豆豆先生の研究室

ぼくの気ままなnostalgic journeyです。

虎に翼(その6)ーー帝人事件と今村力三郎

2024年05月02日 | テレビ&ポップス
 
 NHK朝の連ドラ「虎に翼」のモデル探し記事はネット上にいくつもアップされていて、けっこう詳細な記事もあるので、ここではそれらに載っていないことを書いておく。ひょっとしたらどこかに書いてあるかもしれないけれど・・・。

 ここ数日の番組では、主人公寅子の父親(銀行員)が贈賄事件で逮捕、起訴された事件が進行中で、番組内では「共亜事件」とか言っているが、これは「帝人事件」だろう。ここまでは多くの記事に書いてある。
 帝人事件は、1934年(昭和9年)に起きた疑獄事件である。
 台湾銀行の保有する帝人(帝国人絹会社)株を、帝人社長、財界人、大蔵官僚、政治家らが共謀して不当な安価で取得したとして関係する16名が背任、贈収賄罪などに問われた。
 実際には、斎藤実内閣を打倒しようともくろんだ一部の検事らがでっち上げた冤罪事件だったことが後の裁判で判明するのだが、長期の拘留や拷問によって得た「自白」をほぼ唯一の証拠として16名が起訴された。
 背景には、鈴木商店(名前は「商店」だが、当時の大手総合商社だった)の倒産によって多額の負債を負った台湾銀行が、政府から多額の融資を受けていながら、保有する帝人株を政治家らに安価で売却するなどしたことは許し難いという一部の国民感情があったようだ(実際には株の売却はなく、帝人の株券は一貫して銀行の金庫に保管されていたことが後に判明する)。このような怪情報を流して煽ったのは(福沢諭吉が創刊した)時事新報だった。これを利用して、腐敗政治を糺すなどと思い上がった検察官僚がでっち上げたのが帝人事件だった。番組でもその趣旨が語られていた。

 帝人事件に三淵嘉子の父親は関わっていない。
 父親が帝人事件の被告とされたのを契機に弁護士になることを決意したことで有名なのは大野正男弁護士(後に最高裁判事)である。大蔵官僚だった彼の父(大野龍太)は帝人事件で逮捕、起訴された1人だった。大野はこの経験から人権を擁護する弁護士を志すことになったという。
 「虎に翼」は、おそらく大野のエピソードを借用したのだろう。ドラマの中で、三淵の父親らを弁護する弁護士の事務所が「雲野法律事務所」となっているが、これも実在の海野普吉(うんの・しんきち)弁護士をもじったものだろう。というのも、東大を卒業して弁護士になった大野さんが最初に所属した弁護士事務所が海野が主宰する弁護士事務所だったのである。

 なお、海野弁護士のことを「晋吉」と表記してあるのをしばしば目にするが、海野は「しんきち」と呼ばれているが、表記は「普吉」である。父親が「晋」と「普」を間違えて出生届をしたというエピソードを海野さんご自身から聞いたという人から又聞きしたことがある。
 ちなみに海野が弁護士として頭角をあらわした初期の事件に、大正9年の「岡本家相続事件」というのがあるそうだ。廃嫡された家督相続人の直系卑属には代襲相続権がないという当時の大審院判例を海野が弁護人となってひっくり返した(判例変更させた)のであるが、彼は旧判例に反対していた穂積重遠(穂高教授!)と中川善之助(穂積の一番弟子だが、大正9年といえば中川はまだ大学を出たばかりではないか!)に意見書を書いてもらうなどして勝訴したという。なお、この事件の相手側弁護人は仁井田益太郎だったという(潮見俊隆編著「日本の弁護士」日本評論社、1972年、315頁)。
 ここでも、ドラマに登場する穂積や仁井田(書名だけの登場だが)とのつながりがなくもない。

 政、財、官界の中枢に検察幹部が絡んだ帝人事件の性格からして、海野は帝人事件には関わらなかったと思うし、穂積も直接は関わっていないだろう。もちろん弁護人として法廷に立つことなどなかった。帝人事件の弁護人として有名なのは今村力三郎である。
 ※ 上記の帝人事件の紹介、および以下の記述は、今村力三郎『法廷五十年』(専修大学出版局、1993年)所収の今村「帝人事件弁論抄」などによる。
 今村は専修学校出身の代言人(後に弁護士)で、戦後には専修大学の総長として(後に司法大臣、法務府総裁となる)鈴木義男とともに専修大学の復興に尽力した弁護士だが、幸徳秋水の大逆事件をはじめ、戦前の多くの有名な刑事事件で被告人の弁護を担当しており、帝人事件でも弁護人として無罪判決を勝ち取ることに貢献した。
 
 帝人事件における今村の弁論は、思い上がった検事の「正義感」を糾弾するだけでなく、長期拘留や拷問などによって「自白」を強要するという人権蹂躙の捜査手法の批判、それによって得られた「自白」の信用性の批判、そして証拠に基づかない検察側主張の批判に向けられる。検察側の証拠を弾劾することによって検察側の主張を反駁するという、刑事弁護の王道をゆく弁論と立証である(「法廷五十年」185頁~)。
 彼の弁論もあって、1937年(昭和12年)東京地裁は、被告人16名全員を無罪とする判決を下し、検察側が控訴を断念したため、一審無罪判決が確定した。

 帝人事件に見られるような検察側の横暴は「検察ファッショ」と呼ばれ、その黒幕は平沼騏一郎とされている。きょう5月2日(木)の放送では、東京地裁の階段で担当判事とすれ違った際に、若い担当判事を威嚇する和服の老人が登場したが、担当検事を従えていたところを見ると平沼をモデルにした人物のようである。
 なお、この担当検事を演じる役者は、名前は忘れたがかつてはコメディアンだったように思う。居丈高で傲慢な検事の役をうまく演じている。判事役の俳優よりも上手だと思う。
 ※ ネットで調べると、かつてうっちゃんナンチャンの番組で「ドーバー海峡横断部」としてドーバー海峡を泳ぎ渡ったメンバーの一人、堀部圭亮という役者だった。お笑いタレントのように思っていたが、その後脇役俳優として活動していたようだ。

 実は、多磨霊園の今村の墓所の隣りに平沼の墓所がある。戦後戦犯として獄死した平沼は、獄中で幸徳秋水事件における検察の行為を懺悔したというが(「法廷五十年」315頁)、隣り合う2人の墓所の前に立つと不思議な感懐を覚える。どのような経緯で隣り合うことになったのだろうか。
 今村は昭和26年時点で、最近は「宣伝の時代に入り、弁護士は弁護商になった」と嘆いたというが(同313頁)、昨今のテレビに登場する「コメンテイター」と称する弁護士を見たら、さぞかし嘆かれることであろう。

 2024年5月2日 記
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