豆豆先生の研究室

ぼくの気ままなnostalgic journeyです。

金環食 (2012年5月21日)

2012年05月23日 | あれこれ

 金環食などというものにはまったく興味はなかった。

 先週の金曜日(5月11日)に、SANYOバーゲンで科学技術館に行ったときも、入口の売店で“金環食観察用色眼鏡”を1000円で売っていたが、まったく買う気は起こらなかった。
 そもそも5月21日に晴れる保証もないではないか。

 ところが、である。
 5月21日の朝、「金環食、見れるわよ!」という女房の声で起こされた。

         
 
 眠い目をこすりながら、東側の雨戸をあけ、「本当に日は出ているのだろうか?」と東の空を見上げた途端、太陽の光に目を刺されてしまった。
 もちろん太陽を直視などしてはいけないことは承知していたのだが、まさか、そこに太陽があるとは思いもしなかったのだ・・・。

 970年ぶりとか、次は170年後とか何とか、テレビが騒いでいるので(数字はあやふやな記憶による)、急にどうしても見ておきたくなった。
 近所のコンビニや100円ショップを回ったが、どこにも“金環食観察用色眼鏡”はなかった。こんなことなら、あの時科学技術館で買っておくのだった。
 仕方なく、テレビの画面で観賞することにした。

         

 ところが、7時21分が近くなるにつれて、東京の東の空には厚い雲が流れるようになり、その雲がフィルターのかわりになって、肉眼でも太陽を見ることができるようになった。
 そして、見事に金環食の瞬間も、雲間から指輪のような太陽を拝むことができたのだった。

         

 数日経ったら、世間は“東京スカイツリー”一色となり、金環食のことなど誰も話題にしなくなってしまった。
 ニッポンのマスコミの馬鹿騒ぎは、おかしくはないか。踊らされた僕も愚かではあるのだが。

 2012/5/23 記

若葉繁れる 飯田橋

2012年05月08日 | 東京を歩く


 5月の連休も明けて、東京は一気に若葉が目にしみる季節となった。

 きのう、今日などはジャケットを着ていると汗ばむくらいである。

 いつもながらの、通勤路沿いの飯田橋の風景。

 ホテル・メトロポリタン エドモントの玄関まえ。撮影は昨日(5月7日)の昼下がり。

       

 そして通称(自称?)“ホッペマの並木道”こと、飯田橋アイ・ガーデンエアー通り。
 いずれも、きょう(5月8日)の午前中に撮影したもの。

       

       


       2012/5/8 記

東京の桜 (武道館)

2012年04月08日 | 東京を歩く

 2012年4月8日、春休み最後の日曜日。
 天気がよいので、桜見物に出かけた。

 例年と同じく、武蔵野市役所前の通り、けやき橋から武蔵境、国際基督教大学をまわった。いつもは国際基督教大学の後で、多磨霊園にもお墓参りをかねて立ち寄るのだが、きょうは東八道路が混んでいたので中止。
 人見通りを東に向かい、三鷹消防署前の“ドラゴン”で昼食を食べて帰ってきた。

 カメラを持っていくのを忘れたので、数日前の入学式のときに撮った武道館周辺の桜をアップしておく。
 上の写真は、田安門から見下ろす千鳥が淵。向こうの建物は昭和館。
 次の写真は、靖国神社鳥居前の歩道橋から眺めた靖国通り沿いの桜の風景。

       

 つづいては、千鳥が淵の堀に浮かぶボート。ボートからの眺めもよさそうだが、ボートに乗るためにはかなり長い行列に並ばなければならない。

       

 最後は、首都高の飯田橋出口付近、神田川沿いの桜並木。

       

 この2、3年、東京の桜はどうも色が薄くなってしまったように思う。桜の寿命は50年と何かに書いてあったが、東京の名所の桜は寿命に近づきつつあるのだろうか。

 2012/4/8 記

きょうの軽井沢 (2012年3月29日)

2012年03月29日 | 軽井沢

 大学3年の息子は、就職活動中。
 ほんとうは4月1日から入社試験が解禁のはずだが、すでにエントリーの採否はほとんど終わっており、面接試験がはじまっている会社もある。
 そんな状態が一段落して、4月1日の正式スタートまで中休みというので、息子の運転練習をかねて、きのう、きょうと軽井沢に行ってきた。

 家は使えないので、私学共済に宿泊。上の写真は、けさ宿を出発するときの浅間山の眺め。
 山頂だけではなく、東側のすそ野もずいぶん低いところまで雪が残って、朝日に白く輝いていた。
 平地でも、3月末というのに、道路や山荘の北側など陽の当らない場所にはまだ雪が残っていた。10日ほど前の雪だという。 

       

 いちおう、千ヶ滝の家に様子を見に行く。
 近所のベスト・ビューポイントで浅間山を撮影。夏は緑にさえぎられてほとんど見えないのだが、まだ春浅く、木々は枯れたままなので、くっきりと浅間山を望むことができる。
 山道を下って、今度は軽井沢スケートセンターからの浅間山。ただし、軽井沢スケートセンターはすでになく、千ヶ滝温泉だけが営業している(らしい)。
 かつては、スケートセンターのホームページに、スタッフが“きょうの浅間山”という写真をアップしてくれていたので、四季の浅間山の変化を覗いていたのだが・・・。

