Opera! Opera! Opera!

音楽知識ゼロ、しかし、メトロポリタン・オペラを心から愛する人間の、
独断と偏見によるNYオペラ感想日記。

BORIS GODUNOV (Mon, Oct 11, 2010) 後編

2010-10-11 | メトロポリタン・オペラ
前編から続く>

この作品で合唱が重要なのは、単なる音楽上の理由からだけでなく、
私の隣の女性が仰っていたように、民衆がこの作品の劇的ポジションとしても、
ボリスと同じ位か、もしくはそれ以上といってもよい役割を与えられているからです。
現在メトのコーラス・マスターをつとめているドナルド・パルンボ氏は非常に優れたコーラス・マスターで、
それは、毎年頻繁に上演されているような演目よりも、むしろ、上演が稀で、
一から彼が合唱の指導に当たらなければならないような演目の方が、合唱の出来が良い点に現れています。
ありがたいことに、『ボリス』も例外ではなく、旧演出の公演から6年が経過していますし、
今年の公演は新演出で、かつHDの対象、
ゲルギエフが指揮(ただし彼は1997-8年シーズンにもメトでこの作品を指揮しています)、ということもあり、
相当力の入った準備を行ったようで、合唱は見事にその期待に答えています。
欲を言えば、少し音色が上品かもしれません。
先に触れ、後に詳しく紹介するCDのボリショイの合唱を聴くと、
そのサウンドから、民衆がもっとあーぱーに描かれていて、びっくりします。
それに比べると、メトの民衆は少し頭が良さそうな感じに聴こえるのですが、
あのボリショイのような表現は、自国の作品だから出来ることなのかな、とも思います。
今回、合唱のメンバーには歌だけでなく、演技にも非常に高いものを要求する演出で、
その点でも、合唱は素晴らしいパフォーマンスを見せています。



この作品はボリス以外にも、かなりの人数の登場人物がいて、しかも、先に書いたように、
彼ら一人一人がこの物語を重層的なものにしている、個性的で大事な人物ばかりです。
これらの準主役、脇役に占めるロシア人キャストの多さも、今回のボリスの特徴と言えるかもしれません。
聖愚者役を歌ったポポウは昨シーズンの『鼻』でも素っ頓狂な高音を出して大活躍していましたが、
今回もこの難しい役を大熱演・熱唱で、この人はこういったキャラクターの強い役で、
厚いゲルギエフの信頼を勝ち取っていると見ます。

ピーメン役を歌ったペトレンコは、与えられた美しい音楽にも助けられていますが、
これまで聴いたハーゲンフンディングスパラフチーレのどれよりも個性に合った、
上品でかつこの役に必要な質素さを称えた歌唱で、最も観客から大きな拍手を受けたキャストの一人です。
彼は先にあげたような諸役で聴くと、ちょっと物足りない感じがあるのですが、
この役での歌唱を聴くに、繊細な表現が得意な人なのかもしれないな、と思います。

ランゴーニ役を歌ったニキーチンは、昨年の『エレクトラ』での、朴訥ながら品のあるオレストが素晴らしかったので
注目している歌手なのですが、この聖職者にあるまじきいやらしさ満点のランゴーニ役での彼を見て、
”こんなの、私の好きなニキーチンじゃない、、。”と呆然としました。
それだけ、引き出しが多いということで、喜ぶべきことではあるのでしょうが、、。

この悲劇的な作品にコミカルな側面を与える役割があって、決して大きな役ではないのですが、
ヴァルラーム役を歌ったバスのオグノヴェンコの歌も活き活きしていて存在感があります。

シュイスキー役を歌ったバラーショフだけは、もうちょっと灰汁があったなら、、と思い、残念だったのですが、
それ以外の男性ロシア人キャストは歌うパートがそう多くはない貴族たちにいたるまで、非常に充実していたと思います。



