時評が語るその時代

思うままに日々感じたことを掲載

死ぬための費用

2008年05月30日 | インポート

後期高齢者医療保険制度について、議論がにぎやかである。後期高齢者医療と云う名前が悪いと云うことで、厚労省は長寿医療制度と改めましたが、原案は「終末老齢医療保険制度」だったようで・・・75歳以上の後期高齢者の医療費が全医療費の3割近くを占める。だからこの年齢層に受益者負担的考え方を導入して、後期高齢者医療保険をそれ以外の年齢者の医療保険と分けた』と云うのがこの制度の設置理由。もっともに聞えるがチョットおかしい。後期高齢者は複数の病気を発症しやすく医療費が掛かる。それはわかるが、抵抗力がないため病気になっても長引かないのも高齢者の特徴。後期高齢者が多額の医療費を要するのは、終末医療に掛かる医療費である。後期高齢者は病気になって死亡する率が7割に達し他の年齢より圧倒的に高く、終末医療に一人平均約120万円使う。すなわち後期高齢者は病気を治すために医療費を使っているのでなく、死ぬための終末医療費に多額を要しているのだ。その事実は全く語られない。死ぬ前の終末医療費用は、一般に若年者の方が高く平均の倍に近い。医療保険料の安い人も高い人も必ず死に、ほぼ同額の終末医療費を使います。高齢者の死亡率が他の年層より圧倒的に高いのは、ある意味メデタイ事。高齢者のために若年者が保険料を負担しているがごとき議論も盛んで、長生きすると若年者に負担となる様に言われているが、これも間違い。今まで病気にもならず生き延びてきた高齢者は、死ぬための終末医療費を現役時代から死ぬまで医療保険料を支払い続け、死ぬための費用(終末医療費)はすでに積み立てている。誰もがいつか病気になり、いつか死ぬのです。医療保険制度の手直しより、治癒見込みのない治療行為や599gの新生児を救済治療したり、高齢者に過度の延命治療したりする医療のあり方を見直すことこそ必要なのだ。

というわけで、あたかも75歳以上の高齢者の医療費が、他の年齢に比しきわめて多いと云う解釈は誤解で間違いです。健康に過ごしてきた高齢者は、たいした医療費も掛けず枯れる様に死んでいきます。若い時から病気ばかりしている人は、高齢者になるまでに医療費を食いつぶしています。保険料を引き上げる必要があるなら、全世代ひとしく上げるべきで、75歳以上の人だけ分けた医療保険制度の創設は、間違った解釈による間違った制度です。

減少する医療保険原資と増える医療費をどうするか?後期高齢者医療制度を廃止し元の制度に戻すと云う野党の云う様な無責任なことでは解決しない。所得が低い、扶養家族か否かに関係なく医療費は掛かるのですから、保険単位を世帯から個人に変え、本人の所得と関係なく子供も高齢者も応分に支払う制度でなければ公平な制度とはいえません。いわれている様な消費税増額の税方式や全世代の医療保険料増額は、病気をせず医療保険料を払い続けた人も負担がより増す事になり公平でない。私の考える具体的医療保険制度は 1.世代別医療費を保険料計算の基準にぜず、一生涯医療費を保険料算出の根拠に改める 2.被保険者単位を世帯単位から、子供、高齢者の別なく個人単位に改める 3.介護保険制度を独立しないで医療介護保険制度として1本化する 4.保険料は, 現行通り応益割と所得割で構成、均等割りと所得割の比を . 7として、所得割の最高限度額を廃止する。均等割り応益分は、所得に関係なく全国民から一律徴収する。