       

 つづいて、旧軽井沢へ。
 旧道(旧軽井沢銀座?)を上って、軽井沢の開祖(?)ショー牧師の別荘、ショ―ハウスへ。いかにも宣教師らしい質素な別荘である。
 かつての日本の小学校の校舎のようでもある。

       

 昼食にはまだ時間があったので、三笠ホテルまで散歩することにした。片道約2キロ弱。空気はきれいで、気温もほどほど(軽井沢としては暖かい10℃くらい)。鳥たちが心地よさげにさえずっている。
 歩道は残雪でぬかるんでいて、歩きにくい。クルマもあまり通らないので、雪のない車道を歩く。

       

 三笠通りの道路沿いには、最近建った豪勢な別荘が多いが、往時をしのばせるいかにも軽井沢らしさを漂わせたクラシックな別荘も残っている。
 昭和30年代は旧軽井沢でもこんな雰囲気の別荘が多かったのだが、高度成長とバブルであの時代の軽井沢は“幻の軽井沢”になってしまった。

       

 以前、朝日新聞に御厨貴さんが“軽井沢別荘物語”とか何とかいうエッセイを書いていた。
 第二次大戦末期に軽井沢を舞台に繰り広げられた終戦工作の話だったが、鳩山や近衛らが和平工作のためにスイス公使と密会していたという、旧スイス公使館跡もあった。      

       

 往復約1時間ちょっとで、ふたたび旧道に戻り、浅野屋でランチを取る。
 浅野屋のマークって、こんな感じだったのか。いかにも昭和らしくていい。
 小松ストアー、三笠書房、酒井化学、明治屋、明治牛乳などなき後、物産館、鳥勝、中山農園などとともに、辛うじて昭和30年代の旧軽を偲ばせてくれる。
 そう言えば、万喜の路地からは天ぷらを揚げる匂いが漂っていた。祖母が好きな店だった。

             

 その後、西口のショッピングモールに立ち寄って帰京。
 新座料金所まえ1、2キロから渋滞が始まっていて、途中休憩を入れて約3時間かかった。

 2012/3/29 記

川本三郎 『郊外の文学誌』

2012年03月27日 | 本と雑誌

 川本三郎『郊外の文学誌』(岩波現代文庫、2012年)を読んだ。
 川本三郎は、20代後半の頃によく読んだ作家(物書き)のひとりである。

              

 『朝日のようにさわやかに』(1977年、筑摩書房)、『同時代を生きる「気分」』(1977年、冬樹社)、『雑エンターテイメント』(1981年、学陽書房)、『走れナフタリン少年』(北宋社、1981年)、『町を歩いて映画の中に』(1982年、集英社)、などなど。
 
 しかし、『同時代を生きる「気分」』を読んだ時には、彼とは「同時代を生きていない」気分を感じたし、その後、『雑 〜 』や『ナフタリン 〜 』などは文字通り「雑」な感じがして、やがて遠ざかってしまった。

              

 ・・・と書いていて気になったので、これらの本を引っ張り出して眺めてみた。
 『郊外の文学誌』によると、川本は阿佐ケ谷に住んでいたらしいが、ぼくはてっきり西荻窪の住人だと思っていた。
 ぼくが中学校に通っていた昭和40年頃、西荻窪駅北口には“映画館通り”という路地があって、左右に映画館が3軒並んでいた。川本の映画本の中に、確か西荻の“映画館通り”のことが書いてあったので、彼を西荻の住人と勘違いしたようだ。今回探してみても『シネマ裏通り』にわずかに「西荻名画座」という文字が出てくるだけだった。

 しかし、大発見もあった。『シネマ裏通り』には“ピンク映画”の思い出がけっこう出てくるのだが、その中で、大西康子のことを、“忘れもしない「網のなかの女」”と書いているのだ。ぼくだって「忘れもしない大西康子」、同姓同名のクラスメイトがいたのだ。「網のなかの女」も「100万人の夜」か「近代映画別冊」でスチール写真を見た。
 マリリン・モンローよりジェーン・マンスフィールドのほうがいいとも書いてある。これも同感。彼女が来日した時に「週刊プレイボーイ」か何かに掲載された彼女のグラビア(確か三つ折りの大きなカラー写真だった)をもっていたはずなのだが、どこかにしまいこんで見つからない。

              

 『シネマ裏通り』は表紙のカバーがフェリーニの“道”というのもいい。できればアンソニー・クインがジュリエッタ・マシーナを置き去りにするシーンだともっと良かったが。 
 『雑エンターテイメント』も、当時隆盛を極めていたサブカルチャー雑誌に書いた原稿を集めたので「雑」と冠したらしい。たしかにいろんな雑誌があった。自分のことを「フリーの売文業者」と書いている。

             


 前置きが長くなったが、『郊外の文学誌』に戻ろう。
 『郊外の文学誌』は近代東京の「郊外」を舞台にした小説、「郊外」に移り住んだ作家を辿った随筆(?)である。「文学散歩」というのは一段格下の文章とみる筆者の考えに従うと「評論」なのかもしれない。
 そんなことはともかく、この本は面白かった。
 文学のことは分からないのだが、何といっても、自分の身近で思い出深い場所や地名がたくさん出てくるので。

