銀の人魚の海

日々の思いを好きに書いています。映画、海外ドラマ、音楽、本。
スヌーピー、ペコ、NICI、雑貨グッズ画像。

13年前

2024-03-11 | 2011年3月11日 東日本大震災関連

あれから13年たった。

個人的にこの13年は2つ、大出来事があった。

ここへは書いていない。

311の詳しい事は、前に書いた。

地震のあの日、私は在宅、家族一人は近くの医院へ。

揺れた時、おばあさんに抱き着かれたといい、

すぐに戻ってきた。

かなり揺れ3階の物が落ち壊れた。

だんだんと道路に人が出てきた。

TVではツナミ映像が流れ

被害が大きいと感じた。

家族はもっと都心へ勤務。

初め駅でタクシーに並んだが、2時間たっても来ない。

都心でも寒い。社に戻った連絡。

私と家族は、どうしようか・・

途中で大きな余震もあるか・・車で大丈夫か・・

考え、迷い20時前、車で港区、さらに都心へ迎えに走った。

今は規制があり入れないが、当時は入れた

30分しないうちに大渋滞。1時間で着く距離、

6時間弱かかった。

一番の印象は、帰宅難民。皆、歩いていた。

ベビーカーを押し、子供の手をひき、

ハイヒールを脱ぎ、多数の人が道路に

延々と黙々と自宅へ向かっていた。

自販機は売り切れ。夏なら完全に脱水症だろう。

あの光景は今でも焼き付いている。

ツナミでの被災者たちを思いつつ、6時間かけ迎え、

帰りは2時間くらいだったか。

ガソリンはギリギリ、あいていた家の近くで給油。

帰宅は4時近かった。

この付近はガスは揺れで停止。

翌日、午前、東ガスの方がみてくださった。

家族は先週、職場用に寝袋を買った。

東日本大震災から、地震、いつ起こるかわからないので、

居場所を家族に言う、をしている。

私には、この地震より、その後起きた2つのできごとの方が

大きい。13年は長い。

 


宮城 高橋商店 ひきこもり若者と共に

2024-02-21 | 2011年3月11日 東日本大震災関連

東日本大震災の日が近づくと、

パルシステムチラシは防災グッズが増える。

何か買っておこう。お水は常にあるので・・

羊羹、買ったが期限で食べた。羊羹は長く持つので買う。

チラシに、石巻で工場など全て失った

高橋商店の震災からの物語があった。

家族全員、命だけは助かった。

練り物工場などを東松原市に移転。18年に稼働した。

避難所で見た、小さい子たちがいる多数の家族。

怖くて泣き、何もかも失い、

いい子でいないとという子供たちもいた。

震災が原因と一言では言えないが、

不登校中学生の割合が

宮城は最も高くなった。

それを考え、ひきこもりの若者たちの就労場として

冷凍野菜などもスタート。

作業を彼らがしている写真。

今回、載っている、添加物を使わない

おとうふ揚げを買うことにした。

二人の息子さんと高橋社長、引きこもりの若者たち、

一緒に前に進んでいる。

さまざまな13年がある。


11年 美談だけではない 

2022-03-13 | 2011年3月11日 東日本大震災関連

昨日は震災関連ニュースなどが多かった。

下、ネット記事にある、絆、という言葉がトレンドになった気がする。

ミュージシャンが、絆、を歌えばそれが一番~

TVは視聴率だから絆でいこうと~なっていたかな~胡散臭い言葉、と私は思う。

簡単に絆、など使えない。愛、も簡単に使えないように。

大災害での混乱、混迷。パニック、記憶が途切れ解離症状がでることもある。

報道特集では、福島双葉町の現状を説明、町長が出て語る。

復興住宅を建設中、戻ってくる家族が多数いるか?そのお金は他に使えないのか?

