梟の独り言

色々考える、しかし直ぐ忘れてしまう、書き留めておくには重過ぎる、徒然に思い付きを書いて置こうとはじめる

70万で3200万をチャラにして貰った話

2023-07-02 10:51:55 | 漂泊の記
40歳の時に設立した会社がどうにもならなくなったのはもう何年前になるか
バブル景気のおかげで中卒の自分が女房のへそくりとなけなしの預金を使って当時は未だあまり認知されていなかったCADのデータ入力会社を設立し一時は年商1億を超える会社にしたのだが所詮隙間産業で体制を立て直すことが出来ず20年目の年に破綻した
信用保証協会の保証で借り入れは代返されたが保証協会には「経営者個人保証」として1900万の債務が残った、
女房の名前で作っておいた会社で細々と続け、知合いの紹介で太陽光発電の開発にシフトし
何とか未払いだった税金は本税だけで猶予してもらって済ませたが保証協会の債務はずっと残っていた、
毎月1万程度を支払って来たが延滞金すら届かずその額は延滞金を含め今年の3月で3200万まで膨らんでいた
75歳、これから収入が劇的に増える事は望めない、このままだと負債は女房、子供達に相続されてしまう、
女房と話し合って個人破産をしようかと考えて調べていたら去年の8月頃中小企業庁が
経営者個人保証が新規事業の発展に対して心理的なハードルになっているとして原則「経営者個人保証の廃止」を打ち出していたい、
過去の個人保証も原則猶予としてその条件は「現金・預金を99万まで残す、家は華美贅沢で無い範囲で残す」と言うガイドラインを出していた、
この事を保証協会の債権回収会社「東京保証協会サービサー」と言う会社に電話を入れた
しかし「あくまでガイドラインなので強制力はない」と言う返事だったのだが
「それでは自己破産をした方が良いのではないか」と言うと「幾らなら一括支払えるか」と言う話になり何度か面接をして結局70万円を返済する事で残りを免除すると言う事になった、
実は前項の現金99万云々は自己破産の条件で破産手続きをすればこの条件になるのだが司法書士事務所に問い合わせたら「35万」が最低ラインだったのでそれならばと70万を工面して破産をしない事にしたのだ
保証協会から「70万を受領しました、債務に関して一切存在しない事を確認します」と言う「確認書」をテーブルに置いて女房と小さく乾杯をした
「お疲れさまでした」と言う女房に「ご迷惑をかけました、すみませんでした」と頭を下げた、
毎月の1万弱だった返済が無くなっただけでそれ程生活が楽になったと言うはなしではないのだが兎に角これで名実共に負の資産から解放された、
後何年仕事を続けられるか解らないがこれで堂々と給料が取れる事になったわけだ、稼がなきゃあな
駐車場の脇にプランターでミニトマトを育てている人がいる、誰も採りそうもなくただ熟れて朽ちて行く


映画街とあの頃

2023-04-09 11:15:17 | 漂泊の記
日比谷映画通りを抜けると突き当りは帝国ホテル、右に折れると向かい側は日比谷公園である、
公園入口の右側が日比谷花壇でその後ろが日比谷公会堂だ
左に行くとガードが有り、その先左に泰明小学校で最初の路地を新橋方向に折れる角に「銀座ACB」銀座アシベが有った、
通りの名は「みゆき通り」で昭和40年代か。この通りに屯するみゆき族と言う連中が居た、
黒のロングタイトスカートに麻袋が流行のファッションで思い切り細いタイトスカートなので腰をひねる様な独特な歩き方をしてこの通りを行ったり来たりしていたようだが私がこの辺りで働いていた頃はもういなかった、
劇場にアイスクリームを卸して歩くのは売子さんの居る時間に合わせて納入する
売子さんは各劇場の休憩時間を渡り歩くので休憩時間に合わせて車を止めて待っている
ある時みゆき座の前で納入待ちをしていたら若い女性が脇を通り過ぎた
その時一陣の風、である、見事に背中の上までスカートがめくりあがった、
スカートを押し下げて振り返った彼女と眼が合った、
「見た!」と彼女、
「白!」と俺、
「すけべ!」と彼女
中々粋な娘さんだった
休日に映画館街に屯していると色んなことが起きる、
弘田三枝子が「人形の家」のキャンペーンをやっていて(邪魔だな)と思いながら脇で見ていたら彼女が「あっアイスクリームだ、ちょうだい!」と言われたことがあった、
和製ブレンダリーと言われた丸まっちい女の子ががっちりメークで再登場したのでアナウンスを聞くまで気が付かなかった、
無論、あげはしなかった、持っているのは50個入りのケースだ、
有楽座ではなんかの撮影があって開館前の観客席と入口通路で若い女の子が二人、スタッフが探しているのを面白がってドアを出たり入ったりしてふざけていたのは小山ルミとジュディオングだった、
油にまみれて工場の仕事からこんな世界に来てしまったのは人生どうなるか解らない、
この頃から行き当たりばったりの先の事を考えない漂泊人生が始まった