 ちなみに、この本に出てくる「郊外」は東京の郊外に限られる。しかも、大部分は中央線(というよりかつての甲武鉄道)の沿線、飯田橋から、大久保、中野、阿佐ケ谷、荻窪あたりまでで、それに蒲田、青山、八王子あたりの話も少し出てくる程度である。
 東京では、関東大震災と東京大空襲を2つの画期として、市中や下町を追われた人々が大量に東京の西部に移動したが、かれら「小市民」の暮らしぶりを郊外に移住した作家の伝記や作品の中にたどって行く。

 「郊外」の定義も難しい。
 要するに「東京」ないし「(旧)市中」さらには「東京市」などに対立する概念である。だが、「山の手」と一致するわけでもない、「田園」とも「武蔵野」とも違う(288頁)、「田舎」「片田舎」「ムラ」でもない。「辺境」のニュアンスはあるがたんなる辺境でもない。「場末」とも違う。
 いずれにしろ、「郊外」が指す地域は、時代が下るとともに次第に西へと移っていく。
 漱石の時代には大久保も飯田橋も「郊外」なら、青山も「郊外」だった。やがて「中野」あたりが「郊外」になり、結核病みの作家が療養生活を送っている。そういえば中野には肺結核専門の国立中野療養所があった。
 そして、関東大震災と郊外電車の開発によって、阿佐ケ谷、荻窪が「郊外」になり、「境」「三鷹」「小金井」も「郊外」になっていく。
 釣り人などが雑踏する二子玉川を避けて、永井荷風が「鄙びた」(!)田園調布を散策する記述なども印象的だ。

 意外だったのは、東京の西部の人間にとっては東の方は全部「下町」だと思っていたのだが、もともとは日本橋界隈だけが「下町」で、墨田、江戸川、葛飾など、東京の東にも「郊外」があり(283頁)、しかも西の「郊外」と同様に東に延長していったという(293頁)。これらの地域は「新下町」などと呼ばれることもあったらしい(299頁)。
 小津安二郎の「風の中の雌鶏」や「東京物語」に登場する荒川放水路周辺も「郊外」だそうだ(285頁)。

 八王子、横浜、鎌倉など、「郊外」が拡がるはるか前から発展していた東京の西部や西南部の町との関係や、旧市中のお屋敷街の来歴も知りたくなった。

 ぼくの個人的な関心としては、「郊外」の住人たちが、持ち家だったのか、借家暮らしだったのか、それが当時の貨幣価値でどのくらいだったのか、それが小説家の私生活や作品にどう反映されているのかなども、近代日本の寄生地主の土地所有や不動産賃貸借(貸家資本)の実態などに興味があるぼくとしては知りたいところである。

               

 上のようなことを調べる必要があって、末弘厳太郎『農村法律問題』(農文協、1977年。最初の改造社版は大正13年)を読んだのだが、同書には次のような記述がある。
 
 「大正十年借地法が施行されてより此方、同法施行区域たる東京及び隣接町村に於ては借地を求むる者のみ多くして、土地を買はんとする者は寧ろ減少し、又之と反対に大地主にして土地の売却を希望するもの多きに拘らず、之を賃貸せんとする者が一般に減少した。・・・建物保護法と借地法とに依って借地権が法律上きわめて強固のものとなった以上、巨費を投じて所有権を取得せんよりは、其の資本は之を別途に利用して利益を得つつ、其利息の中より借地料を支払ふことにする方が遥かに利益である。」

 あるいは、水本浩『借地借家法の基礎理論』(一粒社、1966年)によれば、「わが国における借地人層は都市の中間層(厳格に見れば中間下層と労働者上層が多い)が主であった。日本資本主義は、先進諸国の帝国主義への移行期において体制的スタートを切ったために、・・・早急に巨大資本の形成を見たかたわら、封建的諸関係がかなり広汎に持ち越された・・・。そのような後れた面を反映して、部厚く零細企業が滞留せしめられるとともに、生来の無産労働者ならざる小資産者的サラリーマンおよび労働者が大幅に生み出されたのであった。このような社会階級的基礎の上に、木造という比較的安価な建築様式が手伝い、・・・自己住宅や小営業のための小面積借地が広汎に成立してきたのである。」
 「わが国の借地人層は、・・・勤労大衆の位置を占めてきた」。「中間層の中でも、その上部(中間上層)は自己所有地における小住宅所有者層であったのであるから、借地人層は、中間層(中間下層)の下部が主な部分であった。」という記述にも出会った。

 分かりにくい、というか実感しにくい文章なのだが、幸いに小津安二郎のいわゆる「小市民」映画を見ていたので、時代の雰囲気を伺うことはできた。
 川本の本に、文士(売文業者)の収入(原稿料)や住居の所有形態、購入費用などが書いてあったら助かったのだが。

 2012/3/27 記

崎山健一郎 『東京ノスタルジック』

2012年03月11日 | 本と雑誌

 いつだったか、立ち寄った神保町の岩波ブックセンターの店頭で見かけて、崎山健一郎『家の写真集 東京ノスタルジック』(岩波書店、2011年7月)を買った。

 いまだ東京に残って昭和、大正の面影をしのばせる家々を撮った写真集である。
 本の後書きによると、撮影した崎山氏は集英社のカメラマンとして「週刊プレイボーイ」のグラビアなどを撮影した後、定年退社後に散歩しながら撮影した写真を集めたのが本書になったという。

