高橋洋一 『日本は財政危機ではない!』 ( p.32 )
(1) 日本は、純債務の対GDP比率でみれば、60 %にすぎない。アメリカの例をみれば、十分対処可能な数字である。
(2) アメリカ経済が大恐慌から立ち直ったのは、債務残高の縮小によってではなく、名目GDPの増大によってである。日本もこの路線を目指すべきである。遊休設備や人員が大量にある日本には、巨大な潜在成長力がある、
と書かれています。
まず、(1) についてですが、
著者は、日本の場合、純債務の対GDP比率が 60 %とされていますが、私としては、この数字はすこし修正したほうがよいのではないかと思います。「粗債務と純債務」のところに述べたとおり、「かなりおおざっぱな」 数字ですが、
666 兆円 ÷ 500 兆円 = 約 130 % ( かなり適当な数字です )
くらいに考えておけばよいのではないかと思います。
とすると、アメリカはかつて、121・6 %に達したけれども、破綻しなかったので、日本も ( 当面は ) 破綻しないだろう、と考えてよいのではないかと思います。もちろん、著者のように、現在の日本では 60 %にすぎないと評価すれば、なおさら、破綻しないだろう、という結論になります。
次に、(2) についてですが、
現在の日本の状況を考えると、債務残高の縮小によって財政再建を図るのは、不可能に近いと思います。したがって、( 著者の論理の是非はともかく、結論としては ) 著者の主張と同様の道を選択するのが得策ではないか、と考えます。
もっとも、債務の対GDP比率について、私のようにシビアな評価をすれば、すでに 121・6 %を超えていると判断することになるので、危険性がないわけではありませんが、この道がもっとも安全ではないかと思います。
問題は、いかにして、名目GDPの増大を実現するか、ですが、
著者はニュー・ディール政策 ( 財政政策 ) には否定的で、金融政策によるべきである、との立場をとられています。しかし、この論理には疑問があります。著者のように、アメリカ経済が大恐慌から立ち直った原因を、第二次世界大戦に求め、「戦時特需という大規模な財政出動」が、アメリカ経済復活の鍵だったと評価するのであれば、金融政策ではなく、財政政策こそが鍵である、と評価することになるはずです。
財政政策否定論者ですら、財政政策が鍵であると評価せざるを得ないのであれば、
日本はいま、( 積極的に ) 財政出動を行うべきである、と結論してよいのではないかと思います。この結論は、リチャード・クーの見解とおなじです ( 「バランスシート不況対策 ( リチャード・クー経済学 )」 参照 ) 。
もっとも、著者の見解に対しては、戦争によって生産設備が破壊されたことなどを無視している、などの批判が成り立ちます。したがって上記、私の意見に対する批判たり得ます。
たしかに、生産設備の廃棄をせず、単純に需要を追加するなら、財政出動の効果は限られるとは思いますが、
すくなくとも方向性としては、政府による需要の追加こそが、正しいのではないかと思います。
もちろん、このように結論する場合であっても、ムダな予算は削らなければならないことは、言うまでもありません。
しかし、大胆に ( 税収を超える ) 予算を組んでもよいのではないか、と思います。というか、大胆に予算を組まなければならない、と思います ( ここで私は、「公共事業における 「ムダ」」 で述べた意見を修正し、もっと積極的な財政支出を主張しています ) 。
それではどのような予算にすればよいのか。お金を、どこに向けるべきなのか。これについては、さらに考えたいと思います。
正確にいえば、実質的な負債は純債務なので、「純債務の対GDP比」が重要になるのだ。
だが、日本以外の国は、資産をさほど保有しているわけではないので、粗債務と純債務はほぼ等しく、便宜的に「粗債務の対GDP比」で見ることも多い。
財務省の指摘するように、現在、「粗債務の対GDP比」は一六〇%という高率で、これは国際的にもダントツで高く、お世辞にも健全な財政とはいえない。
しかし、日本のGDPは五〇〇兆円あまり。アメリカに次ぐ規模である。分母も非常に大きく、経済規模の小さな発展途上国とは違う。
しかも、政府の資産は約七〇〇兆円もあり、純債務は約三〇〇兆円だ。純債務の対GDP比は、六〇%。決して低いとはいえないが、適切な経済政策を実施し、経済成長を促せば、管理できない数字ではない。
(中略)
世界恐慌から第二次世界大戦後の財政再建に至るアメリカの道程を振り返ると、財政再建原理主義の危うさと、金融政策による経済成長の重要性がわかる。
一九三〇年代のフランクリン・ルーズベルト政権のニューディール政策は、一九二九年の株価暴落以来の恐慌で、奈落の底にあったアメリカ経済を復活させたとされている。しかし、冷静に評価すると、必ずしもそうとはいえないという。
(中略)
ニューディール政策は、赤字財政政策の権化のように受け取られる向きもある。しかし、ルーズベルトも財政再建至上主義の呪縛から完全には抜けられなかったのが事実である。そのため、失業問題を完全に克服できるほどには、総需要増対策はとられていなかったのである。