映画の東宝に務める事、漂泊の始まりだ

2023-03-19 15:38:44 | 漂泊の記
ホンダを辞める事を決め、荷物を運びこんだ寮でまた新聞でこれまでと違う仕事を探す
まず住めるところが無いと困るので住居有りを条件にさがした、
今度は東京の西外れ、大田区久が原と言う所の「東宝食品」と言う会社のルート配送の仕事に就いた。
会社は映画の「東宝株式会社」の子会社で劇場映画館のアイスクリームの製造している会社だった、
有楽町の小さなビルに営業部が有って工場は久が原だが何方が本社登録だったか覚えていない、
住まいは工場の近くでアイスクリームを積み込むと有楽町の事務所に行ってから配達をする、
当時は映画全盛時代で日比谷一帯は多くの映画館がひしめいていた、
有楽町駅の新橋寄り出口を出て晴海通りを日比谷公園側に少し行った最初の信号を渡りその道を進むと円形の塔がある映画館が日比谷劇場、007は此処に掛かった、
路地は斜めに右方向に曲がると大きなエントランスのある映画館が「有楽座」だ
此処には「マイフェアレディ」とか「キャバレー」とか珍しいソヴィエト映画の「戦場」や「カラマーゾフの兄弟」なんかが掛かった、
その先は東宝作品専用の「千代田劇場」、その先の道は「ゆき通り」向こう側は帝国ホテルある、
左に曲がると「みき座」とその上に「芸術座」がある、
みゆき通りを真っすぐ行くとガードをくぐり左に泰明小学校がある、
駅の南側は「日劇」の丸いドーム状の建物がある、「ウェスタンカーニバル」は日劇だった、
その上には「日劇ミュージックホール」と言うレヴユーの踊り子には「あき竹城」も居たそうだが当然そのころは知らない。
日劇の地下には食堂や酒場が有ったが更にその下には劇場の食堂があって自分達は東宝の人間なのでそこで時々昼飯を取ったがミュージックホールのダンサーが三角形のスパンコールと乳首にふさをぶら下げて飯を食っていたのに最初はかなり驚いた
何しろ22~23の健康な男である、脂粉の臭いと豊満な女性の肉体に囲まれては食い物の味も良くわからなかったが何度か行くとそれも慣れてしまうものである、
東宝は劇場だけではなくレストラン関係も多く経営していた、
東宝アイスクリームと言うブランドで「24種のアイスクリーム」と言うのがうたい文句で山手線の駅前に「東宝パーラー」と言うアイスクリームパーラーを経営してたがこれは東宝食品株式会社ではなく「東宝食堂」と言う会社が経営をしていた
有楽町界隈にイタリアンレストラン「リベラ」とか「インドネシア・ラヤ」と言ったドライ関係は「東宝殖産」と言う会社が経営をしていた
それまでの生活とは全く違った職場で水を得た魚が如く、勝手気ままないいかげんな人生の始まりである

