空耳 soramimi

あの日どんな日 日記風時間旅行で misako

「越境」 コーマック・マッカーシー 黒原敏行訳 早川書房

2017-05-19 | 読書



図書館にこの単行本があった。狼の表紙を探したが文庫になっていてこの書影とは違ってしまっていた。やっと見つけて、何度も見直しながら感想を書くことにした。

まずは少年と狼の物語に胸がつぶれそうなくらい感動した。

国境三部作の二冊目にあたる。
主人公ビリー・パーハムは16歳でニューメキシコのアニマス山の麓に両親と弟とともに住んでいた。羚羊を襲う狼をつかまえる罠を仕掛けているが何度も逃げられていた。ついに前足を罠に挟まれた牝狼をつかまえる。ビリーは子を孕んだ狼に対峙したとき不意に故郷に帰してやろうと思う。親にも告げず前の右足をなくした狼の首に縄を撒いてメキシコ国境を越えて何日も辛い旅を続ける。これが一度目の越境。
国境で狼は警官に連れていかれ、祭りの見世物になり、次は闘技場で犬と闘わされていた。ビリーは二匹の犬を相手に二時間もの戦いに力なく横たわる狼をついに見つけ出して、撃った。毛皮商人にライフルと引き換えに狼を譲り受け、狼の故郷と思われる山の麓まで馬の鞍に乗せて運んでいく。
地面に座って血にまみれた狼の額に手を当てて自分も目を閉じ、狼の瞼を閉じてやる。
そこにはあらゆる生き物の匂いが空気の中に豊饒に満ちて狼を喜ばせ狼は多と切り離されずに彼らの一員として存在していた。ビリーは落ち葉の上から狼のこわばった頭を持ち上げたが、彼が持ち上げようとしたのはむしろ手に取ることができないもの、今はすでに山の中を駆け回っているもの、肉食の花のように恐ろしいと同時に非常に美しいものだった。
それは手に取ることが絶対にできないものであり花ではなく敏捷に走り回る女神であり風すらが恐れるものであり世界が失うことのありえぬものであった。

ここでビリーは言葉ではなく世界と自然の中にいる自分を感じる、コーマックはここで彼の世界を、狼の死と自然と、これからのビリーの歩む未来を描き出す。

彼は又国境を越えて故郷への道をたどるが、疲れ果て襤褸にまみれた姿を見て、老人が話しかける。
たとえ孤児であっても放浪はやめてどこかの世界に落ち着かなければいけない。世界と人間は一つだ。
ビリーは自分は孤児ではないと言い、馬を進めた。故郷に戻ると、両親は殺され馬は全部盗まれていた。生き残った弟を連れて馬を探す旅に出る。

荒れ地を抜け廃墟を通り過ぎ、少女を助けてまたメキシコに入る。そこで盗賊に襲われ弟が撃たれついにはぐれてしまう。重症の弟を見つけ出し手当を受けて一命をとりとめるが、弟は少女とともに彼の元から去る。二年後探していた弟は死んでいた。今度はその亡骸を故郷に埋めようと国境を超える。

困難な旅の途中の飢えと寒さ、疲労した体を引きずって帰郷し弟を生まれた地に埋葬する。

変わらない詩的で乾いた描写が冴えている。ビリーの過酷な運命と、すれ違う放浪の民や貧しい人々がより貧しく哀れに見えるビリーを休ませ食べさせて衣服を与える。そこには自然と同化した人たちがビリーを共同の命として受け入れる行為が、自他ともに生きることの意味が、書きあらわされている。

なかなか読み勧められなかったのは、ビリーが通り過ぎていく荒れ地に住む人たちや、すれ違う人が語り掛ける物語が彼の運命についての予言や寓話になっている。その物語は象徴的で、彼らが生きて来た人生の、見舞われた不幸の源についての発見であったり、長い幻想的な空間にそれも幻のように現れる寓話であったりする。言葉少なくただ旅を続けるビリーの心に広がる世界を、これらの荒れ地に一人で住む老人や、かつて兵士であった盲目の老人や、ジプシーが引く骨格だけになった飛行機の逸話がそれぞれに厚みを持たせて、それが作者が乗り移ったかのように読ませる。その世界観や人間の持つ命の不思議や、人種の混交の中に見える定住しない人たちの、命の継承に過ぎないという、運命を受容している形や、少年が辿る過酷な環境、時に荒々しい自然、それが本人の気づかない尊い輝きを見せている。すべては大いなる運命が見せる一時の幻かもしれず、作り出すものは物語の一つかもしれないけれど、言葉の紡ぎだす風景や大いなる世界の中を漂う感じは、読むのに時間がかかったけれど今でも何とも言えない大きな感動を受けた。

