言語空間+備忘録

メモ (備忘録) をつけながら、私なりの言論を形成すること (言語空間) を目指しています。

村山談話の評価

2009-08-10 | 日記
田母神俊雄 『自らの身は顧みず』 ( p.117 )

 日本人の歴史認識の潮目が大きく変わったのはやはり平成七年の「村山談話」からであろう。
 この談話が非常にトリッキーな形で誕生したのは第1章でも触れた。当時は「自社さ」政権で社会党の村山富市氏が首相、土井たか子氏が衆院議長だった。
 終戦五十年の節目だったその年、まず土井議長が謝罪決議を提案した。
 このときは強い反対運動が起き、およそ六百万人の反対署名が集まった。しかし、結局、議員二百六十五人が欠席して、二百四十四人の出席だけで、わずか二百三十人の賛成で可決された。つまり賛成は定数の半分以下だった。このため、参院では上程すら見送られた。
 決議は次のようなものだ。
〈本院は、戦後五十年にあたり、全世界の戦没者及び戦争等による犠牲者に対し、追悼の誠を捧げる。また、世界の近代史上における数々の植民地支配や侵略的行為に思いをいたし、我が国が過去に行ったこうした行為や他国民とくにアジアの諸国民に与えた苦痛を認識し、深い反省の念を表明する〉
 そして八月十五日になって「これだけはやらしてくれ」との首相の強い意思で、突然出されたのが「村山談話」だった。それまで細川護熙首相らが、会見で先の大戦は「侵略」だったと言及したことはあるが、政府の文書で出されたのは初めてだった。
 このように素性が悪い「謝罪決議」と「村山談話」だが、いったん出たものは一人歩きする。
 それから十年後の終戦六十周年(平成十七年)には、河野洋平衆院議長が〈われわれは、ここに十年前の「歴史を教訓に平和への決意を新たにする決議」を想起し、わが国の過去の一時期の行為がアジアをはじめとする他国民に与えた多大な苦難を深く反省し、あらためてすべての犠牲者に追悼の誠を捧げるものである〉との決議案を提案し、自民、公明、民主、社民などの賛成で可決されている。
 ここには「侵略」とか「植民地支配」の文字はないが、五十年決議を引用することで、五十年決議に生命を吹き込んだとみることも可能だろう。
 この年、小泉首相もまた、村山談話を踏襲する談話を出している。

(中略)

 土井議長による「謝罪決議」と「村山談話」が、十年の間にいつのまにか政府の公式見解に成長した。


 村山談話に対する批判、その後の政治が村山談話に基づいていることへの批判が書かれています。



 田母神さんが村山談話や、その後の政治の動きを批判する背景には、「支那事変 ( 日中戦争 ) と大東亜戦争 ( 太平洋戦争 ) の評価」 や 「南京大虐殺」 で紹介した、田母神さんの歴史観があります。その歴史観を一言でいえば、「少なくとも日本だけが侵略国家などと言われる筋合いはない」 です。ここからは、

   すくなくとも、日本だけが侵略国家と言われる筋合いはない以上、日本だけが謝る必要はない

という考えかたが導き出されることになります。



 たしかに、そういう考えかたも成り立ちます。しかし、同時に、

   すくなくとも、日本には非があったのだから、我々は謝罪しなければならない

という考えかたも成り立つのです。この考えかたをとれば、村山談話に始まる、一連の政治の動きは、好ましいものと評価されることになります。



 それでは、どちらの考えかたをとるべきでしょうか。

 それを考える参考資料として、田母神さんが高く評価されている、次の話を引用します。



同 ( p.129 )

 サッチャーはかつて、インドの植民地支配を批判されて、「我々が統治したから世界で最大の民主主義国家になった」と胸を張ったが、侵略者などと決めつけてきた自国の歴史観についても断固とした態度をとったのである。


 これを読んで、あなたはどう思われますか?

 たしかに、サッチャーの言葉には、一面の真実が含まれています。イギリスの支配によって、インドは民主主義国家になりました。しかし、そこには搾取もあったのではないでしょうか? これは、サッチャーの開き直りだともいえるのではないでしょうか?

 日本も、このような態度をとるべきでしょうか?



 私は、村山談話は高く評価されてよいと思います。

 たしかに、村山談話が発せられる経緯には、納得のいかないところもあります。しかし、村山談話については、経緯を問題にしてはならない、と考えます。なぜ、経緯を問題にしてはならないのか。その根拠は、次の理解にあります。



 村山さんは、「他国はともかく、みずから率先して謝る」 高い倫理観に基づく行動をとりたかった。それこそが、村山さんの考える、( 日本の ) 国益にかなう行動だった。けれども、先に非を認めて謝罪すれば、相手 ( 他国 ) に 「つけ込まれる」 おそれがある。当時、多くの人々はそれをおそれ、村山さんに反対していた ( 実際、みずから率先して謝罪する、というのは、難しいものです ) 。そのため、なかなか実行には移せない。そこで、

   「八月十五日になって 『これだけはやらしてくれ』 との首相の強い意思で、突然出されたのが 『村山談話』 だった」

のではないでしょうか。こういう背景のもとに、村山談話が出されたのではないでしょうか。

 その後の政治の動きが示しているのは、「謝罪してみたら、意外にも、他国につけ込まれなかったので、ほっとした。つけ込まれるどころか、好意的に迎えられ、親日度が高まった。そこで、議会で謝罪決議もなされた」 ということではないでしょうか。



 いかがでしょうか? 村山談話については、経緯を問題にしてはならない、と考えられないでしょうか。村山談話に始まる一連の政治の動きは、日本が他国と信頼関係を構築してきた、かけがえのない歩みであり、貴重な財産だといえないでしょうか。田母神さんは批判されていますが、私は、高く評価すべきではないかと思います。

 最後に、村山談話 ( 抜粋 ) を引用します。あなたは、この談話をどう評価しますか?



同 ( p.210 )

 (村山談話)
 「戦後五十周年の終戦記念日にあたって」  平成七年八月十五日

(中略)

 平和で豊かな日本となった今日、私たちはややもすればこの平和の尊さ、有難さを忘れがちになります。私たちは過去のあやまちを二度と繰り返すことのないよう、戦争の悲惨さを若い世代に語り伝えていかなければなりません。とくに近隣諸国の人々と手を携えて、アジア太平洋地域ひいては世界の平和を確かなものとしていくためには、なによりも、これらの諸国との間に深い理解と信頼にもとづいた関係を培っていくことが不可欠と考えます。

(中略)

 いま、戦後五十周年の節目に当たり、われわれが銘記すべきことは、来し方を訪ねて歴史の教訓に学び、未来を望んで、人類社会の平和と繁栄への道を誤らないことであります。
 わが国は、遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました。私は、未来に過ち無からしめんとするが故に、疑うべくもないこの歴史の事実を謙虚に受け止め、ここにあらためて痛切な反省の意を表し、心からのお詫びの気持ちを表明いたします。また、この歴史がもたらした内外すべての犠牲者に深い哀悼の念を捧げます。
 敗戦の日から五十周年を迎えた今日、わが国は、深い反省に立ち、独善的なナショナリズムを排し、責任ある国際社会の一員として国際協調を促進し、それを通じて、平和の理念と民主主義とを押し広めていかなければなりません。

(中略)

 「杖るは信に如くは莫し」と申します。この記念すべき時に当たり、信義を施政の根幹とすることを内外に表明し、私の誓いの言葉といたします。


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