負担なしで社会福祉を受けるのが当たり前の様な風潮も改めねばならない。死ぬための費用の安くなる高齢者まで健康で長生きする事が、究極の医療費削減の方法なのです


人間退化現象

2008年05月23日 | インポート

パラサイト・バイオレンス。寄生型虐待とも言いますが知ってますか。親に寄生して生きてきたニートやADHD、LDなど一人前の様に見える発達障害者や社会的落ちこぼれが、自立できないまま歳をとり、身体や精神の弱った老親を虐待する事を言います。恐ろしい悲しい話です。発達障害者や社会的落ちこぼれは、病気ではありません。だから薬剤等である程度制御できますが、治療し治ると云うことは有りません。ドメスティック・バイオレンス(DV)が比較的若い層の多いのに対し、パラサイト・バイオレンスは広い年齢層におよび特に高齢層で深刻です。衰えた親の面倒を見ない、食事を与えない、親の年金を自分のお金の様に使う、親を親の家から追い出すなど、動物では考えられない畜生以下の人間です。肉体的虐待でなくても、寄生している子供が宿主の親にモラル・ハラスメントを日常的に加えます。

自然界では、寄生生物と宿主は穏やかな関係です。寄生生物が頼る宿主を痛めつけて殺してしまうと自分も死ぬことになるのです。彼らは宿主を離れて生きていけないのですから。でも人間と云う生物だけ、寄生動物(この場合子供)が宿主(親)を攻撃する現象が見られ、今増殖していると云うことです。なぜ人間だけ?答えは簡単です。社会を形成する人間は、寄生する者が宿主を虐待したり殺しても社会が助け食事を与え生きていけるからです。そんな寄生人間が、今後爆発的に増える可能性があります。84歳の親を60歳の子供がパラサイト型虐待をするなんて事件も起こっています。そんな状況を理解せず、本来淘汰されるべき脳や精神の発達障害者を、刑法39条などで減刑や無罪対象にしてその言動行動を容認してしまうなどは、人類の自殺行為である。今後理由なき殺人の増加以外にも、限界集落などでネズミや猿が、身体の弱った人間を食べるといった事も自然発生しそうです。人間の生存が他の生物に害を及ぼすだけとされ、自然界が人間自滅による自然淘汰を容認したのでしょうか?それとも本来自然淘汰されるべき人間までも社会と云う構造の中で生きさせた結果、人間社会全体が自然にそむく事となりしっぺ返しを受けるのでしょうか?

人間の退化現象、社会構造退化現象は、将来地球温暖化より深刻な問題になるかもしれません。


相手の嫌がる事は言わない外交??

2008年05月17日 | インポート

胡錦濤中国国家主席が来日。中国国家元首の来日は1998年の江沢民国家主席(当時)以来、10年ぶり。その夜の福田康夫首相主催の非公式夕食会で、主席が日本にジャイアントパンダ2頭を研究目的で貸与する意向を表明した。翌日福田康夫首相は、胡錦濤中国国家主席と首相官邸で会談した。原則として毎年どちらかの首脳が一方の国を訪問するとともに、環境・エネルギーを協力の重点分野に据えることで一致。会談後、両首脳は「戦略的互恵関係」を包括的に推進し、アジア太平洋地域や世界の平和に責任を負い、ともに貢献することをうたった日中共同声明に署名した。