今回の公演は、プロローグ、一幕、ニ幕が一回目のインターミッションの前に一気に上演される、
つまり、まる2時間、1回も休憩がないので、ここが観客にとって、一番辛いところかもしれません。
その長丁場の後に、ポーランドの幕を鑑賞すると、この幕は美しい音楽はあるのですが、
ボリスは一度も登場しませんし、劇的な盛り上がりには、他の幕に比べると若干欠けるところがあるので、
一瞬、”この幕、要らないんじゃないの?”という考えが頭をかすめますが、それはノン!!
この幕で、マリーナにさんざん恋心を足蹴にされた時、
最初は愛する女性の言葉だからと我慢して聞いていたグリゴリーが、もう堪忍袋が切れた!とばかりに、
”ふざけるな、この野郎!私はロシアの皇子のディミトリーだぞ!
俺がツァーリの座に就いた時、お前は後悔の念をもって、俺の前にかしづくことになるだろう!”と歌う時、
それまでは、ディミトリーの振りをしてやろうと企んでいるグリゴリーに過ぎなかった彼が、
本人ですら、本当にディミトリーの化身であることを信じるようになったことを感じさせる、大きな物語の転換点です。
ここを境に、彼は本気でツァーリへの道に乗り出す、
つまり、何を犠牲にしてもツァーリという地位を手に入れようとする、いわば、第二のボリスになるのであり、
そこに彼を導いたマリーナはやはりすごい女なのです。



このやり手のポーランド女マリーナを歌うエカテリーナ・セメンチャクは、
MetTalksのゲルギエフの話しぶりからも、マリインスキーが自信を持って送り込んできたメゾであることが伺えましたが、
確かに、今回の公演に第三幕を挿入するアイディアが何とか成功しているのは、
この大きな転換点という物語上の理由もさることながら、彼女の歌唱力に負うところも大きいです。
これが、彼女ほどには歌唱力のない歌手によって歌われていたら、
もっと、”ポーランドの幕はなくていいな。”という感想が多くてもおかしくなかったかもしれません。
2007年のキーロフ・オケの演奏会形式の『雪娘』でも、存在感のある歌唱を聴かせていました。

一方、偽ディミトリー皇子ことグリゴリーを歌うのは、アレクサンドルス・アントネンコで、
この人は、今もって、どう判断すればいいのか私には良くわからないテノールです。
一つには、彼の歌唱は非常に不安定で、聴く度に、基本的な発声の仕方が異なっているような印象を与えるのが理由です。
一昨年の『ルサルカ』では、強引な発声が耳に快くないな、と思っていて、
私は彼の歌唱は全く高く買っておらず、同じ年の125周年記念ガラの『トスカ』からのアリアでも、全く同じ印象だったのですが、
なぜだか、昨シーズンの『三部作』の『外套』タッカー・ガラでは、歌唱が良くなっていて、このまま上昇していくのかと思ったら、
なんと今回の『ボリス』では、またまた一昨年みたいな感じに逆戻りしているのです。
もしや、隔年で歌唱の良い年と悪い年がローテートするのか、、?
それは困ります。なぜなら、来る4月のムーティ率いるシカゴ響の演奏会形式の『オテロ』で、タイトルロールを歌うのは彼ですから!!
歌唱に独特の熱さというかパッションがあるのは認めますが、もうちょっと歌に安定感が欲しいと思います。



ボリスの死後にあたる第四幕三場のクロームイでの革命のシーンは、
ものすごくヴァイオレントで、急場にかかわらず、よくここまで合唱やエキストラ(我が店子友達大活躍!)に
きめ細かな演技付けを出来たものだと、素直にワズワースの力を称えます。
実際、この場面があまりにパワフルなので、お隣の女性の、この演出家はボリスと民衆のどちらを選ぶのだろう?という問いに、
”民衆”と即答したくなるほどです。

