豆豆先生の研究室

ぼくの気ままなnostalgic journeyです。

サマセット・モーム/行方昭夫訳注「赤毛」

2024年05月10日 | サマセット・モーム
 
 サマセット・モーム “Red” (「赤毛」)を読み終えた。
 行方昭夫「英文精読術 RED」(DHC、2015年)で、精読した。この本の正式な書名は、奥付によれば「東大名誉教授と名作モームの『赤毛』を読む 英文精読術」というらしい。表紙の中央部分「英文精読術」の下には「Red  William Somerset Maugham 」と大書してあるが、これは副題でもないらしい。
 モームの小説の「精読」というのは、ぼくには苦痛だった。モームの小説は、英語の勉強としてではなく、小説として読むのがふさわしい。英語で読む場合も、分からない単語や文意を読み取れない文章があっても、本筋を把握するのに影響しないかぎり飛ばして、モームの筆の流れに従って読むほうがいい。
 ぼくは、モームの書いたものの大部分は翻訳で読み、一部は retold 版か abridged 版で読んだ。行方先生が「英文快読術」(岩波現代文庫)か何かで、要約版でもよいから多読せよと奨めていたので。
 “Cosmopolitans”(Easy Readers、Revised edition となっている)、“Cakes and Ale”( Macmillan Modern Stories to Remember 、Retold edition とある)、“Of Human Bondage”(金星堂、Abridged edition とある)の3作は要約版で読んだ。“Cakes and Ale” の要約版は、所々端折っただけでほぼ原文のままだったので歯が立たなかった。「幸福な夫婦・凧」は英宝社の対訳本(中野好夫、小川和夫訳)で読んだらしい。

            

 英文解釈のテキストとして読むと、解説に煩わされて話の流れを切られてしまうのである。
 行方の解説によって「なるほど」と気づかされることも少なくなかったのだが、「ここには being が省略されてます」といった解説がなくても、モームの文意をとることができる場合も少なくない。
 役に立った解説は、何度か出てくる “ecstacy” という語の性的なニュアンスを説明してくれたことと、同じく何度か出てくる “fancy” のニュアンスを説明してくれたことである。“ecstacy” は「恍惚」という訳語しか知らず、 “fancy” に至っては動詞があることさえ知らなかった。ファンシーは「空想」と “fancy” してたのだった。 現地人に対するイギリス人であるモームの偏見なども行方の指摘によって気づかされた。
 この解説その他によって、恋愛の性的な側面が「赤毛」のテーマの一つであることに気づかされた。
 
 行方解説の影響もあってか(縦組み33頁、行方昭夫「モームの謎」岩波現代文庫75頁以下など)、ぼくは「Red」は同性愛の視点から書かれた小説と読んだ。ジッドの「狭き門」が若き日のジッド自身の同性愛を描いた小説だというのであれば(ゲラン「エロスの革命」)、「Red」にもその資格はあるように思う。
 南洋の孤島に流れ着いた若い白人青年 Red の身体や容貌を、ギリシャ神話の若者のように描写するモームの目線と筆致は、まさに男性が美しい男性を見つめる視線ではないか。そして最初のうちは美しい少女として描かれる南洋の少女と白人青年の恋愛だが、その後の展開からはモームの女性に対するシニカルな視線が感じられる。ストーリーの結末も、まさに男女間の恋愛の不毛さを皮肉に語っている。
 
 ※以下、モーム「赤毛」の結末=ネタバレがあります。要注意!

 若かりし頃、同じ南洋の美少女を愛した二人の男が、数十年の時を経て出会って、一方はそれと気づかずに過去を語るという設定は、ストーリー・テラーとしてのモームの面目躍如である。途中で、「いい加減にスウェーデン人も気がつけよ」、「Red も口を挟めよ」と言いたくなることもあることはあったが・・・。
 「Red」を読むのは今回で数回目だが、久しぶりだったので、最初のうちは結末を忘れていた。しかし、モームが冒頭に登場させる老船長の容姿をこれでもかとばかりに醜く描写するのを読んでいるうちに、結末をおぼろげに思い出した。さらに、行方先生が「初対面なのに以前に会ったような気がしたのはどうしてでしょうか?」などという注釈を入れるので(54頁)、完全に思い出してしまった。
 この注釈のために、結末の「落ち」を重視した(と中野好夫「雨・赤毛」新潮文庫の解説がいう)モーム短編を読む楽しみは減殺してしまった。結末の予想は、モーム自身が本文の中で仄めかした伏線(72、78、119頁など)にとどめるべきではなかったか。

 英文読解術のテキストとしては、モームなら小説ではなく、「作家の手帳」や「要約すると」のようなエッセイのほうがふさわしいのではないか。
 ぼくとしては、英語学者の知見で読解してみせてほしい本は、モームではなく、むしろ、ホッブズの「リヴァイアサン」(とくにその第1部や、ホッブズ「法の原理」の第1部など)である。政治思想史家による翻訳は出ていて、それなりに理解できるのだが(前者は角田安正訳、光文社古典新訳文庫、後者は高野清弘訳、ちくま学芸文庫)、英語学者が英語の力でどこまで読解できるのか、どのように訳出するのかを知りたいと思う。
 モーム自身が、ホッブズの「リヴァイアサン」を、「個性を持った、ぶっきらぼうな、率直なジョンブル気質」があらわれた魅力的な文章であり、「文章を研究するものは、なによりもまず研究すべきイギリス語を書いている」と激賞しているのだから(中村能三訳「要約すると」新潮文庫227~8頁)、ぜひともそのホッブズの「イギリス語」を解釈してほしいものである。

 2024年5月10日 記

 追記 今朝病院の待ち時間に、「英文精読術 Red」の解説を読んだ。
 行方氏によると、彼は大学1年で読んだときはレッドとサリーの恋物語として読んだが、その後、この小説の主人公は語り手のスウェーデン人ニールソンだと思うようになったという(縦組み23頁以下)。
 たしかにぼくも予備校時代に読んだときは、かつて誰かが恋をした場所には、その残り香(霊気)が漂っているものだという文章(この本では96頁)がもっとも印象に残ったが(豆豆研究室2006年2月22日「木の葉のそよぎ」)、今回はこの個所にはそれほどの感興を覚えなかった。
 そうかといって、老残がモームが描くほど醜いものとも思わない。老いた(といっても40歳代ではないか)サリーのことを、太って、肌は以前よりも褐色になり、髪も白くなったなどと表現するモームの筆は悪意に満ちている。“grey” を「真っ白」などと訳してあったが、せめて「グレー」のままでいいではないか。
 そしてサリーとニールソンとの結婚の現状を「慣習と便宜だけで結びついた同棲」と書くのだが(217頁)、たとえモーム本人の結婚生活がそのようなものだったとしても、作中の夫婦までそのように描かなくてもよいだろうに、と思った。あえてニールソンをそのような嫌みな男と読んでほしかったのだろうか。彼をスウェーデン人に設定したことには、何かモームの意図があったのだろうか。
 ※2024年5月11日 追記
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