反対意見もある中、進んでいる。ネット記事から・・石巻は火事がひどかった。

●「被災地」と呼ばれた東北のまちは今、どのような状況になっているのか。

また、あの時、どんな課題があったのか。

兵庫・丹波地域とも縁がある宮城県石巻市の

NPO法人「石巻復興支援ネットワーク」の兼子佳恵さん(50)は、

「『被災地』『被災者』という肩書から脱皮し、誰もが住んで良かったと思えるまちを目指しています」と言い、

「数え切れないほどの感謝がある一方で、決して美談ばかりじゃなかった

~~同法人の活動と率直な思いを聞いた。

市町村別では最も多い約3500人が命を落とし、

行方不明の人は今もなお400人を超える。

同法人は震災が起きた2011年の12月に設立。メンバーは子育て中の地元の女性たち。

何かの専門家でもない「普通」のお母さんだ。そして、自らも被災していた。

 母親たちはなぜ団体を立ち上げたのか。

きっかけの一つは、震災後、人々が身を寄せた避難所での一場面だ。

 届いた物資に大人たちが群がり、1枚のせんべいを奪い合って地面に落としたことがあった。

また、自宅は残ったもののライフラインは断たれ、

食べ物もない高齢者が物資を受け取りに来ると、

「お前は家があるからいいだろう」と、

何ももらえずに泣き崩れる姿を見たこともあった。

 もちろん助け合いも数多くあった。それは、あのころ盛んに使われた

「助け合い」や「絆」という言葉とともに報じられた。

しかし、優しさや冷静さが失われていた時間もあったのが現実。

それだけ心も非常時だった。

 もう一つがボランティアと住民との関係。

内外から駆け付けるボランティアが復旧の大きな力になり、

住民の心の支えになった一方で、被災したまちに来て、

「汚い」「臭い」という言葉を平然と使う人や、住民とトラブルになり、

「せっかく来てやったのに」と不満を漏らす人も少なからずいた。

被災した人のためというよりも、「自分がやりたいこと」をしに来る人も多かった

住民と「一緒に」ではなく、支援を「する側」と「される側」が明確に分かれ、

住民も支援があることが「当たり前」と考えるようになっていった。

「なんでもっとボランティアが来ないんだ」。そんなことを言う住民もいた。

 そんな大人の姿を、子どもたちが見ていた。

 「これではいけない」「支援はいずれなくなる。地元住民が頑張らないと~


11年 成長した子供たち 記者になった女性二人

2022-03-11 | 2011年3月11日 東日本大震災関連

今週のNNNドキュメント、昨年、ミヤギTVの記者になった女性の取材だった

雄勝町出身。東京の大学へ進む。震災を伝えようとメディア系の仕事へと。

もう一人、震災時、13歳だった女性。朝日新聞入社、辞令は仙台総局員だった

祖母は気仙沼に在住、当時いた埼玉から向かった。

高台だったので大きな被害はなく、祖母は今も一軒家に一人で暮らしている。

入社後、半年して祖母を訪ね取材をした様子が、昨日の新聞に掲載。

当時、子供だったが11年、成長し仕事を持つ時になっている。

私はあの日、20時家族を迎えに車で出た。山手通りは、初め30分くらいは

動いたが、すぐに大渋滞。1時間で着く、港区、山の手線駅近くまで、

行きは5時間くらいかかった。ガソリンもギリギリ。

その後、災害時、都心部(環状6号など)へ一般車両は通行不可になった。

前は長めの記事が多かった。11日の夜に都市部帰宅難民を長く書いたはず。

震災とは関係ないが、この11年は2つ大きな事があった。ここへは書いてはいない。

1つは、まあ普通にあるだろうこと。もう1つは、確率的に遭遇はかなり低いこと、

またあるかもしれない、軽いトラウマになっているが~

11年の被災で、何もかもなくした方が少しでも生きやすいように。

ポジティブ、前へ、という言葉は使いたくない。

今は、ウクライナ避難民がいる。

戦争はある程度は予測可能だが、地震は誰も予測はできない。

地震国日本の宿命でもある。キッチンの使わない食器を来週捨てる作業をした。

 