しかし、ちょっと待てよ?と思うのです。
本当はワズワースは、ボリスの物語と民衆の物語を拮抗させたくて、
パペの力を予測し、それに合わせて民衆側の物語をここまで強烈にしたのではないか?と。
とここで、ようやく、タイトルロールを歌っているパペについて言及することになるのですが、
私は彼が非常に高いレベルで、丁寧にこの役を歌っていることを認めるにはやぶさかでなく、
おそらく現在活躍しているバスで、ここまで上手くこの役を歌える人もいないとは思います。
だけれども、彼の持っている素質、能力から期待していたものよりは、役作りがあまりにコンパクトで、
この大役が歌手に求める強烈な存在感とか観客側が根こそぎ座席から吹き飛ばされそうな迫力というのを感じませんでした。
確かにこの演出では、ボリスを、子供思いの、”もう一人の父親”として強調している部分は無きにしもあらず、ですが、
その一方で、彼が邪魔者を殺害してまでもその地位にたどり着いた、ロシアの皇帝である、という事実は、
既成の事実として、必ずこの役に盛り込まなければならない一面として存在しているはずです。
今回のパペの役作り、歌唱からは、そこが少し抜け落ちている感じがします。
つまり、良いパパ過ぎて、権力者としての顔が良く見えないのです。
また、2006年辺りまでは、彼の声はいつもすごく実がつまった、密度の高い声として私は記憶しているのですが、
ここ最近、メトでは彼には小さ過ぎるように思える役での登場(『マクベス』)や降板(『ホフマン物語』)が続いたせいもあって、
久々にこのような大きな役で彼の歌声を聴いたような気がするのですが、
その私の記憶の中の声より、少し声の密度が軽く聴こえる音が多くなったような印象を受けます。
私の単なる記憶違いかと思ったのですが、そうではないことは、時々出てくる、
”おお!これが私の記憶にあるパペです!”と思うような、どしーっ!とした密度の高い重低音によって確認されます。
公演中、トイレで前に並んでいた女性が、”私がこの前に見たボリスといえば、レイミーが歌った公演だったけれど、
ボリスの死の場面では、長い階段の上から、レイミーが転がり落ちて来たのよ。もうすごい迫力だったんだから!”

なにも私はパペに階段落ちをすすめているわけではないですが(だし、この演出では、死の場面に階段はありませんので。)
このボリスのような大役を歌い演じるには、巧みな歌だけでない、何か観客の心をわしづかみにするような、
強烈なスピリットが必要だと思うのです。
それがあったなら、もっと民衆のヴァイオレンス・シーンとボリスの死のインパクトが拮抗して面白くなったと思うのですが、
鑑賞後に、どう見ても民衆の物語の方に完全にウェイトが傾いてしまったように感じるところに、
今回のパペの歌はこの役には少しクリーン過ぎて、
ワズワースとしても少し誤算だった部分もあったのではないかな?と思ったりします。



MetTalksで、ゲルギエフがボリスのリハーサル中であるメト・オケへの感想を聞かれた時に、
良いとも悪いとも即答しなかったので、少し嫌な予感がしていたのですが、
若干アンダー・リハース気味だったようで、それは特に今回の初日では、プロローグから一幕にかけて顕著でした。
軽く崩壊気味になっている部分もあって、これで最後まで持つのかな?と心配だったのですが、
ニ幕あたりから、よくまとまり始め、三幕、四幕は、ゲルギエフの指揮で時々見られる不思議なマジックが働き、
非常に魅力的な演奏をオケが繰り広げていました。
サウンドは全くロシア的ではありませんが、そんなものが一朝一夕のリハーサルで生まれてたまるか、という話で、
それを求めるのが間違いというものです。
ただし、この作品は、オケが非常に大事な役割を果たしていて、オケの演奏が良くないと、
公演全体の印象に大きく波及する、という事実を、
約10日ほど後のHD収録日(10/23)の公演でいやほど思い知ることになりますが、
それはまたその公演の記事で詳しく書きます。

そうそう、ボリスの子供、クセーニャとフョードルのコンビには、ロシア人でなくアメリカ人の歌手がキャスティングされていて、
特にフョードルはメゾが歌うことが多いようですが、これまで『魔笛』の童子や『トスカ』の羊飼いの役などで、
下手な大人の歌手より余程多い回数メトの舞台に立っているジョナサン・メイクピース君
(HDの『トスカ』でも彼が羊飼いの役を務めていました。)が配されていて、
クセーニャ役のゼトランもまだジュリアードの学生さんだそうですので、
出来るだけ実年齢に近くなるよう、子供らしさを強調したキャスティングです。
ゼトランの方は、この初日の公演は相当緊張してしまったのか、音程が狂いっぱなしでかなり苦労していましたが、
(HDの日は、本来の力を出せていました。)
メイクピース君の声は、まさに鈴を鳴らした、という形容がぴったりで、
この重たい作品の中に、一瞬、風が通っていくようなすがすがしさを感じさせます。
それにしてもこんな大舞台でいつもどおりの歌を歌えるなんて、実に肝が据わった男の子です。

ブーイングも覚悟していたのか、最初はおそるおそる固い表情で舞台挨拶に現れたワズワースは、
一つもブーイングなく、熱い拍手でもって彼の演出を支持する意志を表した観客に、本当にほっとし、かつ嬉しそうな表情でした。
よく、あれだけの短期間で、他人から引き継いだ演出をここまでまとめあげたものだと思います。