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「すべての美しい馬」 コーマック・マッカーシー 黒原敏行訳 早川書房

2017-05-11 | 読書


全米図書賞、全米書評家協会賞受賞作。

コーマック・マッカーシーの世界はグロテスクで残酷だ。が、国境三部作といわれる。第一作のこれは、ストーリー性が豊かでエンタメ小説の趣もあり読みやすかった。

故郷のテキサスからメキシコに不法入国するいきさつや、つねに寄り添っている馬、行動を共にする友人も、少年というより未成年、未成熟な年頃の、精いっぱい運命に向かう姿が痛々しくもありどことなく危うい。
16歳の少年の(アメリカだからもう充分大人だけれど)青春、成長譚だ。
コーマックのドライで区切りの少ない独特の筆は、ユニークではあるが読みなれると違和感がなくなり不思議なリズムに乗ることができる。

コーマック・マッカーシーを読むのは、その風景描写が美しい、だがただそんな風景を写し取るだけでなく、風や雨や、砂漠に舞う土埃、枯れた川の荒々しさなど、読んでいる周りにその気配が立ち込めてくるような文章が素晴らしい。言葉はそっけないほど細かな説明がない分、情感がすくないけれど詩的で快い。
こういった表現が 先に読んだ
「チャイルド・オブ・ゴッド」や 「ザ・ロード」 のような心にのこる作品になっていったのだろうか。悲哀、哀歓、人間の持つ究極の孤独を書くにふさわしい。
この国境シリーズ(と呼ばれている)の残る二冊も楽しみだ。


テキサス生まれの少年の名はジョン、グレイディという。彼は、戦後無気力になった父親と彼が生まれてから唯一の慰めであった牧場を売って出て行きたい、そんな母親の元を去る決心をする。
馬と過ごす牧場の生活を求めて、親友のレーシー・ロリンズと二人、リオ・グランデを渡る。
途中でひ弱で年下に見えるがやはり一人旅のジミー・ブレヴィンズが加わる。彼は過去に雷に打たれ身内が何人も死んだこともあり極度に雷を怖がっていて、広い草原や砂地で雷雲を見ると怯え、手を焼かせる。
そして彼のこの恐怖が、ふたりを苦境に陥らせる。
雷におびえている間にブレヴィンズの鹿毛が逃げてしまう。
彼はそれを探し当て取り返すのに三人を殺してしまう。

メキシコの牧場に雇われた二人は生きがいを感じて充分によく働き重宝される。しかし、グレイディは帰省していた牧場主の娘に恋をして、二人は突っ走ってしまう。しかし将来はなく、牧場から出て行かなくてはならなくなる。この牧場の実権を握る大叔母の説教は、彼女の生き方の長い歴史であり、若い二人に理解を示しながらもやはり大人の分別を超えることがない。この長い話を入れた叔母の意図はよく分からないまま二人は牧場を放り出される。

ブレヴィンズの起こした殺人事件で二人は共犯になり刑務所に入れられる。そこで、捕まっていたブレヴィンズに出会うが、彼は警官に連れ出されて射殺される。このあたり暴力が蔓延する刑務所の中、マッカーシーの描写の面目躍如といったところで迫力がある。牧場の大叔母の手引きだろうか、二人は奇跡的に救い出されるが、帰省する前にちょっと警官を探して気合の入った復讐に向かう、ここにきてまさに西部劇の世界。クレイディの若さと血の熱さ、無鉄砲なところ読んでいても力が入っていい。

旅の途中二人の若者がぽつぽつと語彙の少ない会話を交わす、それは深い意味を持つ言葉だったが、答えはいつも、わからないな、知らないな、で納得する。このあたりの会話も生き生きとして、このわからない世界の深みを少しずつ知っていくのだろうと何か愛おしくなるところが微笑ましくてうまい。

題名にある「美しい馬」がいる風景。
命がけで行方のわからなくなった馬を探したいブレヴィンズ、いつも腕を伸ばして首をなでて話しかけ、孤独を癒しているグレイディ。町に入ると横を車が走り抜けていく。そんな時代に野生馬を集め馴らして繁殖させる牧場の生活がグレイディの生き甲斐だった。
日が落ち無数の星が中空に向かってせりあがってくる。百合や野の花が咲く松林の下で焚火を熾し、ノウサギを狩る。突然の豪雨や雨上がりの霧に閉ざされたメキシコの草原、草丈に埋もれそうな盆地、小高い丘から見下ろす風景などが、くっきりと描き出されている。