では、何がアメリカ経済を立ち直らせたのか。それは、第二次世界大戦への参戦だった。戦時特需という大規模な財政出動で失業問題は解決し、軍需生産を急速に拡大させながらも、個人消費などの民需の拡大も同時に達成された。
興味深いのは、終戦後のアメリカ政府の名目GDPに対する債務残高の比率である。軍需生産などの戦費調達のため、国債発行を急増させたので、アメリカの債務残高は終戦翌年の一九四六年にピークに達し、債務残高の名目GDPに対する比率は、一二一・六%にも上った。
一九四〇年の債務残高の対名目GDP比は五二・五%に過ぎなかったので、わずか五年あまりで比率は二・三倍にも上昇した計算になる。
これほど急激に債務を積み重ねたアメリカ経済は破綻したか。結果は逆である。遊休設備や人員がフル稼働され、アメリカ経済が持っていた潜在成長力が十分に引き出された結果、一九四四年には失業率は一%台まで下落した。
(中略)
アメリカ経済が立ち直ったのは、連邦債務残高の絶対額の縮小によって成し遂げられたものではなく、名目GDPの増大によってもたらされたのである。
すると、アメリカの経験が教えるのは、遊休設備や人員が大量にあるとき、その社会には巨大な潜在成長力が備わっているということである。そして、二一世紀初頭の日本経済も、実はまったく同じ位置に立っている。
(1) 日本は、純債務の対GDP比率でみれば、60 %にすぎない。アメリカの例をみれば、十分対処可能な数字である。
(2) アメリカ経済が大恐慌から立ち直ったのは、債務残高の縮小によってではなく、名目GDPの増大によってである。日本もこの路線を目指すべきである。遊休設備や人員が大量にある日本には、巨大な潜在成長力がある、
と書かれています。
まず、(1) についてですが、
著者は、日本の場合、純債務の対GDP比率が 60 %とされていますが、私としては、この数字はすこし修正したほうがよいのではないかと思います。「粗債務と純債務」のところに述べたとおり、「かなりおおざっぱな」 数字ですが、
666 兆円 ÷ 500 兆円 = 約 130 % ( かなり適当な数字です )
くらいに考えておけばよいのではないかと思います。
とすると、アメリカはかつて、121・6 %に達したけれども、破綻しなかったので、日本も ( 当面は ) 破綻しないだろう、と考えてよいのではないかと思います。もちろん、著者のように、現在の日本では 60 %にすぎないと評価すれば、なおさら、破綻しないだろう、という結論になります。
次に、(2) についてですが、
現在の日本の状況を考えると、債務残高の縮小によって財政再建を図るのは、不可能に近いと思います。したがって、( 著者の論理の是非はともかく、結論としては ) 著者の主張と同様の道を選択するのが得策ではないか、と考えます。
もっとも、債務の対GDP比率について、私のようにシビアな評価をすれば、すでに 121・6 %を超えていると判断することになるので、危険性がないわけではありませんが、この道がもっとも安全ではないかと思います。
問題は、いかにして、名目GDPの増大を実現するか、ですが、
著者はニュー・ディール政策 ( 財政政策 ) には否定的で、金融政策によるべきである、との立場をとられています。しかし、この論理には疑問があります。著者のように、アメリカ経済が大恐慌から立ち直った原因を、第二次世界大戦に求め、「戦時特需という大規模な財政出動」が、アメリカ経済復活の鍵だったと評価するのであれば、金融政策ではなく、財政政策こそが鍵である、と評価することになるはずです。
財政政策否定論者ですら、財政政策が鍵であると評価せざるを得ないのであれば、
日本はいま、( 積極的に ) 財政出動を行うべきである、と結論してよいのではないかと思います。この結論は、リチャード・クーの見解とおなじです ( 「バランスシート不況対策 ( リチャード・クー経済学 )」 参照 ) 。
もっとも、著者の見解に対しては、戦争によって生産設備が破壊されたことなどを無視している、などの批判が成り立ちます。したがって上記、私の意見に対する批判たり得ます。
たしかに、生産設備の廃棄をせず、単純に需要を追加するなら、財政出動の効果は限られるとは思いますが、
すくなくとも方向性としては、政府による需要の追加こそが、正しいのではないかと思います。
もちろん、このように結論する場合であっても、ムダな予算は削らなければならないことは、言うまでもありません。
しかし、大胆に ( 税収を超える ) 予算を組んでもよいのではないか、と思います。というか、大胆に予算を組まなければならない、と思います ( ここで私は、「公共事業における 「ムダ」」 で述べた意見を修正し、もっと積極的な財政支出を主張しています ) 。
それではどのような予算にすればよいのか。お金を、どこに向けるべきなのか。これについては、さらに考えたいと思います。