最後になりましたが、前編でふれたCDは、ゴロワーノフが指揮するボリショイ劇場のオケとコーラスによる演奏を1949年に録音したもので、
ピロゴフがタイトルロールを歌っています。
今のCD録音に見られるそつない歌唱とは違い、ソリストの歌唱には時に大きなキズもあるのですが、
オケと合唱も含めた表現力はものすごいものがあり、この作品をより良く知るためのマストアイテムと言えます。
このCDを聴くと、タイトルロールを歌う歌手の存在感、オケの迫力、そして合唱のパワー、
これらが均等に揃ってこそ、この作品の真価が出る、ということがよくわかります。
(ただし、先にも書いた通り、リムスキー・コルサコフ版による演奏ですので、
今回のメトが採用している版と同じではありません。)


René Pape (Boris Godunov)
Aleksandrs Antonenko (Grigory)
Ekaterina Semenchuk (Marina)
Andrey Popov (Holy Fool)
Mikhail Petrenko (Pimen)
Evgeny Nikitin (Rangoni)
Oleg Balashov (Prince Shuisky)
Vladimir Ognovenko (Varlaam)
Nikolai Gassiev (Missail)
Olga Savova (Hostess of the Inn)
Jonathan A. Makepeace (Feodor, son of Boris)
Jennifer Zetlan (Xenia, daughter of Boris)
Larisa Shevchenko (Nurse)
Alexey Markov (Shchelkalov, a boyar)
Dennis Petersen (Khrushchov, a boyar)
Valerian Ruminski (Nikitich, a police officer)
Mikhail Svetlov (Mitiukha, a peasant)
Gennady Bezzubenkov (Police officer)
Brian Frutiger (Boyar in attendance)
Mark Schowalter (Chernikovsky, a Jesuit)
Andrew Oakden (Lavitsky, a Jesuit)

Conductor: Valery Gergiev
Production: Stephen Wadsworth
Set design: Ferdinand Wögerbauer
Costume design: Moidele Bickel
Lighting design: Duane Schuler
Choreography: Apostolia Tsolaki

Gr Tier D Odd
OFF

*** ムソルグスキー ボリス・ゴドゥノフ Mussorgsky Boris Godunov ***

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36 コメント

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お待ちしてました! (galahad)
2010-11-01 21:53:08
お忙しいなか、レポートをあげてくださってありがとうございます。 ムソルグスキーオリジナル版を好きなことでは人後におちないと思っていますので、Madokakipさんの今回の感想がうれしくてたまりません。 パーペのボリスが権力者やのしあがったものの強さが感じられないというのは、ドレスデンの公演でもそうでしたから、彼のボリス像なんだと思います。 私はそこに感動してましたから、スタイルが変わっていないというのは<私にとっては>喜ばしいことです。 ただドレスデンのプロダクションはかなりこじんまりしていましたし、歳を経るにつれなぜかライトになってきた声質とあいまって、METの大掛かりな舞台とゲルギエフの演奏とはちょっと合わなかったかもしれないですね。
しかし、子供たちにほんものの子供を使うのは反則です。 よけいかわいそうじゃないですか!
私もお待ちしてました (kametaro07)
2010-11-02 00:57:45
>2006年辺りまでは、彼の声はいつもすごく実がつまった、密度の高い声として私は記憶しているのですが、
私はずっと同様の疑問を持ってました。
それ程以前から聴いていたわけではないので、単に役の違いやその時の調子によるものと思ったりもしたのですが・・・。
私にとっては最初に聴いた2007年の「パルジファル」のグルネマンツが今だにパーペのベスト1。
2009年2月から4月まで不調(病気のため)で長期休業しましたが、その後に何回か他の演目で聴いても、仰るようにいまひとつ密度が濃くないというところなんです。
以前は鉄の男と言われるほどハードスケジュールもこなしていたようですが、キャンセルも多くなってきてるし・・。
あの長期休業以来、ちょっと変わったように思えるのは気のせいでしょうか?
galahadさんの仰るように・・・歳を経るにつれなぜかライトになってきた・・・のかもしれませんが・・・。
galahadさん、kametaroさん (Madokakip)
2010-11-02 13:12:34
パーぺのファンの方がたくさんいらっしゃるので、こんなこと書いて叱られるのではないかしら?と心配でしたが、
galahadさんやkametaroさんも同じように感じていらっしゃったと伺って、
今は、これまで私自身が不思議に思っていたことを書いてよかった、、と思っています。