日立を辞めた事

2023-02-27 10:43:40 | 漂泊の記
日立のオリジナル「パンポン」はテニスと卓球の混合
19歳になったとき日立を辞めることにした
理由は色々あるが一番大きかったのは「他の仕事に就けばきっともっと良くなる」と言う思いだった
仕事がいやになったとか、人間関係がいやになったとかではない
基本的にその後の転職も「今の仕事が嫌になった」と言いう事では転職をしたことは無かった、
集団就職、中卒は金の卵と言われた時代、仕事は幾らでもあった
就職した企業も一流の日立製作所で世は「長大重厚」企業真っ盛りの頃、
組合の力も強くなっていって春闘、年末闘争とストライキを繰り返して毎年二桁のベアが有って将来の不安もない生活になっていったのだが、
レントゲン製作課と言う所でトランスの組み立てと言う仕事はどんなに不器用でも半年もすれば一人前になる単純作業だ、
機械工の様な技術職ではないので努力の必要もないが全く成長と言う事とは無縁の職場だ、
新聞の募集欄は三段抜きから三行、一行の募集が見開きに一杯にあった
その頃本田技研が狭山工場を増築し新社員を募集していたので応募したら面接もなく合格通知が来た、
後日談が有って退職と退寮届を出したとき管理人の北山さんから「数週間前、I君に婿養子の話が有って、と身元調査が有ったが良い話だと褒めておいたのが徒になった」と言われたが怒ってはいなかった、
本田技研の寮に入り、出勤をして職場を案内してもらった、
日立製作所とは違って明るく整然とした工場で事務所も全く仕切りのない近代的な会社だったが、(これではない)と思った、
結局翌日からまた新聞で別の仕事を見つけると1日出勤しただけで退職をしてしまった
幾ら清潔で明るくともベルトコンベアで流れてくる車の組み立てをずっと続けると言うのでは日立時代と何ら変わらない、
「何かある」と思って飛び出した世界は此処ではない、
何の根拠もない自信と将来はよく調べもしないで自転車を押して東海道を200kmも走った事で沁みついてしまったのかもしれない
余談:もしあのままホンダに居たら多分「S800M」を買っていただろうなと言う事だけが残念な事である、

合コン

2023-02-14 10:30:38 | 漂泊の記
当時の清洲橋
18歳になった頃小岩の借り上げアパートから食堂付きの寮に引っ越した
新京成線の高根木戸と言う所で二人部屋が15室の2階建て渡り廊下でつながった食堂のある新築の寮にである。
これで休日以外は寝るところと3食が保障されることとなったのでいよいよ貯金は残らなくなった、
北川さんと言う夫妻が管理人で10代の女の子が4名で朝食と夕食を提供してくれる、
亀戸の工場までは1時間弱だったが当時のラッシュは想像を絶する状況でピークに乗ると亀戸で降りることが出来ず両国まで行って戻ったこともあったくらいだった
朝食は7時からだったが大急ぎで取って出勤する、
工場の正門が開くのは8時だったので開くまで待つこともあるがラッシュよりましだ、
自分は田舎育ちで繁華街に出るより野原山谷が好きの方だがどっかお調子者の所が有って人に煽てられるといい気分になって色んなことをやらされた
組合に「レクレーションリーダー」と言うのが有って通称「レクリーダー」と言うのだが組合委員から「お前に向いているから」と言われて引き受けることになった、
亀戸工場は基本的には男性工が多い、と言うより殆どが男である
しかし錦糸町と亀戸の中間位に精工舎の工場が有ってこちらは殆どが女工さんである
組合付き合いからそこのリーダーと連絡を取り合って合同で色んなことをやった、
今でいう「合コン」の様なものである、いつの世も需要と供給はマッチする
合同で「クリスマスパーティイーをしよう」と言う話になって高根木戸の駅前の食堂の様な所を借りて計画をした、
この当時は「スナック」と言う形態の店は無かったので今考えるとよくわからない店だったが一階は八百屋や魚屋肉屋が入っている「何とかマーケット」と言うやつで2階が食堂兼飲み屋である
古い記憶なのではっきりはしないが男女合わせて50~60人位が入ってもそれほど狭く感じなかったので結構広かったと思う、
組合からスポットライトと音響装置を借りてきて気分を出そうとミラーボールを取り付けることにする
何しろ電機工場である、部品も技術屋も十分にある、部品のモーターにギヤを取り付けてその先に昼休みに使っているドッジボールをセットし、機械加工の連中がステンレスの切れ端を丁寧に貼り付けて即席のミラーボールを作ってしまった、
これは成功し絶賛されたのだが企画した自分たちは準備に1ヵ月、パーティーがはねてから撤去、清算と殆どパーティー自体は楽しまなかったのだが達成感で充分におつりが来た、
通いの若者達には冷たい眼で見られていた気もするが少し優越感も味わえたものだった