イワタニコンロ 使用量

2022-03-11 | 2011年3月11日 東日本大震災関連

イワタニカセットボンベ、実際使っても、どのくらいの量かはわかりにくい。

パルシステムチラシに目安がのった。コンロ、耐用年数は10年。ボンベは7年。

気温による。10度冬。大人二人、

食事3回、飲料3回、洗浄殺菌などのお湯3回 7日間で9・1本。

25度だと、同じ使用で6・3本。3本くらい違う。最低10本は準備が必要。

東日本大震災の時は都心も寒かった。ツナミでぬれなくても、

高齢者は避難所が寒く、低体温症なり数日後になくなった方もいた。

ガスコンロは必要、イワタニボンベ使用のストーブも出ている。


11年 金曜日

2022-03-07 | 2011年3月11日 東日本大震災関連

東日本大震災から、今週で11年。まもなく11日、同じ金曜日。

TVはウクライナ、ロシアの報道が多すぎ、

TVをみている日本国民ができることは限られている。

自分なりに東欧、ロシア付近、これまでの

歴史、宗教、政治などを調べ考えることくらいか~

NNNドキュメントは毎年、震災近い時、1時間放映する。

7日放映、まだ未見。新聞も記事は増えてきた。

TVは視聴率一番の世界、11年経過での限界はある。

東京新聞の記者取材記事、一部から。

まだまだ作業が延々と続く。11年経ってもこの状況、

ごくろうさま、と簡単には言えない。

●世界最悪レベルの事故から11年となる東京電力福島第一原発では、

屋外でも放射線量が高く人が近づけない場所が残り、いまだ収束にはほど遠い。

3月2日に構内に入った原発取材班が、福島第一の「今」を報告する。

(小野沢健太)

風がほとんどなく快晴の午前、1号機脇で白い防護服と顔を覆う全面マスク姿の作業員十数人が、巨大なてんびんのような機械の周りにいた。

屋外で最も線量が高い場所にある1、2号機間の汚染配管の撤去に使う切断装置だ。

不具合が続き、配管を切れずにいた。

身ぶり手ぶりを交えて議論している様子から、トラブルの深刻さがうかがえた。~~

午後3時、1、2号機西側にある高台に立つと、地上近くの汚染配管の上にクレーンでつられた切断装置が見えた。

切断時に聞こえるはずの金属音はなく、ぴくりとも動かない。

東電によると、この約40分前に切断器具が壊れた。

計画通りには進まない事故収束作業を象徴するようだった。

5時間半の原発構内の取材で記者の被ばく線量は43.94マイクロシーベルトだった。

取材班は1分ごとに被ばく線量を測定できる機器を持参し、測定した。

グラフから、1、2号機排気筒周辺にいたときに最も被ばくしていることが分かる。


東日本大震災 県外避難者

2021-04-07 | 2011年3月11日 東日本大震災関連

311前後はメディアは、震災ニュース一色になり、芸能人が

ホンネはどうか?絆、という顔をしTVに出てくる。

原発避難、家、追われる人、3月30日の新聞記事。

今も全国に2万8千人いる。多い。

国、県の支援が切れる中、自力で自立した人もいるが、住まいを追われる人もいる。

自主避難者には、わずかな一時金だけだった。住宅支援も17年3月で終了。

国家公務員宿舎に住む人、19年から2倍の家賃になり退去を求められている。

住んでいる人の親族に、「自主転居されない場合は、訴訟など法的手段に~」

という文書が届いている。住んでいる34世帯のうち31世帯の親族あて。

40代女性、コロナもあり収入が減ったとある。

皆が、10年で自立できるわけではない。個別の事情もある。

元は原発事故、それを忘れないでほしい。まだ2万以上の方が

住む場所を決められず、おいたてをうけている現実。

復興五輪はない。原発事故はまだ終わっていない。

 


震災 新聞記事 プライバシー

2021-03-11 | 2011年3月11日 東日本大震災関連

今日は地震のニュースが、ほとんど。

東京新聞記者の、ふくしま~本を読み

ここへ書いたので、他の新聞をと、東京新聞を買う。

東北の被災者、個人の10年記事が多数。

中の一人。災害とは関係なく

ちょっと不謹慎?書いちゃうね。

29さい、女性。10年前は妊娠中。子どもは

9さいになった。それは普通。

「4人の子どもが生まれるたびに、亡くなった、

二人の子どもが夢に出てきて、見守ってくれる。」

計算してしまった。6人産める?

夫、結婚などは書かれていなかった。

 

 

 

 

 


10年前

2021-03-11 | 2011年3月11日 東日本大震災関連

さっきアップ。近くで買ったオイルサーディン、は備蓄になる。

10年前、20時決意し家族を迎えに、さらに都心まで車で走り、

深夜にやっと帰宅できた。ガソリン、ギリギリ。

家の近くのGSがあいていて給油、あと少しだった。

迎えにいったのは事情もあった。今は一般の車は

環状6号の中へは行けないので、できない。

もし余震が大きかったら~考えつつ走ったが、無事に帰宅できた。

津波の報道を聴きながら。まだ不明の方もいて先日も発見された。

10年過ぎてどこかで見つかるといい。

都心部、うちのあたりはガスがとまり、東ガスが来て、12日復旧できた。

10年、個人的に2つ大事があり、短かった気がする。

原発の本を読み、書いた。まず原発がどうなるか、その方向を

しっかり政府で出してほしい。

 