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「QJKJQ」 佐藤究 講談社

2017-04-29 | 読書



第62回江戸川乱歩賞受賞作(平成28年)
読了後に改めて帯の惹句をしみじみと眺める。作家の方々(選考委員)の書いた帯のなんという煽り方だろう。
応援体制があからさまで、ほほえましいともいえる。
選評の言葉も興味深い。今回は辻村深月さんに同意した。湊さんもそうだが、女性委員の評が面白かった

冒頭から、長女が家族の惨殺死体を発見する。衝撃的でグロテスクな幕開けで、乱歩賞らしい趣向かと読み進んだ。
これが「家族全体が殺人鬼」ということなのだろう。その犯人捜しならそれでよかったのだが。
途中から幻想の世界が入る。心理的な逃げかなとも思えたが、そうではない。
作者のまじめな筆のせいか、もの悲しい部分を加えて影の部分を少しばかり醸し出してはいたが、あまり効果はなくてミスリード感も、重厚感も少ない。

ついに、これはというところで叙述性に気が付いたが、それもストーリーの流れの一部になって消えてしまう。
凝った構成は面白いが、モザイクのようにはめ込んだ伏線らしいシーンが浮いている。長女の現実が生々しく横たわるところこの話の面白さのポイントかもしれない。
幻想世界が広がっていけば、直面する家族の喪失感、存在感がミステリアスで、深みが出たのではないだろうか。
広がれば面白い着想なのにとても残念だ。
ネタとして様々な伏線は優れているがその組み合わせたストーリーがいささか物足りない。

題名の「QJKJQ」も、意味ありげな「Ca→Ab」も、ふたを開ければそうだったのかという程度で終わった。

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こびとが打ち上げた小さなボール」 チョ・セヒ 斎藤真理子訳

2017-04-18 | 読書


  
1970年代の韓国に住んでいた最下層の、家族の極貧生活について書かれていた。
作者は、表立って発表すること、社会批判ととられること危惧して、短編にして少しずつ発表したそうだ。
「こびと」一家をメインにした連作小説。三人子供が話してになって登場し、富裕層に生まれた子供たちが語るところもある。

劣悪な環境で、肩を寄せあって建つ密集した住宅は、ソウル市の再開発計画で、取り壊されていった。
代替住宅のためには重層アパートを建てて入ることを前提にしていた。一斉に調査し無許可建築物番号を与え、入居資金を支給した。しかし間貸りまでしている人たちは、アパートの入居には縁がなく資金もいった。

「こびと」の家族はアパートに入る金がなくて動けず居座っていた。撤去警告書が来たとき、父さんは本を読んでいた。父さんは今まで十分働いてきた。重い道具箱をかついて仕事を探して歩き回った。
父さんの考えでは生活はもっと良くなるはずだったが、撤去作業が始まってつるはしが壁を崩す音が聞こえた時、家族はまるくなって腰を据えご飯を食べていた。

長男、次男と長女が働きだした職場は、安い給与で 家族の最低の生活費がやっとだった。

大学中退で労働問題改善を進めていた青年が現れ、父さんはもらった本を読んだ。
宇宙にある星の国に行って暮らす。老いが見えるお父さんは現実から離れた、工場の高い煙突のてっぺんに立って、理想の星に向かって幻想の球を投げ上げた。父さんの体は煙突中から発見された。


本を読んで学校に行きたかった長男は諦めて働きに出た、労働者とともに組合を作って裁判に負けて死んだ。政治は力だった。お母さんは勉強し本を読む長男の未来を常に恐れていた。


奴隷制度の過去を持つ貧民の歴史も、こういった小説が明らかにしてきてはいる。しかし根本的な解決は誰も持たないことだと感じる。人は人以外になれず、自分は自分から出られない。
どんなに快適な社会が保証されてもアダムとイブさえ満足できなかった。
生きる最低の条件はどこに線を引くか。

どこにでも人がいる限り解決できない問題はあり、韓国だけでない、こういう本が読まれ今でも読み継がれているという。
本を読むことで人が成長でき自分自身を変えていけるなら知らないより知った方がいい。しかし結果は自分自身の中にある。