>歳を経るにつれなぜかライトになってきた声質

普通は逆に重くなりますものね。
私が初めて、彼の声の密度の変化を、あれ?とはっきり意識したのは、
2008年(2007-8年シーズンの終わりの方です。)の『マクベス』なんですが、
バンクォーは、彼が歌うには役が小さいので、彼がちょっとやる気を失ったのかな?位に思ってました。
その後に、メト・オケとのコンサートで聴いた時も、やはり似た印象があったんですが、
kametaroさんと同様、

>単に役の違いやその時の調子によるもの

なのかな、と思っていました。(同じ2008年でも新シーズンに入ってから聴いたマルケ王は良かったです。)
でも、今回はボリスという大役で、バスが歌うにこれ以上の作品はない、といってもいい位で、
彼にやる気がないとはとても考えられませんし(見た感じも一生懸命歌ってました。)
風邪をひいているとか、明らかなコンディションの悪さも感じませんでした。
むしろ、歌唱としては、この初日は良い方に入っていたくらいなんですが、
それでも、以前の声とは受ける印象がだいぶ変わった感じがします。

>2009年2月から4月まで不調(病気のため)で長期休業しましたが、その後に何回か他の演目で聴いても、仰るようにいまひとつ密度が濃くないというところなんです
>以前は鉄の男と言われるほどハードスケジュールもこなしていたようですが

そうなんですね。
彼はずっと超売れっ子でひっぱりだこで来てますから、疲れとか、
後、自分のスケジュールやスタンスを振り返ったりしている部分もあるのかもしれませんね。
彼の名前を初めて知ったのは1997年のメトの日本公演の時で
残念ながら私は聴きに行けなかったのですが、メト・オケのヴェルレクの演奏会を聴いた私のお友達が、
バスのパートを歌ったパペという歌手がすごい!と大興奮していたのが非常に印象に残っています。
その時点からでも、もう13年、、、
今のスピードの速いオペラの世界は(移動も短時間で出来るし、限られた数の歌手が世界のあちこちでひっぱりだこになって、数多い公演をこなさなければならない状況)、
どんなに強靭な喉を持っている歌手でもきついんではないかな、と思います。

お二人ともきっとHD、ご覧になられますよね。ブログでご感想をあげられるのが楽しみです!
バス・バリトン (keyaki)
2010-11-02 14:37:16
テノールはだんだん重たくなるなるようですが、バスはどうなんでしょう。
ライモンディは、もともと重厚なバスではないのですが、年齢とともに更にだんだんバリトンに近づいてきて、毎度、本物のバスではない...とか批判されてます。まあ、「本物のバス」と言われる歌手で、主役を張る歌手は少ないような気がします。フィリッポにしてもファウストのメフィストにしても真正バスには難しい高音があるんですよね。

パペが、今頃になってスカラ座開幕公演のワルキューレを自分の都合でキャンセルしましたが、オペラで苦労したくないというか、もうオペラに必死になれない、熱くなれないのかな....と思いました。
イタリアのオペラフォーラムでは、誰も騒いでないのですが、失敗を恐れて臆病になるという意味の言葉で、「なんて意気地無しなんだ!」なんて言われてました....(笑
中年のつぶやき (名古屋のおやじ)
2010-11-02 19:01:10
こちらでパーぺの声の変化等が話題になっていますが、ちょっと気になることがあります。

それは彼の年齢。たまにgalahadさんのブログにもおじゃまするのですが、そこで彼が40台半ばであることを改めて知りました。「おやじ」と名乗っておりますので、私もそれなりの年齢なのですが、自分も40台半ばで少々体調を崩しただけでなく、ひどい無気力に襲われたことがあります。男性も過剰なストレスがかかると、この年代の女性と同じような症状が出ることがあると医者に言われました。

またクリスタ・ルートヴィヒの自伝(?)を読んだことがあるのですが、この人生の変わり目でやはり、声が思うようにならず苦労したことが語られていた記憶があります。カラヤンがザルツブルクで「ドン・カルロ」をやっていた頃の話です。彼女はエボーリ役だったのですが、結構早く降板したのはこのような背景があったらしいのです。