相手の嫌がる事は言わないのが良いと云う日本の首相の外交日中間には歴史問題、反日教育、東シナ海の日本の領海内で海底資源を試掘している問題、毒入り餃子問題、環境問題そしてチベット人権問題など、相手が嫌がっても解決しなければならない問題が山積している。歴史問題などについては話し合わず、東シナ海ガス田問題、毒入り餃子問題などは今後も解決に向け話し合いを続けると確認するにとどまった。両首脳は、「戦略的互恵関係」を包括的に推進することで合意し、この会談を「日中未来志向元年」とすると自画自賛した。結局、決まったのは両国首脳が毎年会談する事とパンダ貸与だけ。でもね貸与ってレンタルで、世界にいる中国パンダのほとんどは研究に名を借りたレンタル(貸与)で、そのレンタル料は年間1億円以上だよ。パンダはチベットの奥地にしか住んでいない。豊かな資源と広大な土地そしてパンダのいる国チベット。そのチベットを自分のモノにして、パンダで稼ぐ。さすが自分が損する様なことは絶対にしない国中国の主席はやるね~。首脳会談の翌日日本の首相経験者との会談を行ったが、中国の恫喝にも動じなかった小泉元首相は含まれなかった。中国や中国人に「謝る」と云う文化はない。謝罪すると云うことは、その件に関する自分の罪を認めることであり、謝ったことでその件に関する全ての罪を認める事で死を意味する。その罪は末代まで尾を引く恥となり、徹底的軽蔑される文化を持った国。日本人の「水に流す」なんて文化は中国人には全く理解できない。日本人は、中国人と同じアジアに生活し文化を学んだ時代もあったが、今や両国民は理解し合えない国民性である。そのつもりで付き合うか付き合わないのが最善の策である。「世界の警察」を自認するアメリカもどうかと思うが、アメリカの威力が相対的に低下してアメリカの重しがなくなったら、中国は「世界の無法者」になるであろうし、中国人は自分が正しいと言い張り自己反省など全くしないであろう。


医療に関する倫理的判断

2008年05月10日 | インポート

●日本医科大は、回復の見込みがなく死期が迫った患者の終末期医療について、患者の意思確認などの条件を満たせば「延命治療の中止を考慮してよい」とする「暫定指針」を作成、付属4病院で運用を始めた。人工呼吸器の取り外しは個別ケースごとに、各病院の倫理委員会で可否を判断するとしている。

厚生労働省が「患者に分かりやすい表記を目指す」として、医療機関が掲げることができる診療科名の見直しのため基本診療科名を38から26に削減し実施しようとしたが、「削減される診療科」を専門とする医学会が猛反発したため、事実上白紙撤回していたことが分かった。他の医学会も「現場に何の相談もなかった」と反発を強めたからだ。

がん患者らの終末期医療の在り方について、日本学術会議は、延命治療の開始や中止は患者本人の意思が明確な場合はそれに従うと強調。意思が不明確なケースで家族から要請があった場合は「患者に最善の医療」という観点で検討するとした報告書を公表した。

宗教上の理由から輸血を拒否する「エホバの証人」信者の治療をめぐり、日本輸血・細胞治療学会など5学会の合同委員会が、15歳未満には親が拒否しても輸血を行うことを柱とする新指針を公表した。                                              日本医師会も、「終末期医療に関するガイドライン」の中間答申をまとめている。終末期の治療開始、不開始、変更、中止の判断は複数の医療従事者による「医療・ケアチーム」が行うと規定し、ガイドラインに基づき延命措置を中止する行為が法的責任を問われない体制づくりの必要性を強調している。終末医療のあり方や法制化について厚生労働省は、医学会、医療機関、医師会などのいわゆる医療専門家団体と協議しているが、大間違いである。終末医療に関する国民的コンセンサスや法制化は、法律、心理認知、宗教、哲学、人類学、社会形態、社会福祉、社会経済、臨床医療、政治、科学など各分野各専門家の広範な専門知識を総動員して決めるべき問題で、医療技術者の同業者団体である医療機関、医学会、医師会は、オブザーバーで有るべき存在である。医療機関や医師は、その国民的コンセンサスに基づく基準に従って行動するのが本筋だ。現状は仲間内の集まりである、学会等同業者の集まりや大学など組織内の倫理委員会による承認と云う形を造って、公認されたがごとき判断をするきわめておかしい状況にある。医療機関は、学内に倫理委員会なるものを設け判断基準を造り、倫理委が関与することで判断の客観性を高め、現場の混乱と医師が刑事責任を問われるような事態を避けたいと云うのが本音で、倫理的に終末医療のあり方を考えての行動ではない。終末医療に限らず、体外受精、脳死など死の判断、生体肝移植実施基準、宗教的理由による小児に対する輸血拒否など倫理に関する判断は、広範な各分野の専門家で議論し、国民的コンセンサスを形成してそれに基づき法制化すべき問題である。