生活の質は変わっても人間の本質は変わっていないかのように見えた。こうやってレビューを書いても私の前の現実は動かせない。

映画化されたというので動画を見てみた。文字も読めないしセリフも分からなかったが、本のおかげでストーリーがよく理解できた。ただ映画の方は、舞台が紡績会社ではなく塩田で、労働争議のシーンはなく家の取り壊しで終わっていた。

人により読み方は違うだろう、読んでよかったがいささか重すぎた。


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「アンダーカレント」 豊田徹也 講談社(アフタヌーンCODX)

2017-04-18 | 読書



 
表紙が美しい。こうして横たわっていられるのは、すでにあらわれた出来事を超えて、激しさなどない世界に住み始めているのだろう。

生活をこなしていくには、時間の起伏を渡っていかないといけない。

夫が突然いなくなっても、急にあらわれて消える男も、一時の流れにしかならない。

何もしないわけではない。夫はなぜどこに消えたのだろう、と思いながら生きている。

謎が解けてみれば、わがままであっても自分勝手であっても、人はただ一日一日を積み重ねて生きていかなくてはならない。
言葉や行為が人を傷つけたり、救ったりしながらでも。
そうして生きることが、庶民の暮らしだと語っている。

心を傷つけあったり、気持ちの騒ぎを抑えて、憎んだり許しあう、はた目から見ればさほどでもない、ありきたりの出来事が、胸に残るようなしっかりとした、静かな筆致で進んでいく、繊細な物語にひかれた。

題名もいい。

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「野生のゴリラと再会する」 山極寿一 くもん出版

2017-04-14 | 読書



ヒト科は、哺乳類サル目(霊長類)の分類群のひとつ。ヒト亜科(ヒト属、チンパンジー属、ゴリラ属を含む)
旧来はヒトの種を分類するための分類項であったが、ヒトを中心とする古生物学の進展と、DNA解析の進展の結果、ヒトと類人猿、特にゴリラ属・チンパンジー属の遺伝距離は小さいことが分かり、両者もヒト科に分類される意見が主流を占めることとなった。ただし、遺伝子と表現型の関係は未だ明確ではなく、遺伝距離を即、分類に反映させることに対しては慎重論もある


ちょっと調べてみたのは、動物園に行っても猿を見るのが好きではない。動作は限りなくヒトに似ている。特に指使いなど部分的にヒトかと見間違いそうになるが、見ていると動きなどは野生そのもので、無造作に餌をばらまかれ、それに群がっていて無残な気もする、ネットで囲われて座っていたりするのが不当に思える。ましてや大型のオランウータンやゴリラとなると、そんな生活でいいのかと、動物園ってそういう所だとわかっていながら、ヒトに似ているだけについ眼を逸らしそうになる。

ペットにすれば鳥も猫も犬もかわいいし、ペット達も世話さえすれば不満はなさそうだし、動物園の動物もでものんきに暮らしているようにも見える。考えるといかにも人間は身勝手に思えるが、この本を読むと、野生もそれなりに暮らしにくくなってきている。ヒトのせいで自然が住みにくくなってきているともいえる、しかしヒトも生物の進化の途中かもしれない、今のように脳が大きくなったおかげでヒト文化やヒト文明も進化してきている。進化とばかり言えない所も多々あるが。

対面的<見つめ合い>の人間学、という本を読み始めたら文中でこの本に出合ってしまった。

なぜ対面的という本かといえば、よく知らない人と1対1で会わないといけないようなシーンは特に不得手なもので、本屋さんで目次を読んで興味をもった。対面して見つめ合うと独特の磁場が生まれるという、ボクサーやキスや顔を見ないツイッターや身近なところから対面という論を述べてあり面白い本だった、間抜けなことに1/3を残して返却期限が来てしまった。「延滞しないでください」のカードまで入っていた。そこで先に来た、「ゴリラ」を読む羽目になった。
すぐに再予約したが、人気本で(これはびっくりだった)なかなか回ってこない。

しかし、そこで同じヒト科について少し知ることができた、同じ類人猿でも、長い歴史の果てにヒトと猿とはずいぶん違ってきていることを少々学問的に知った。
「対面」から言えば「ゴリラ」は視野がぼやけるほど近くに顔を寄せる(仲間どうしても人に対しても)
猿一般は目を合わせるということは危険な行為なのだが、ことゴリラは顔を寄せることは威嚇ではない。彼らは相手の反応を見て親しみを見せることがあり、眼で語りかけたりする。「対面」は愛すべき行動だった。