 集英社に勤務していたというだけに、わが神保町界隈の写真も多い。今年早々にとうとう取り壊されてしまった九段下ビルの写真もある。
 2階の外壁に、懐かしい「中根速記学校」という剥げかかった文字が見えている。
 関東大震災後の復興住宅として建てられたビルで、一時岡田嘉子も住んでいたと聞いたことがある。

          
 
 神保町の路地裏にあった能楽書林の建物も昭和の雰囲気を漂わせていたが、その後建て替えられ新しいビルになってしまった。ただし、新しい建物の正面には、旧社屋のように能面(?)のレリーフが飾ってある。
 上の写真は、昭和63年5月発行の「本の街」92号の表紙を飾った能楽書林の古い建物。

 すずらん通りにあった“東洋キネマ”も、ぼくの大学院生時代にはまだ営業していたが、その後地上げにあって閉館した。建物はしばらく放置されていたが、やがて取り壊されててしまい、今では跡形もない。

 いま神保町で昭和の面影を残している建物というと、専大前交差点を少し南に行った鰻屋、今荘くらいになってしまった。あそこは、古びた重箱から座布団まで昭和そのままである。
 いつか写真を撮ってこよう。

 下の写真は、神保町からは外れるが、九段下の九段会館。旧軍人会館、かつては2・26事件で有名だったが、昨年の3・11大地震の際に天井が落下して死傷者が出て以来、営業していないようだ。

             

 この本には、ぼくが時々散歩に出かける神田須田町の裏通りの写真も何枚か載っている。須田町も空襲を免れたらしく、古い家屋やビルがいまだに結構残っている。
 あのバナナと大学いもしか売っていない八百屋(?)はまだ健在だろうか。
 2001、2年頃の写真も載っているが、九段下ビルのようにその後取り壊されてしまった建物も少なくない。
 「3丁目の夕日」などのような、まがいものではない昭和がここには記録されている。

 下の写真は、西神田の住友不動産、千代田ファーストビル西館の東南に建っていた昭和の住宅。建築確認の看板が掲げられたので、「危ない!」と思って、写真に収めた。
 2010年11月8日に撮ったものだが、すでに取り壊されてワンルーム・マンションになり、入居者募集のビラが貼ってある。

       

 
 ところで、本書の著者、崎山氏は「週刊プレイボーイ」の表紙やグラビアを撮影したとある。
 ひょっとして、わが桜田淳子のグラビアも撮っているのでは、と思って古いスクラップ帖を引っぱり出してみると、予想通り、「撮影=崎山健一郎」とキャプションの入った桜田淳子が見つかった。
 「週刊プレイボーイ」のグラビアと思うが、発行年月日はわからない。
 
            

 2012/3/11 記
 

東京の雪(2012年2月29日)

2012年02月29日 | あれこれ

 朝9時近くに起きると、予報通り、外は一面の雪景色。雪はまだ降りつづけていた。

 いつも通り、2階の窓から眺めた東京の家々の屋根の雪景色を撮った。
 中国映画“紅夢”(1991年。張藝謀(チャン・イーモウ)監督、鞏俐(コン・リー)主演)。
 題名は「紅」で、主人公の大邸宅の玄関には赤い大きな提灯が提げられていたのだが、なぜか、ヒロインが殺される冬の早朝の、雪をかぶった邸宅の屋根だけが印象に残っている。
 向かいの家の南側に植わっているヒマラヤ杉も雪をかぶって屹立している。

        


 話は変わって、先日鎌倉へ行ってきたので、久しぶりに小津安二郎監督の“晩春”を観た。
 最初のシーンは、記憶通り、北鎌倉駅に初夏の風が吹きわたるショットだったが、踏切は別の映画だったようだ。

         

 隣りの鎌倉駅のホームの場面もあった。
 先日、乗り換えのために降り立った鎌倉駅のホームは、けっこう観光客で混みあっていたが、“晩春”の頃は長閑なものである。
 1949年の完成とあったから、ぼくの生まれる前の年、今から62年前の風景である。

         

 走っている電車は、古い木造の車両である。
 ぼくの子どもの頃の湘南電車は、緑とオレンジ色の2色に塗り分けた車両だったが、それ以前はこんな電車だったのだ。

        

 高橋治「絢爛たる影絵」などを読んでからは、いよいよ原節子の顔が怖いので、その辺は早送りで済ませる。
 笠智衆との京都旅行で原節子の気持ちが和らぐのだが、清水寺のシーンでは、笠智衆と坪内美子のツーショットが見られる。坪内はぼくが好きな女優だが、笠の友人の後妻役で出ている。

        

 そして、ラストシーン。
 娘、原節子を嫁がせた婚礼の帰り道、料理屋に立ち寄って月丘夢路と酒を飲む。
 このあたりは、“秋日和”の岡田茉莉子と同じである。“秋日和”で褒められていたのは佐分利信だったが。
 自宅前で煙草を捨てるモーニング姿の笠智衆。その後、家に戻った笠がリンゴの皮を剥きながら眠る(?)シーンになる。