また診療科名削減は、学会を造っている医学者にとっては自らの存在を左右する重大な問題である。学会を構成する医学者は、ある意味秋葉原のオタクと同じで、自己満足に過ぎない研究?を唯一生きがいのようにしている者の集まりが多い。学会創設や学会名は診療科名と関係ないが、自分の研究している分野が診療科名として認められなくなると、社会的存在意味が益々怪しくなる。それは結果として学会の権威がおびやかされる。学会および医学者は、それを恐れているのである。これは厚生労働省がめざす「患者に分かりやすい表記」と全く関係のない話だ。診療科表記も、厚生省は同業者団体の医学界や医師の意見を聞くより、案を示して第三者に聞き「患者に分かりやすい表記」に改めるべきである。厚生労働省は現行制度は複雑で分かりにくいとの指摘をうけ、この医療関係2題から見える厚生省と医学会、医師会の関係は、国民の視点に立たない医療行政、医療現場の矛盾や歪みをもたらしている諸悪の根源だ


適者生存

2008年05月03日 | インポート

フランスの哲学者パスカルは「人間は自然の中で最も弱いものである。一茎の葦にすぎない。だが、それは考える葦である」と言い、古代ギリシアの哲学者アリストテレスは「人間は社会的動物である」と言っています。

自然界の中にあって、人間(ホモ・サピエンス)も動物の一種に過ぎない。人間は、他の動物に比し聴力、視力、体力など特に優れた感覚能や身体能力を持っていません。人間が他の動物より優れているのは、『知能』だけです。そんな人間が自然界で生存していくためには、特質である『知能』を使うほかありません。この知能を使って、人間が自然や他の動物と競合して生き残る手段として、考え出されたのが『社会』と云う概念です。「自然界の中にあって、知能が人間の尊厳のすべてであり、全ての人間は幸せを求め生き続ける」、これが社会形成の根源でしょう。

動物は、食糧を得て外敵から身を守るなど生存必要条件を満たすため、主として血縁で群れを造ったり、単独行動を好む動物など種によっていろいろな手段をとって生存しています。基本単位の群れや集団は、社会構成の最小単位で社会とは言いません。「自然界で生存するため」基本単位が集まり集合体を構成し、食糧を確保し自然や外敵から身を守ることを大前提に、共同で生活します。それが、基本的合意をもってルールを造り、秩序維持機能を持ったとき、その集合共同体を社会と言います。大前提条件保持のため、その時代その地域ごとに異なる社会が形成されていきます。

社会は、地域や構成員の環境や選択、幸せの要件によって、社会形成思想を持ちます。自然界や他の生物から見ると、人間がどのような思いでどのような社会を形成しているかは関係ありません。人間の思いなど関係なく自然界の掟は適者生存』です。

まず自然界が人間を適者と認め、その上貴方が社会的適者であれば、社会的動物人間は「幸せに生存する事」が出来ます。人間以外の生物は、自然界の掟『適者生存』に忠実に従い、発達障害・生存能力不足などの同種の仲間を自然淘汰する事で、より優秀な種を生み出し同種が増え過ぎないよう調整し生存しています。

社会的動物人間は、「弱者にも命と幸せを」と社会で保護するため不適者がはびこり人口は増え続ける事になり、それが社会の重しとなり人間と云う種全体の生存力を弱めています。適者でない人間を過度に保護し生存させれば、人間(ホモ・サピエンス)と云う種の生殖本能の減退や食糧不足、気候変化適応力低下などが起こり、自然による人間淘汰の確率を高くします。

人間が自然界の適者でなければ「幸せに生存する事」は出来ません。人間が、自然界の適者で生き残るには、動物が当たり前に持つ「生きるための緊張感」を持つことです。

貴方は、社会の適者ですか?「自立して食糧を獲得する意欲」は充分ですか?種の保存のため子供を設け淘汰されないよう厳しく育てていますか?貴方の能力を知り、生きている社会の思想構造をよく理解し社会的適者になって幸せに生きてください。