こうとはじめる

信仰と宗教と

2022-09-22 11:14:14 | 雑記

宗教虐待と言う記事を見た
親が狂信的な信者だと子供も親の支配下に置かれて生き方や考え方をその教義に従った生き方を強制される事を指すと言う、
「旧統一教会」の問題が顕在化した事でその子供達が「虐待にあたる」と声を上げた、
生まれた時からおかれた家庭環境がその宗教の教義に従って生活をし、世界の判断基準もそれに従って育って行けばその判断基準である程度までは生活して行ける
しかし自我が確立してくれば当然自分の判断基準、親、家庭の基準が世間と違う事に気が付いてくる、
それでも親の庇護の下でしか生きる術のない生活では逆らう事はもとより、「親の生き方」に異論を唱えると言う事、親を否定する事の軋轢は大変な事だろう
それでなくとも自己確立をするための親離れの時期は「反抗期」として一般的に起きる、
「宗教の自由」は親の宗教とは関係なく子供達の独立した権利だが親が子供に対して自分の信ずるところを言い聞かせる事も間違いなく「信仰の自由」でもある
統一教会の様な極端なカルト教団的な信仰では本来与えられている筈の恋愛の自由も結婚の自由も厳しい箍がはめられていると言う、
しかし、他の新興宗教と言われる教義では「生き方」の指針の様な信仰教義の様だ
その教義から子供が離れる事がどの程度あるのか、あるいはその時親子間でどんな軋轢があるのかは分らないが恐らく子がその信教を離れてもそれほど大きな軋轢は無いのではないかと思う、
私は宗教と言うものに興味が有った、それは信仰と言うより単純に好奇心でではあるが考えると我が家の宗教環境と言うものがきっかけだったかもしれない
父親は“自称”無神論者だった、今考えるとあまりあてにはならないが「大宅壮一派の共産党」だと言う、
確かに共産党は無神論者ではあるがそこまで信念があったわけではなく一種の気取りだった様な気もする、
母親はクリスチャンだった、が別にクリスチャンとして子供に宗教的な話をすることもなく、近所の人は全く知らなかっただろうと思う、
たしか「神父さん」の話をしていたのでカソリックだったのだろう
旧約聖書の物語をよく聞かせてくれたり、讃美歌を歌ったりしていたが生活は当然だが田舎の風習のまま村の鎮守に参り、法事は仏式だった、
まあ、村に生きるのは当然だろうが時々出かける街にある教会にも行ったと言う記憶もない
下の姉は住み込みで働いた先が創価学会員だったので仕事上ではあるが入信させられた、
しかし毎日やらされる朝夕の勤行と勉強会に行かされているうちに結局のめりこんでいた
当時の学会では勧誘することを「折伏・弘教」すると言っていたが年配の女性が話すと結構とんでもない事を言っていた
「世界中の人が学会員になれば全人類は病もなくなり豊かになる」「あなたの生活が苦しいのは学会に入らないから」くらいの事は言っていたしどうやら本当にそう思っていたような塩梅だった、
父親の義姉が学会員である時屋根の杉皮が飛ばないようにと置いてあった石が偶々家を出ようとした彼女の頭に当たったことがある、「信心のおかげでこんなけがで済んだ」と言う
無神論者を標榜する親父が「信心をしていたらそんな不幸なことにゃならんだろ」と余計な事を言ったら「信心をしていたからけがで済んだ、信心をしていなければ死んでいた筈だ」と言う、
件の姉の話である、姉は中学を下りるとすぐ集団就職で鷲津の紡績工場に就職した、しかしまだ最低賃金法もない時代、織子の職業病の肺結核を患って1年余りで退職した、
家にどの位いたのか少し体調が調ったら街に働きに出たが結局夜の仕事になったがここで学会員となった、17歳の時、母親が癌で死んだ、少しの間家に居たがすぐまた浜松で夜の仕事に就いたが
19の歳に私と父親の乗ったバスが事故で転落しやむを得ずまた田舎に戻って来た、
父親のベッドの隣の患者だった一廻り以上年上の男性に望まれて結婚するが子供を二人授かり、街のはずれで始めた餃子の店も軌道に乗ったとき、亭主が脳溢血であっけなく死んでしまった、
「信心のおかげ」は全く姉の人生には及ばなかった、それでも信仰は捨てない、
しかし、“私は不幸だ”だから世間は私を助けなければいけないと言う考え方はいつか親しい人(兄弟も含めて)は距離を取るようになってしまった、
神や仏の加護ではなく、信仰と言う事、各々の宗教の説くことに興味を持ったのはそんな経験からだったかもしない、