        

 ※ スチール写真はいずれも小津安二郎監督“晩春”(1949年)“日本名作映画集21”KEEP社刊より。

 2012/2/29 記

北鎌倉散歩

2012年02月25日 | あれこれ

 この3月で定年退職される同僚の送別会を兼ねた研究合宿に出かけてきた。

 場所は、鎌倉の由比ヶ浜沿いにある私学共済の「あじさい荘」。

 一昨日、2月23日(木)は朝から雨。時おりけっこう激しく降ることもあった。やや気が重かったが、行かないわけにもいかない。
 池袋から湘南ライナー逗子行き普通列車で60分ちょっと、鎌倉駅に到着。江ノ電に乗り換えるところで、退職される先生と合流する。
 
 長谷駅で下車。雨が強いので、駅舎の2階にある五鉄ラーメンという店に入ると、すでに先客の同僚たちが餃子をつまみにビールを飲んでいる。
 次の電車でさらに同僚3人が入ってくる。
 ラーメンを食べ終わり店を出ると、雨は小降りになっていた。徒歩10分足らずで、あじさい荘に到着。
 玄関前に立った電信柱には「ここは海抜3・1メートル」という看板がかかっていた。「怖いねー」というものの、誰も避難経路は確認せず、中に入る。

              

 研究報告は3本。
 夕食後は風呂に入って、カラオケ。
 最年長は定年となる70歳の先生、最年少でも50歳というメンバーは、“カラオケはタイム・マシンである!」と思っているぼくには程よい年齢構成である。
 最初に女性の先生が「夜明けのスキャット」(由紀さおり)を入れたりするのだから、ドンピシャ!である。
 できれば、もっと絞って昭和23年生まれから27年生まれに限定できると、「タイムマシン」としての性能はもっと上がるのだが・・・。

 「卒業写真」(ハイファイセット)、「風」(シューベルツ)、「旅人よ」(加山雄三)、「帰ってこいよ」(松村和子)、などをビールを飲みながら歌う。
 最後に「なごり雪」を歌おうと思っていたのだが、女性教師が2、3曲続けたところで時間切れ。
 ご当地ソングの「真白き富士の嶺・・・♪」も歌いたかったが、曲名が分からなかった。入ってなかったのかも知れない。

        

 翌日、2月24日(金)は、前日の雨がウソのような暖かい春日和。
 午前9時には宿を出て、長谷駅から鎌倉駅経由で北鎌倉へ。同僚の中に東慶寺に顔のきく先生がいて、その先生の案内で寺内を見学。
 家族法学の草分けである中川善之助先生のお墓にお参りする。先生の命日である3月20日は私の誕生日でもある。先生が上野駅で亡くなられてからもう何年経つだろうか。
 東慶寺の正門わきの梅の木にはちらほらと白い花が咲きはじめていた。

        

 「鉢の木」で昼食をすませ、北鎌倉駅で現地解散となったが、戸塚駅で人身事故とかで電車が来ない。
 小津安二郎の“晩春”のファースト・シーンの北鎌倉駅の上りホームは、(おそらく)北鎌倉女子学園のクラシックな制服姿の女学生たちであふれかえっていた。
 鎌倉の旅で、彼女たちの制服姿だけが小津安二郎の世界を思い出させてくれた。

 おなじく“晩春”だったかに写る北鎌倉駅の踏切はこれだろうか。木々の葉が初夏の風に揺れるあの面影はもうなくなってしまった。

       

 せっかくなので、小津安二郎監督の“麦秋”の最初に出てくる北鎌倉駅のショットと、途中で出てくる、北鎌倉駅のホームで二本柳寛が原節子に、「チボー家の人々」、もうお読みになりましたか? と話しかけるシーンを載っけておく。
 “晩春”も同じ北鎌倉駅のショットから始まるが、微妙にカメラの位置が違っている。(いずれも、Keep社の“日本名作映画集22”から。)

       

       

 2012/2/25 記
 

スバル “レックス・コンビ”

2012年02月22日 | クルマ

 何か書いておかないと、2006年2月以来つづいているこのコラムの書き込みが1か月以上途絶えてしまう。
 たいして書くこともないのだが、正月に上の息子が遊びに来た時に、祖母が持ち出してきた息子の写真の背景に、わが家の古いマイカースバル“レックス・コンビ”が写っていた。

 最初の写真は、「1982年12月11日」という日付があるので、三輪車に跨っている息子の1歳の誕生日の写真のようだ。

 スバル“レックス・コンビ”は1981年に2代目が発売されたらしいから、2代目のレックス・コンビだと思う。
 この軽自動車の後部座席に小さかった息子を乗せて軽井沢にドライブにも行った。

       

 次の写真は小学校入学式の朝の写真で、「1988年4月6日」と日付が入っていた。
  もっと小さな“スバル360”で、しかも大人4人で碓氷峠を登ったことを考えれば、レックスで難儀をしたという思い出はない。


 ちなみに、隣りに並んでいるのはスバル1100かレオーネだと思う。

 2012/2/22 記

東京の雪景色 (2012年1月24日)

