言語空間+備忘録

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中国人の賢帝清官信仰

2010-11-16 | 日記
陳惠運・野村旗守 『中国は崩壊しない』 ( p.70 )

 こんな理不尽な社会に暮らしながら、どうして中国人は共産党政権に怒りの声を挙げようとしないのか?
 もちろん、現在の中国で各地の農民らによるデモや暴動が頻発しているのは周知の事実である。しかし、それが現政権の転覆につながるかといえば、そのような兆候はまったく見られない。理由はいくつか考えられるが、最大の因子は中国人の意識構造のなかに求められる。
 漢の武帝 (紀元前141~紀元前87) が儒教を国是として採用して以来、中国は二〇〇〇年の長きにわたって儒家思想による封建専制政治を続けてきた。儒教は秩序と道徳を重んじる。「君君臣臣、父父子子」――この序列は絶対であって、決して乱れることがあってはならない。そして皇帝は常に賢く、官僚はいつも清廉でなければならない。中国には古来より、このような賢帝や清官が悪代官や悪徳商人を懲らしめる物語が溢れている。
 中国人が大好きな京劇の英雄に包拯がいる。『秦春蓮』や『鍘美案』などの演目に登場する包拯は宋代に実在した高官の一人で、皇帝から上方宝剣という刀を賜って全国を漫遊した。この剣は、不正を働く官吏や商人を見つけたら、たとえ皇帝の肉親であってもその場で処刑しても構わない、というお墨付きがついた特別の刀である。上方宝剣を携えた包拯は天下無敵。悪の限りを尽くす地主や官吏をばったばったと斬り倒してゆく。
 史実をもとにした包拯の武勇伝は、京劇以外にも多数の伝承文学として残され、庶民のあいだで親しまれてきた。ちょうど、日本の『水戸黄門』や『暴れん坊将軍』のような時代劇を思い出してもらうとわかりやすい。ストーリーはあれとほとんど変わらない。悪いのは常に地方の代官や商人であって、彼らの悪事はお上の威光を受けた正義の主人公によって裁かれる、というのがお約束だ。
 違うのは観る側の意識である。『水戸黄門』を観ている日本人は、ドラマをドラマとして楽しんでいる。一方で、あれは絵空事であり、あるいは実話だったとしても昔話であって、あんなことが現実に起こるはずはないと思っている。ところが、京劇を観ている中国人は実際にあった話として包拯の活躍に胸を躍らせ、あのようなことが自分の身のまわりにも現実に起こるに違いないと思いながら物語を堪能しているのだ。
 現代の日本人には容易に理解し得ないかもしれないが、現在でもこれが一般的な中国人の庶民感覚である。つまりは、二〇〇〇年に及ぶ儒教統治の帰結として、賢帝清官のお上 (朝廷) 信仰が中国人の世界観 (中華思想) の一部を形成しているということだ。たとえ世の中に悪が蔓延ろうとも (はびころうとも) 、国家の指導者はいつも正しく、悪いのは常に地方の小役人であると中国人は考える。自分の身に何か政治的な厄災が降りかかったとしたら、かならずや賢帝や清官が汚名を雪ぎ (すすぎ) 、不正を糾弾し、艱難 (かんなん) から救い出してくれるものと信じているのだ。
 現代中国の朝廷は共産党である。

(中略)

 だから都市住民も農村住民も、党中央指導部の絶対善を信じて疑わない。世の中の不正はすべて一部の悪党によって為されたものであって、党中央に直接訴えれば賢明な指導者がこれを正してくれるものと信じ込んでいるのだ。
 現在の最高指導者である胡錦濤のもとには、「北京市、天安門、胡錦濤主席」と宛名が書かれた嘆願書が、全国から毎日何百何千通と届く。また、北京市南部の上訪村 (=直訴村、北京五輪の直前から一時閉鎖された) には地方から上京した農民たちが常時一万人も狭い部屋のなかに寝泊りして、みずからの苦境を中央政府に訴える順番を待っている。それぞれにトラブルを抱えた彼らは、お上に訴えが届きさえすれば、いずれ賢明な党の指導者たちが問題を解決してくれるものと信じているのだ。なかには地方での裁判に絶望して上京し、二〇年にわたって陳情を続けている人もいる。
 ところで、ここで一点注意が必要なのは、北京への陳情・デモ・ストライキ・暴動……等々と、ありとあらゆる手段を通じて繰り返される民衆の抗議活動が一貫して地方政府や地方幹部に向かい、「打倒中国共産党」という一つの大きなうねりには決してならない、ということだ。
 理由の一つは、先に述べた中国人の賢帝清官信仰である。そしてもう一つが、その中国人の深層心理を熟知する中国共産党のたくみな統治手法だ。


 中国人はお上、つまり共産党が「いつも正しい」と信じている。中国社会に問題があるとすれば、それは地方の小役人が「悪い」からである。このような中国人の賢帝清官信仰を考えれば、民衆の抗議活動は地方政府や地方幹部に向かうのみであり、「打倒中国共産党」という一つの大きなうねりには決してならない、と書かれています。



 私も、直訴村の話は知っています。

 一般の中国人 (…の大部分) が賢帝清官信仰を持っているか否かまでは (私には) 断言しかねますが、「お上に訴えれば不正は正される」と信じていなければ、直訴村など存在しないと考えられます。直訴しても「ムダ」だからです。

 とすれば、中国人は、「お上 (=いまの世の中では共産党)」を信じている、と考えなければならないことになります。とすると、



 私は、「中国人は民主化を望んでいない?」において、
 しかし、これほどの規模で死者が出れば、いかに中国政府が情報を隠しているとはいえ、「真実は人づてに伝わっている」とみるのが自然だと思われます。とすれば、

一般の中国人は、
   数百万人規模の処刑・殺戮、数千万人規模の餓死者の存在と、
   中国共産党がそのことを隠していることを、
 (ある程度) 知りつつ、中国共産党を支持している

と考えなければなりません。
と述べ、かつ、

 「中国共産党による独裁体制の確立と、その現状」において、
 一党独裁体制を確立する過程について。

 蔣介石の国民党を糾弾する際に、「一党独裁」であることを批判しておきながら、みずからが権力を握ると、みずから「一党独裁」体制を構築したというのは、権力闘争の「手段」としてはあり得るでしょうが、「卑怯」ではないかという気がしないでもありません。

 また、反対派を潰す手段として「自由に意見を提出せよ」と宣言しておいて、それを信用して提出された意見のうち、共産党に対して批判的な意見の提出者を逮捕・粛清したというのも、「卑怯」ではないかと思います。

 これでは、共産党を信用しろ、というのが無理ではないでしょうか。
と述べましたが、

 実際には、「それでもなお、中国人は共産党を信じている」ということになります。



 これは、(私には) 信じ難い話です。



 人の記憶は薄れ、次第に忘れてしまう、ということなのでしょうか?

 人はつい、目の前にある物事 (あるいは、目の前にいる人) にとらわれがちである、ということなのでしょうか?

 それとも、直訴する人々は、(それでも共産党中央に直訴せざるを得ないほど) 「切羽詰まっており、ほかに方法がない」というにすぎないのでしょうか?



 これについては、さらに資料を集めたうえで、考えたいと思います。いまの私には、結論が出せません。
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