まもなく10年

2021-03-10 | 2011年3月11日 東日本大震災関連

本、ページに東京新聞記者、片山夏子さんの

「ふくしま原発作業員日誌」の感想を、4日から書いている。

10年前の今日、私はパートの仕事に普通に行っていた。

10年たち、被災地の方がどうかわったか、新聞に載っている。

もうすっかり生活が安定している方もいるだろう。

福島の原発避難区域の方は簡単にはいかない。まだ長くかかる。

私も、10年でとても大事が2回あり、生活、精神面で変わった。

普通あまりないことが起き、考え方が少し変り、昨年からは生活も

大きく変化した。

そんな自分の10年も感じる3月。毎年、大渋滞でさらに都心へ

車で数時間かけ迎えに行ったこと、そしてTV映像の津波は忘れない。

このブログは10年以上たち、今も続いている。


発災からの3日間 NHKBS1スペシャル

2021-03-09 | 2011年3月11日 東日本大震災関連

東日本大震災関連、NHKを録画している。

これは、初めて見る映像がまとまっていた。

発生時からの大混乱、東北、関東圏、

東京は渋谷、品川、千代田区あたり、各地の様子。

NHK取材ヘリが飛んでいた。

13日は震度5以上の余震が220回もあり、避難所、体育館内でも

大きく揺れていた。

NHKヘリの方。取材中、救助を求める姿を見て、今は助けられない~無念。

その後彼はNHKを辞めた。映像の方かもしれない。

24時間経過後も、救助を待つ人は各地で1万人を超えていた。

電気、電話も不通、情報は得られず、自治体かららしい方が、

今日はもうわからないので辛抱くださいと避難者の前で語った。

病院へも負傷者が多数、どれほど大変だったろう。

13日が救助者が一番多く、14日の救助はわずかだった。

まだ水がひかない、散乱するがれきの中、自衛隊がヘリから助ける様子、

10年たち、あらためて涙。生還でき良かった!

福島、原発、15メートルの津波が来て損傷。

その後水素爆発で住民への避難指示が拡大され、8万人くらいか?