2012年01月24日 | あれこれ

 昨夜は 夜の7時45分に補講が終わり、帰路についたのだが、お茶の水界隈は冷たい雨が降っていた。

 途中で軽い食事をとって、地下鉄に乗った。そして自宅の最寄り駅で降り立つと、何と一面の雪化粧。深々と雪が降っているではないか。
 さくさくと積もり始めた雪を踏みしめて家に戻った。

 「明日はきれいな東京の雪景色を写真に収めながら出勤だ!」と思っていたのだが、今朝起きてみると、もう雪は解けはじめていた。
 それでも、わずかに残った雪をとりながらの出勤となった。

 まずは、西武線の車窓から。

       

 ぼくの子どものころは「かちどき製粉」という工場があって、その北側のなだらかな斜面に積もった雪がきれいだったのだが。

 つづいて、いつもの飯田橋駅からの道。
 最初は、ホテル・メトロポリタン・エドモント前の植え込み。
 生垣がわずかに雪帽子をかぶっている。

       

 つづいて、東京しごとセンター前の植え込み。

       

 そして、住友不動産の千代田ファーストビル西館裏の植え込み。

       

 赤い実をつけた南天(?)もわずかに雪をかぶっていた。

       

 そして、研究室に到着。
 いつもながらの、研究室の窓から眺めたお茶の水界隈の屋根、屋根、屋根・・・、と言いたいところだが、ビル、ビル、ビル。

       

 東京の雪にはいくつか思い出があるが、ぼくにとって一番印象的な東京の雪景色は、丸の内のサントリー美術館の窓から眺めた都心の雪景色である。
 大学生の頃、友人に誘われて、当時は皇居を見下ろすビルの上層階にあったサントリー美術館に出かけた。何を展示していたのかはまったく記憶にない。
 ちょうど今日と同じような雪の降った翌日で、窓から見下ろしたお堀端の雪景色だけが印象に残っている。

 その頃、結城昌治の『公園には誰もいない』という推理小説を読んでいたのだが、講談社文庫の表紙カバーに雪景色の公園の絵が描かれていた(はずである)。
 サントリー美術館から眺めた雪景色と、結城昌治の文庫本のカバーの挿画とが、なぜか思い出されるのである。

 * 最初の写真は、今日の飯田橋garden air−i(通称? 飯田橋のホッペマの並木道)。雪はまったくなかった。

 2112.1.24 記

2012年 最初の豆豆研究室

2012年01月11日 | あれこれ

 順番が逆だけれど、遅ればせながら、今年最初の“豆豆研究室”の写真を。
 いずれも、今年の1月11日に撮ったもの。

 1月11日は、大学時代の恩師の1周忌にあたる。
 「こんなブログばかり書いていないで、勉強しろ!」と叱られそうである。

           

 最初の写真は、豆豆研究室の窓辺に鎮座する翡翠の亀の置物。
 中国旅行の際に買ってきたのだったか、誰かのお土産でもらったもの。
 縁起がよいというので、東方に向かって飾って、ときおり頭を撫でてやっている。ご利益はあったようだ。
 「謝謝!」

       

 そして、その日の夜。
 今年最初の講義が終わって、研究室の窓から外を眺めると、冬のお茶の水の夜空に満月がかかっていた。
 写るのかどうか分からなかったけれど、いちおう「夜景モード」というやつで撮影してみた。
 何とか写っているようだ。

       

 ついでに、1月24日に研究室の西側の窓から眺めた武道館方面の写真も載っけておこう。

 2012.1.11 記

謹賀新年 2012年

2012年01月04日 | あれこれ

 2012年 

 明けましておめでとうございます。
 本年も、徒然なるままに書き綴りたいと思います。よかったらお付き合い下さい。

 さて、新年恒例の“わが家のお節料理”と行きたいところですが、今年は米寿になる母親が、「もう正月行事はやめよう」というので、特別なことはしないで家内が焼いたロースト・ビーフその他とお雑煮だけになった。
 これに、息子の就職祝いにと家内の友人が送ってくれた“大吟醸 暁”と、地元鹿児島に就活のため帰省中のゼミ生が送ってくれた芋焼酎“黒霧島 メルト”、それにビールで毎日酒盛りの日々を過ごした。

         
         
 “黒霧島 メルト”は一体いくらくらいの値段なのだろうかとネットで検索したが、AMAZONでも楽天でも品切れだった。さすが「幻の焼酎」と言われるわけだ。
 どこかの飲み屋のホームページでは、“黒霧島”が1杯500円、“赤霧島”が730円、“黒霧島 メルト”は何と1杯1800円! となっていたから、1瓶となると結構な値段なのだろう。

         

 しかし、値段だけのことはあって、旨い。香りは控えめ、舌触り、喉越しともにマイルドで、強い酒を飲んでいるという気がまったくしないのである。
 「よい焼酎はお湯割りにしてはいけない」と鹿児島県人に説教されたので、冷凍庫で冷やしてとろっとさせておいたのを、ロックや水割りでチビチビと呑む。

         
        
 普通の“黒霧島”だって悪くはないと思っていたのだが、“メルト”と飲み比べると、まったく別世界であった。

 閑話休題。

 元旦は、息子の就職内定先に家族4人でドライブ。
 息子は電車で通勤する予定だが、クルマでも結構近いことが分かった。正月でいつもよりはすいていたのかもしれないが、50分弱で到着。
 正門前で記念写真を撮って、帰宅。