パーぺがいかなる状況にあるのか分かりません。ただ年齢的に微妙な時期にあることは確かのことだと思います。
新巻鮭を抱えるボリス?! (ヴァランシエンヌ)
2010-11-03 10:51:07
Madokakipさん、お久しぶりです。
冒頭のパーペの写真…何度見ても「新巻鮭を抱えるボリス」に見えるのは、私だけでしょうか(^^;
(久しぶりのコメントで、こんなふざけたことを申し上げてすみませんm(_ _)m)

「ボリス」は非常に好きな作品ですし、パーペのボリスは初役時の5年前に、ベルリンで聴いてますから、今回のライブビューイング、私もとても楽しみにしてます。

ベルリンでは初役+演出が(今思い出しても)むかっ腹の立つ(笑)珍妙な演出だった&バレンボイムの指揮もこなれていない(ように私には感じました)とか、諸々の事情が重なったのも要因でしょうけど、相当力んでいたような気がしました。
彼自身、まだ役をつかみ切れてなかったのかもしれません。

あまりボリスについては語ってないんですが(笑)参考までにその時のレポ↓
http://valencienne.tea-nifty.com/brot/2006/01/post_5e08.html

その後、アリア集で「ボリスの死」の部分を聴いた時に、随分力が抜けて、良い感じになってきたな…とか、彼にとって2度目のボリス@ドレスデンでの公演の、galahadさんを始め、私の周囲の彼のファンの方が数名足を運ばれた時の感想を伺うと、彼のボリス像がようやく形に表れてきたのかな…という気がしたので、今回のメトでの役作りも興味深いところです。

私はリムスキー=コルサコフ版でなじんだ為、初稿版はどうも地味なイメージが否めないのですが、もっと色々聴いてみたいですし、自称「ロシア物普及委員」としてはライブビューイングという企画にこの作品が載っかることで(できれば女性に(笑))この作品の魅力がたくさん伝わるといいな…と思っています。

Madokakipさんが紹介して下さったCDは、古い映画版(短縮されてますが)の元になった音源かと思います。映像も短縮されているものの、一大絵巻物のような趣で、非常に丁寧に作ってありますので、機会があればご覧になってみて下さい。
(現在廃盤になっているようですが、YTで検索すれば、出てくるかもしれません)
何度もすみません (ヴァランシエンヌ)
2010-11-03 20:10:29
ライブビューイングが始まると、もしかしたら検索で引っかかってくる方もいるかも…と思って、先ほどリンクした記事に少し加筆して、再掲しました。興味のある方は新しいURL↓こちらをお勧めします。
http://valencienne.tea-nifty.com/brot/2010/11/051227-8199.html
keyakiさん、名古屋のおやじさん、ヴァランシエンヌさん (Madokakip)
2010-11-04 11:11:02
>テノールはだんだん重たくなるなるようですが、バスはどうなんでしょう

どうなんでしょうね。
私は一般にはどの声域も基本的には重くなっていくと思っていましたが、
医学関係のサイトで、男性が歳をとって、テストステロン(男性ホルモンの一種)の生成が少なくなると、
声帯が痩せて、声が軽めになることがある、
逆に女性の場合は、更年期を過ぎると、一般的には重たくなる、という記述を見かけました。
ただ、テストステロンが作られるのは30歳くらいがピークなんだそうですが、
その減少の仕方にはものすごく個人差があって、お年寄りでも若者並みのテストステロン値をもっている人もいるそうです。
ライモンディがいつ頃からバリトンに近づいていったか私は存じ上げないのですが、
彼の今の年齢はだいぶ上でいらっしゃるのでそれが比較的最近のこととすればある程度上の説も妥当性があるのかもしれませんが、
パーぺはまだ比較的若いのに急激に男性ホルモンをお失いになっているということ、、?
それは大変だ!!
(でも、名古屋のおやじさんのコメントを読ませて頂くに、特別に早いというわけではないのかもしれないですね。)

もちろん、声の変化の原因はそれだけではないですよね。
おっしゃるようにテノールは声が重たくなっていくのが一般的ですが、
その点については、上に書いてあることでは説明しきれないです。
それこそ、テノールだけはなぜか一生大量にテストステロンが作られる、なんてことがない限り。
いずれにせよ、歌手の歌声というのは、非常にセンシティブでこみいった要素の上に作られているものだというのを実感します。

