豆豆先生の研究室

ぼくの気ままなnostalgic journeyです。

芥川龍之介「魔術」、太宰治「新樹の言葉」ほか

2024年03月07日 | 本と雑誌
 
 2月末、小学校4年の孫がインフルエンザに罹患し、40℃近い熱が出た。ほどなく37℃台に下がって本を読んでいるというので、寝ながらでも聞くことができるように、短編小説を音読してボイスレコーダーに吹き込んで持って行ってやった。
 定年から4年が経ち、授業で鍛えてきたはずの声にも衰えが目立ってきた自覚があるので、ぼく自身の喉、声のリハビリも兼ねた作業のつもりである。
 息子たちが小学生だった30年近く前に買い与えた本の中から適当なものを探した。

 芥川龍之介「杜子春・トロッコ・魔術」(講談社青い鳥文庫、1992年)は発行年からして、上の息子が中学受験の頃に読ませたものだろう。
 この本から、まず「魔術」を選んだ。ぼく自身が中学校1年の時に教科書で読んで、今でも記憶に残っている短編である。
 本文を(何の注釈も加えないで)そのまま読んでしまったが、分かりにくい言葉や人物などには注釈をつけてやればよかったと反省。森繁久弥やNHKアナウンサーによる「耳で聞く短編小説」風を気取りすぎてしまった。本文約20頁、音読で10分29秒だった。
 
 次は何にしようか。
 芥川なら「杜子春」や「鼻」がいいのだが、登場人物の中国人の名前は音読では分かりにくいのと、インフルで40℃の熱を出した子どもが聞くのには「鼻」は話の内容がつらいかもしれない。「トロッコ」も好きな作品だが、インフルの病床で夕暮れ時に聞いたのでは不安な気持ちがいや増すかもしれないからやめた。この本に収められた12作品をぱらぱらと眺めて、「たばこと悪魔」を選んだ。
 「たばこと悪魔」という小説をぼくは初めて読んだが、なかなか面白い。宣教師に成りすましてザビエルと一緒に日本に上陸した悪魔が日本の牛商人と賭けをした。牛商人が賭けに勝って、悪魔が所有するたばこ畑を手に入れるのだが、その結果、それまでは勤勉だった日本中の農民に煙草の習慣(悪習)が広まってしまうという内容である。
 芥川はヘビー・スモーカーだったようだが、そんな「煙草」観をもっていたとは知らなかった。「たばこ=悪」という図式を今の小学生が理解できたかどうか。本文21頁、音読で12分29秒かかった。

 毎日午前中に1話を音読して孫に届け、2日目のここまでで孫の熱は下がったのだが、ぼく自身の喉のリハビリのためにさらに続けることにした。
 今度は太宰治「走れメロス」(ポプラ社文庫、1992年)。これも発行年からして、上の息子の中学受験の時に買った本だろう。
 「走れメロス」は登場人物のギリシャ人の名前が読みにくかったのでスルー。「思い出」は悪くないが、音読するには長すぎる。「富嶽百景」もいい、ぼく自身が忘れられない井伏鱒二先生が放屁する場面などはとくに小学生に喜ばれそうだが、心象風景が中心で出来事が起伏にかける憾みがある。

 この本の最終ページに、上の息子の「1994年2月18日(金)小6」という書込みと、下の息子の「2001年7月27日(金)小5.「新樹の言葉」が印象に残った」という書き込みがあった。下の息子は兄貴の「お下がり」を読んだのだった。下の息子の言葉を信じて、「新樹の言葉」を読むことにした。
 作家として行き詰っていた太宰が、井伏鱒二の助言を受けて山梨県の甲府に居を移し、下宿を借りて作家修行をしていた時期(昭和14年)の作品である。
 ある時、郵便配達が太宰に話しかけてきて、下宿の近所に太宰の兄弟だという男がいると言う。不審に思いながら会ってみると、津軽で乳幼児期の太宰を育てた乳母つるの息子だと判明する。
 大丸デパートの店員をしているというこの男に誘われて、甲府の高級料亭で酒を飲むことになる。後から男の妹もやって来て同席する。実はこの立派な料亭の建物は、かつては乳兄妹である彼らの実家の呉服屋だったという。乳母が嫁いだ夫は丁稚奉公を経て、甲府で呉服屋を開業して羽振りがよかった時期もあったが、後に没落して家は人手に渡ってしまったのだった。
 その2日後の午前2時ころ、太宰が徹夜で小説を書いていると、町の方から火事を知らせる激しい半鐘の音が聞こえてくる。下宿を飛び出し城跡に登って見物していると、乳兄妹に出会う。燃えているのはあの料亭だった。「全焼ですね。知らずに死んだ父母も幸せでした」と彼がいう。
 家の一軒、二軒などどうにでもなる、自分の小説を期待して待っていると言ってくれたこの乳兄妹のためにも、ぼくはよい小説を書かねばならない、と太宰は心を新たにする。「新樹の言葉」とはこの乳兄妹の言葉のことか、この話の全体が、太宰の心に芽生えた「新樹」の「言葉」ということか。

 下の息子のコメント通り、いい話だった。
 音読も3作目になって少し慣れてきたので、会話の場面は笠智衆と佐田啓二の会話をまねて小津調でやってみたりした(つもりである)。
 「新樹の言葉」は、本文32頁、音読は21分05秒かかった。最後のほうは喉が嗄れて、ややしわがれ声になってしまった。現役時代には90分の授業の間じゅう、一人で喋りつづけて少しも疲れなかったのに情けない。
 しかも、レコーダーを再生してみると、「さ」行の発音が空気が抜けるようで聞き苦しいところがある。さ行が聞き取りにくいなどとは全く自覚していなかった。現役時代から「ふ」の発音が口笛を吹いているように聞こえることがあるのは自覚しており、授業評価で学生に指摘されたこともあった。しかし「さしすせそ」が不明瞭になるとは・・・。
 ぼくの祖父は佐賀出身で、最後まで九州弁が抜けなかったと亡母が言っていたが、ぼくが生まれる前に亡くなった祖父方の先祖の九州弁 DNA が今ごろになってぼくに発現するはずもない。やっぱり、喉と声帯と口元の筋肉と歯の衰えなのだろう。
 ぼくにとって、70歳の定年はいい潮時だったと思う。

 2024年3月7日 記

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