 こうして、わが家の2012年はスタートした。
 
 2012/1/3 記 

『住まいと家族をめぐる物語』

2011年12月29日 | 本と雑誌

 西川祐子『住まいと家族をめぐる物語−−男の家、女の家、性別のない家−−』(集英社新書、2004年)を読んだ。

 ゼミ生に大工さんの息子がいて、ゼミの時に「家族と住居」という報告をした。その時に彼が参考文献のひとつとして挙げた本である。
 数日前の病院の待ち時間と、年賀状を書き終わった今日の午後に読み終えた。面白かった。

 近代日本の家族の変遷を、家族の器としての住居との関係で論じた本である。
 近代日本の住居は“囲炉裏端のある家”から“茶の間のある家”を経て、“リビングルームのある家”へと移り変わり、そして現在は“ワンルームの家”も増加している、という。各時代はオーバーラップしながら変遷しているのだが、著者はそれを「二重構造」という。

 このような住居の変遷は、そこに住む家族の変容を反映している。
 “囲炉裏端のある家”に住むのは封建的な家長中心の「家」的家族であり、都市化とともに夫婦中心の小家族が「家庭」生活を送る“茶の間のある家”へ、さらに、戦後の団地世代以降は「食寝分離」、「就寝分離」を伴う“リビングルームのある家”へと推移していくのである。

 “リビングルームのある家”は(夫婦・子ども)部屋の個室化を伴い、家族の個人化が加速し、今日の“ワンルームの家”は家族の個人化の到達点である。
 この過程に並行して、家は女性化することになる。言いかえれば、女性は家に取り込まれることになる(専業主婦化)。逆に残業で帰宅の遅い男には家での居場所はない。女が家を出るのは「家出」だが、男が家を出るのは「蒸発」しかないという。なるほど・・・。

 著者が勤務する大学で開講した「ジェンダー文化論」というゼミの営みをもとに作られた本だという。
 時々の家族や家族の住居が描かれた小説や映画が引用されている。小津安二郎も1か所だけ登場するが(89〜90頁)、少なくとも昭和以降は、小津安二郎の映画だけで「家族と住居(家)」について論ずることができると思う。

 本書に登場する木賃宿は岡田嘉子・坂本武の“東京の宿”(1935年)、当時の比較的裕福な大学生の下宿生活は“若き日”(1929年)、苦学生の貧しい下宿生活は“東京の女”(1933年)、貧しいサラリーマンの家は“大学は出たけれど”(1929年)、“東京の合唱”(1931年)などに登場し、当時のサラリーマンが東京の郊外に建てた一戸建ての家は“生れては見たけれど”(1932年)、などにそれぞれ描かれている。

 戦争直後の長屋生活はそのものズバリ!“長屋紳士録”(1947年)に、夫の復員を待つ妻子の間借り生活は“風の中の雌鶏”(1948年)に出てくる。少し時代が落ち着くようになってからの家は“晩春”(1949年)や“東京物語”(1953年)、“東京暮色”(1957年)などで見ることができる。“東京物語”や“早春”には当時の(=高度成長以前の)戦争未亡人、独身サラリーマン、工員などのアパートの部屋もたくさん登場する。

 そして、高度成長が始まった時期の東京に生活する上層サラリーマンの家庭と住居が描かれる“秋刀魚の味”(1962年)で小津の映画は幕を下ろすのだが、「家族とその器としての家」という本書の著者のテーマで小津安二郎の映画を語ることは十分に可能だろう。
 先日、夜中に目が冴えてしまって、久しぶりに“秋刀魚の味”を見たのだが、あの家は「茶の間のある家」の典型だろう。
 家事を切り盛りする岩下志麻がアイロンをかけ、同窓会から酔って帰宅した笠智衆がお茶を飲み、同じく夜遅くに帰宅した三上真一郎が岩下に夜食を催促するあの卓袱台が真ん中に置かれた畳敷きのあの部屋を一度は通って家族は各自の部屋に消える。
 2階にはいちおう岩下の個室らしき部屋もあるが、廊下を隔てる障子は開いたままで、弟の三上が「姉さん、上で泣いていたぞ」と笠智衆、佐田啓二に告げるシーンもある。

 茶の間から続く中廊下の突き当たりには、「台所」があって、質素な食卓と椅子は置いてあるが、まだ「リビングルーム」とは言えない。そう言えば、“お茶漬の味”(1952年)で佐分利信が一人お茶漬けをすするのもあんな台所の食卓だった。
 娘を嫁がせた夜に一人で帰宅した笠智衆がその椅子にがっくりと腰を落とすシーンで小津の映画生活は終わっている。
 
 その後にやってきた「リビングルームのある家」の家族生活を描いた映画監督はいるのだろうか。

 * 西川祐子『住まいと家族をめぐる物語−−男の家、女の家、性別のない家−−』(集英社新書)。
 2011年をクルマの話題で締めくくりたくはなかったので、こんな記事を書いた。クルマのことを書くとアクセス数が跳ね上がるが、それはぼくの本意ではない。来年は、できれば軽井沢と映画と本の書き込みでアクセス数を上げたいものである。
 これで2011年はおそらく最後だろう。1年間、何度か読んで下さった皆さん、有難うございます。良いお年をお迎え下さい。