>パペが、今頃になってスカラ座開幕公演のワルキューレを自分の都合でキャンセルしましたが

kametaroさんのブログでも読ませて頂いて、なんと!と思っておりました。
ただ、ホフマンの時とは状況が少し違って、気持ちはわからないでもないです。
彼の『ラインの黄金』でのヴォータンは生はもちろん、HDですらも未見で、
kametaroさんのブログで教えていただいたところでは、歌は良かったようですので、
全く同じに考えることは出来ないかもしれませんが、この件を教えて頂いた時、
つい、ブリンは大丈夫かしら、、と思いました。
実際、私はブリンがメトのワルキューレを降りても驚かないかもしれないです。
リングはやはり大きな演目ですし、観る側と同様に歌う側にも大きな思い入れがあって、
(パーぺのように、ボリスにエネルギーをとられて、次のワルキューレに切り替えが短時間で出来ない、というのも含めて)
自分の中で何かが違う、、とか、納得できない部分があったら、
降りる方を取る歌手もいるかもしれないな、と。
ちょうどブリンがラインを歌っている頃にはパーぺがNY入りしていたと思うんですが、
あの公演、観たのかな、と、ちょっと気になるところです。
(そして、降板の決定のタイミングは偶然なのかということも、、。)

そしてヴァランシエンヌさん!
記事のご紹介、ありがとうございます!!
創生期のパーぺのボリスの様子など、大変詳しい内容で、わくわくしながら読ませて頂きました。
この時のピーメンがヴィノグラドフだったのですね。あのシーンは音楽が本当に美しく、私も大好きです!
きっと応援しがいがあっていらっしゃったでしょう。
あと、びっくりは聖愚者にブレスリクという配役!
彼の聖愚者、まったく、本当に、まーったく、どんなだか想像がつきません!!!!

メトの今回の演出はロシアの地図が若干新巻鮭してますが(笑)、
オーソドックスと言ってもよく、腹が立つという事態には決してならないであろうことは保証いたします。
galahadさんの素晴らしいガイドを読ませて頂くと、初稿→原典という表現が一般的なようですね。
先にあげたMetTalksの記事で、私が使用した資料の関係から、
オリジナル(原典)→改訂版という風に表記しましたので、
まぎらわしかったかもしれません。すみません。
今回のメトの公演は、ヴァランシエンヌさん、galahadさんがおっしゃる原典版により近いです。
(いずれもリムスキー・コルサコフではなくムソルグスキーの手による点では共通していますが、、。)
私もこの作品、本当に素晴らしいと思いますゆえ、
ロシア物普及委員のヴァランシエンヌさんとともに、ぜひ、普及活動に燃えたいと思います。

>古い映画版

はい、映画の方も持っております!
しかし、買ってみたのはいいけれど、CDを聴くのに忙しくて、
まだゆっくり見れていないので、ボリス後夜祭として、楽しませていただくことにします。
(もともとこの映画はフィルムが全部そろっているわけではなく、抜粋になってしまっているようですが、
違う部分が見つかったものをつなげた盤~それでもやはり完全版ではないそうですが~が、こちらでは廃盤にならずに販売中です。)
声の変化と、彼のウィークポイント (starboard)
2010-11-04 19:10:01
前半を読んだ時点で、映画館で聴く前に後半を読むのは止めておこうと思ったのに、みなさんのコメントが盛り上がっているのでついクリックしてしまいました(笑)。

一般に年を経ると重くなると言われる声の変化、これにはいくつかの段階があって、一直線に考えない方がよいと思います。まず生物学的な絶頂期(男性だと30代くらいまでか?)にある艶みたいなもの、これはやっぱり無くなってしまい、徐々に音が痩せるとでも言うべき方向の変化があるかと思います。これはパーペは結構指摘されていて(彼は喫煙者なので特に言われやすいというのもあるかと思うんですが)、本人も「声は保存しておけない」とコメントしていたと思います。ま、この手の若さ由来の魅力は、散るからこそ美しいのであって、そのままだったらバケモノです(笑)。一方、加齢と言われる変化で文字通り重く広がり、はっきりしない(それがまた味になることもある)方向の変化もあるかと。こちらは年齢的にこれからかなーと思います。あとオペラ歌手の場合は本人のトレーニングやテクニックの進化の要素も加わりますから、さらに複雑になりますね。