双葉病院の入院患者がバスで避難、バスの中でも多数亡くなった。

これは、先月あたりに書いている。

映像を冷静に見ると日本の地震は恐怖でしかない。

他の災害、例えば台風、火事、竜巻、疫病などは事前にある程度知る事が可能。

地震だけは今も予測はできない。

大津波をみている地元の方が

「なんだろう、これは~いったい何だ~」を何回も繰り返していた。

茫然自失、日本はいきなり地震がくる国、そう思い生きていないといけない。

考えれば、この地震まで地震での原発大事故はなく

原発の耐震強度は住宅メーカーよりずっと低いと知った。

まだ原発事故はない、と信じている人がいる。ジョークにもならない。

地震はないが治安が悪い方がまだいいと思うような、10年前の現実映像だった。


家族 東日本大震災から10年 新しい生

2021-03-09 | 2011年3月11日 東日本大震災関連

1か月以上前の記事、切り抜いていないので、記憶でだが、

震災で両親、妻、子供を亡くした男性55歳、6人を亡くしたとあった。

子供は3人いたのだろう。どんな気持ちで10年生きてきたのか~

現在の家族。再婚し子供3歳、自分の子ができた。10代の子供は

妻の連れ子だろう。

長い年月、家族がまたでき変化があった。

2日に宮台真司がFMで語った、人は死があるから、新しい生がある。

6人亡くなり悲しみ、絶望の淵にいたのかもしれないが

その後、今の妻に出会い、子供が生まれ、新しい生となった。

死と生は、大昔からつながっている。


双葉病院の死者

2021-02-27 | 2011年3月11日 東日本大震災関連

東日本大震災から間もなく10年。

新聞、記者があるく、連載が始まっている。下記、ネットから一部。

新聞掲載を読み。

双葉病院で多数の死者が出たことは、少しして知った。

「遅れた批難 50人の死 救えなかったか」、28歳の記者は訪ねた。

東電を相手に裁判もあったが、全員無罪になった。

12日避難指示が出た。電話が不通。病院から役場へ行った職員が町に直談判した。

避難用のバス、ストレッチャーが必要~16日まで5陣に別れいわき市へ搬送した。

亡くなった50人は一陣のバスに乗れなかった患者だった。

2陣のバスを開けると異臭がし、亡くなっている方がいる。

オムツが外れ、点滴も外されていた。

避難の体育館は底冷えがし患者は衰弱した。どこで受け入れるか右往左往した。

遺族の一人は、母がいつ死んだかもわからない、という。~日頃としか。

遺体そばには、直前にあった卒業式のお花を供養に飾った。

この1年、コロナで、ほぼ会えず亡くなる方もいる。

10年前、双葉病院では、バスでひっそりと亡くなった方がいる。

50人という数大きい。原発事故がまた起きたら、

近くの病院の患者はどうなるのか・・

ネットから

〇私(28)が近づいているのは福島県大熊町にある「双葉病院」。

あの日、そばの系列の介護老人保健施設も含め、患者や入所者436人がいた。

写真・図版双葉病院の東病棟。柵の向こうの敷地には背丈ほどある草木が生い茂っていた=2021年1月23日、福島県大熊町、小手川太朗撮影

 町内に立地する東京電力福島第一原発が爆発して放射性物質が降り注ぐ中、救出活動は混乱した。全員の避難までに地震発生から5日かかり、約50人が死亡した。

 救える命だったのでは――。その後の裁判の経過をたどっても、政府の事故調査・検証委員会の報告を読んでも疑問が晴れない。改めて現場に向かった。

 350床あり、精神科を中心とした地域最大の病院だった。事故を起こした原発からは南西4・5キロ。放射線量が高く、今も立ち入りが厳しく制限される帰還困難区域にある。


311の記憶走行

2019-03-11 | 2011年3月11日 東日本大震災関連

8年前、今頃、どこを走っていたか?
品川区に入っていたか?

ここへ詳しくかいたが、読み直してはいない。

あの日の夕食がカレーだったこと、
金曜日だった、はしっかり覚えている。

家族一人は在宅、近くのクリニック受診、
ちょうどそこで地震がきた。

若い家族は仕事、やっと連絡がとれ一安心。
タクシーで帰宅というので待っていたが、タクシー並んでも
全く来ないといい、社に戻った。

夜になり寒かった。

迎えに行かないと、これには理由がある。

夜8時に車で出た。
港区、海岸よりの社まで、行けるか~

初めはわりにスムーズ、30分過ぎると渋滞に。

それからは、ほぼ動かない。
普通は1時間弱が5時間くらい、だったか。
途中で車に積んであったオムツをはいた。

都心の帰宅難民を多数見つつ
社の近くも全く動かないので車から降り
800メートルくらい、徒歩で迎えに行った。

上司と一緒に出てきて一安心。

自販機も売り切れ、ハイヒールを脱ぎ歩く女性たち。
今でもよみがえる。

12日になり帰宅道路は、もう大渋滞は少し解消されていた。

被災地の方に比べたら100万分の1以下くらい、死はない
経験だが、一生忘れない深夜走行だった。

帰宅してもガスはつかず、すぐに休んだ。

8年間の間に、あの走行より大きな事があった。

まもなく12日、亡くなった方のご冥福、
それぞれ違うだろう、それぞれの復興をお祈りします。
合掌。


あの時の直感

2019-03-11 | 2011年3月11日 東日本大震災関連
東日本大震災、8年経過、TVは報道が多い。

新聞に目を引く被災者のコメントが載っていた。

当時、多数の方のコメントがのり、
時間をかけて読んだことを思い出す。

阪神淡路震災との違いは、原発事故が起こり、
津波も予想もしない大きさだったこと。

そして阪神は都市部と言ってもいい震災で、
面積もそう広くはなかった。

都市部なので他へ引っ越すことも、東北の方より、少しは楽にできた、
違う場所で暮らすことも、慣れていたといえばいいのかな~

そんな事を思いつつ、今日のコメント。

宮古市の39歳男性。

あの時は、前日から胸騒ぎがした。
午前中、仕事が手につかず、早退。
そこへ地震が。

妻、娘、母を乗せ車で脱出した。
あの時、帰宅しなかったら家族は死んでいたかもしれない。
~直感を信じたから~

笑顔の写真がある。
良かったですね。
その直感、素晴らしい。
神がかっている、と。