 2011/12/29 記

トヨタ “アクア” を見てきた

2011年12月27日 | クルマ

 池袋、サンシャイン通りの“アムラックス トヨタ”池袋展示場に行って、きのう26日に発売された“トヨタ アクア”を見てきた。

         

 1階のフロアにはブルーが1台だけ展示してあり、その他のボディーカラーはすべて3階に展示してある。
 そのブルーのボディーの“アクア”を見た第一印象は、「悪くない」。これまでネット上の写真で見た印象よりは、はるかに良い。ただし、展示場のカクテル光線に照らされて輝く展示車両は、どのクルマも街中で見るより数倍きれいに見えるが。

         

 全10色を見たなかでは、第1位=ブルー、第2位=ライムホワイト、第3位=スーパーレッド、の順。まったく「個人の感想」で、ぼくはどんな車でもこの3色(トリコロール)が気に入ってしまうのだが。
 還暦も過ぎたので、「元気の出る赤!」とも思っているのだが、アクアの赤はちょっと違った。もともと“aqua”(=水)というネーミングのクルマに赤は似合わないか。

         

 ただし、普通のホワイトとライムホワイトは並べてみると確かに違う色をしているが、街中で単体で見たら区別がつくだろうか。

         

 ブラック、グレー系統はこのコンパクト・カーには合わない。展示場でも隅の方に置かれていて、影が薄かった。
 イエローも個人的に好きな色ではない。その昔、SB食品の懸賞で当たった宣伝用ルノー(?)を思い出す(わかる人にはわかってもらえるだろう)。
 展示車もイエローだけはエアロパーツをまとっていた。その手の人が選ぶカラーなのだろう。 

         

 このクルマのテーマ・カラーらしいシトラスオレンジ、クールソーダともにいまいち。クールソーダはこの時期に寒々としていて、つい写真を撮るのも忘れてしまった(と思っていたがカメラの中に1枚あった)。

         

 さて、室内はどうか。大体は“ヴィッツ”の広さと質感と思えばよいだろう。わがランクスよりは明らかに狭く、運転席に座ると助手席が近く感じる。

         

 運転席の足元も狭い。フットレストが、かなりブレーキペダルに近い。

         
         
 シートも大きいというが、ぼくは今乗っているランクスもそうだが、どうもトヨタのシートと相性が悪く、ジャスト・ポジションが得られない。
 ほとんどの展示車がGグレードのアース・ブラウンという色のインテリアだったが、Sグレードに比べると圧倒的にGのインテリアの方がよい。
 フロア・シフト、サイド・ブレーキはよいが、シフト・ノブやエアコンのスイッチなどのプラスチックの加飾などもテカりすぎ。

 後席は、ちょうど試乗している人が降りようとしていたのでシャッターを切った。頭上はやや厳しそうである。改良されたインサイト・イクスクルーシブくらいか。

         

 アクアも悪くはなかったが、今乗っているランクス(8年目、2万6000キロ)を10万円か20万円で下取りしてでも買い替えようという気にはならなかった。

 “アクア”は燃費を強調するが、年に4000キロも乗らない私にとって、リッター35キロとか40キロはあまり決定的な要素にはならない。「エコ」というのも嫌いだ。本当に「エコ」を考えるなら、ハイブリッドだろうが電気だろうが、クルマなんかに乗ってはいけない。
 地球には申し訳ないけれど、ぼくは年に3000キロちょっとは自分の好きなクルマに乗りたいのである。

 アクアは、まだまだ、スイフト、デミオなどと並ぶ“one of them”にとどまる。

         

 2011/12/27 記

メリー・クリスマス!

2011年12月25日 | あれこれ

 何か書き込まないと、2006年以来はじめて1か月間なにも書き込まなかったことになってしまう。

 そこで、ひとまず、“メリー・クリスマス”と、わが家のクリスマス・パーティーに上の息子が持って来たデコレーション・ケーキの写真を。

 息子とその彼女も含めて、今年は7名を招待したので、わが家の狭いテーブルの上には各人の皿とグラスを置くだけで精いっぱい。そこで今年はビュッフェ形式にした。
 何年か前の私の誕生日に息子からプレゼントされたレコード・プレーヤーで、パット・ブーンの“ゴールデン・クリスマス”というLPを聞きながら、シャンペンとワインで食事とおしゃべり。

          

 それぞれ心ばかりのプレゼントを交換したが、今年は、私たち夫婦にとって何物にも代えがたいプレゼントがあった。
 クリスマスの直前、上の息子に東京の大学から採用通知が届いたのである。
 晴れて息子も来年4月からは完全に独り立ちの社会人になる。
 これで、私たち夫婦の親としての役目は一応果たしたことになるだろう。

 これからしばらくは、下の息子を社会に送り出すことをサポートし、それが終わったら私たちの文字通りの「余生」が始まる。
 「子を養育することは親の義務であるが、それは履行することが楽しい義務である」と穂積重遠さんの『親族法』(岩波書店、1930年)に書いてあるが、本当にそう実感する。

 2011/12/25 記