さてもうひとつ、パーペの役作りがクリーン過ぎるというMadokakipさんの評価ですが、今回のボリスについては自分で鑑賞するまで判断保留しますが、パーペのロール全般の傾向として私はこれあると思います。いい人過ぎて、格好良すぎるんですよね、表現が。その分他の登場人物に汚れ役を(結果的に)押し付けているようなところもあり。これまではそれで成功し、支持もされてきたわけですが、ここらで一皮剥けてその先に行くところを見たいなーと思うところもあり。とはいえ、出発点が違う彼に従来この役をやってきた人のようになって欲しいわけではありません。もっと意外なものを見せてくれることを期待してます。ヴォータンでは彼が自分で汚れ役を引き受けられるかどうかに、私としては注目しておりました。

ドレスデンのボリスは演出の側がめいっぱい彼に寄っていたというか、最近のロシア史研究の成果を取り込んで、善人だが歴史のタイミングの犠牲者となったボリス像を描いていましたから、歌唱と合っていて効果的でした。実はわたし、最初に出たスチールや衣装画を見て、メトもその路線なのかと思ってたんですよ。でも一度目は歴史認識とオペラ演出の変化のコラボという観点から大いに関心しましたが、2度目はそれだけじゃねとも思ってました。だからこの結果はちょっと意外でした。どちらにしろ、自分で観るまでは判断保留です。

最近のキャンセル騒動。私はもともと入り口がオペラではなかったし、オペラファンになった今でも声より演劇性重視なので望むものがみなさんとは違うのかもしれませんが、あんまそんなオペラ馬鹿でなくていいよーと思ってたりします。オペラファンとしてはオペラだけに専心してくれることを望むのは仕方無いのかもしれませんが、人は好き勝手言うし、それを真に受けて歌手生命を縮めても無責任な野次馬は覚えてもいないでしょうし。楽しみにして準備してた人はお気の毒ですが、私も目の前でキャンセルされて耐性が付きました(←パーペのことじゃないよ)。
starboardさん (Madokakip)
2010-11-07 17:23:33
>生物学的な絶頂期(男性だと30代くらいまでか?)にある艶みたいなもの、これはやっぱり無くなってしまい

そうですね。これは私も思います。
こちらに来てから、マスタークラスやヤング・アーティスト・プログラム、ナショナル・カウンシルなどの参加者の歌を聴く機会が出来て感じているのは、
(端役にそういったプログラムから若くしてのせてもらっている場合を除き)
特にテノールやソプラノの場合、基本的には、歌手がメト(やそれと同クラスの歌劇場)に
主役や準主役でたどり着く頃には、ほとんどの歌手が、そういう意味でのプライムは越えている、ということです。
低声の場合は、そういうピークやマチュリティが、テノールやソプラノに比べるとやや遅く来る傾向にあるとは思いますが、
最近の彼の歌声の変化がそれと関係があるかどうかは私にはわかりません。
その若さゆえの艶がある声とそれが無くなった後の声というのは、もちろん違って聴こえるのですが、
私がパーぺの歌声から感じる変化はちょっとそれとも違うような気がするんです。
まさに、密度の変化、としか形容のしようがないのですが、
極端に言うと、ぎっしり中身のつまった重いケーキと、ふわふわした感じのショート・ケーキの違いに似ているかもしれないです。

役作りに関するstarboardさんの分析は、すごく興味深いですね。
確かにそれはありますね。実際、私が彼を聴いていいな、と思った役は、マルケ王とフィリッポですが、
この二人はもう作品の中の設定からしても、格好良く歌って何の問題もない、
むしろ、格好良い方が観客の共感を呼ぶ、またそうあらねばならない人物ですから、、。

今回のボリスでは、ワズワースも運命に翻弄された、本来は善良な人間としてタイトル・ロールを描こうとした、とも語っていたので、
すべてをパーぺの判断によるものとも決めかねますが、
私個人としては、ボリスという人間には、人を殺害してまでも政治の頂点に上り詰めたい、という、
ある意味は汚いところもある人間だ、というのは絶対に外せない部分だと思うんですよね。
その彼が善の自分と葛藤するからこそ、この作品は面白いのであって、
すべて善でディミトリを殺害したことは、いつのまにか霞みの向こう、というのは、ちょっと都合が良すぎる感じがしますし、
この作品からリアリティを奪い取ります。
そこは今回のメトの演出で若干不満に思う部分かもしれないですね。
感想にはそれを書いてないですね。思い出せてくださってありがとうございます。

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