この本のテーマは以前ゴリラの国で研究をしていて、この頃よく遊んだ子供ゴリラのタイタスは今でも覚えていてくれるだろうか、というので訪ねてみたということだった。そのころのタイタスはヒトにすれば6歳くらいだった。そのタイタスも今はヒトなら60歳を超えていた。

覚えているだろうか、再会したタイタスは群れのリーダーになっていた。しばらくして挨拶の声を出し、笑い声で答えた。子供に返ったように独特の形で寝転がって見せた。
ゴリラの世界を観察し続けた記録には、ヒトより大きい体で、草や木の皮を食べ、群れで身を守る智慧や独特の暮らし方は興味深く、改めて失った人の遠い過去を見る思いがした。

取りとめのない感想文になったが、対面的<見つめ合い>の人間学という本から、学生時代の参考本に出合ったように面白い本に出合い、新しい発見もたくさんあった。


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「陰りゆく夏」 赤井三尋 講談社文庫

2017-04-12 | 読書



大手の東西新聞に抜群の成績で入社が内定したのは、誘拐犯の娘だった。
が、週刊誌にスクープされ人事局が揺れる。社長は「矍鑠」という字が書けた優秀な成績にこだわる。
面接でも感じがよかった。ただ……

この内定した娘(比呂子)が非常にユニークで、叔父夫婦に引き取られ不幸の影もなくすくすくと育っている、多少天然ボケの性格も愛嬌で。
優秀な成績にも拘わらず人柄もいい。幹部たちは何とかして入社させて育ててみたい。人事局長、人事課長、果ては社長まで口説きに加わる。

葉山にいる社主から事件の調査命令が出る。喜んでお受けします、というところ。
20年前の事件捜査は、閑職にいる梶に任される。できる彼が編集資料室という窓際に追いやられたのは、過去にあった部下の勇み足が原因だった。責任を感じた部下が自殺した。彼は辞表を書いたが引き留められて今の職にいる。そこで再調査の命が下る。


資料室は時間に縛られず、仕事はやり甲斐がないといえばいえるが、この命には都合のいい部署で動きやすい。

20年前の事件は、現金の引き渡し場所で歩道橋の上から札束を撒くという犯人の指示で現場が混乱し、犯人を逃がしその上誘拐された男の子はついに見つからなかった。
だが逃走したクラウンを見つけて追跡中に、運転を誤った車が崖から落ちて大破、犯人は死んだ。

犯人は製薬会社のプロパーだった、病院関係者をはじめ周辺の人々を調べはじめる。なぜ犯人は逃走経路が判りやすい、すぐに発見されるような道を選んで戻ってきたのか。子供はどこにいるのか。

病院から男の嬰児を抱いて出て行く女の姿が目撃されていた。その子の両親はいまだに子供部屋で、死んだ子供の幻を育て続けていた。

内定者をスクープをした週刊誌の編集長は業界を渡り歩いた曲者だった。裏で株の取引もやっていたらしい。何か匂う。梶はこの線を追うことにした。

調べるにつれあちこちにつながる細い糸が見え始める。

内定を受けた犯人の娘(比呂子)は入社を断ってきた。

そして意外なところから、当時の嬰児の消息が知れる。そして、子供を失った親たちの異常な愛情が現れてくる。


「月と詐欺師」が面白かったので、赤井さんの江戸川乱歩賞受賞作を読んだ。あっさりわかりやすくて読みやすく、エンタメ全開作品でコリがほぐれた。誘拐の身代金の受け渡しも、歩道橋から札を撒くというのは、この手は今更ながらと思いつつ、面白かった。

後日談も少しあるが、比呂子は結局入社したのだろう。
得意の語学を生かして外国で特派員になっていて好感が持てた、だがもう一人の子供の将来はどうなったのだろうか。

よくできた比呂子のキャラクタ―がもう少し活躍すれば面白かったが残念。今ならスピンオフ作品にでもなるところだが、見当たらなかった。。

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「大和路・信濃路」 堀辰雄

2017-04-02 | 読書





堀辰雄全集を読んだのは中学生の頃で、私にもあった多感な時代にw、美しい風景描写ともの悲しい物語やエッセイを読んで一時頭から離れなくなった。クラブの休みにチームで出かけるなら広いお寺が都合がよく。時々お弁当をもって、遠足のような気分で一日鬼ごっこやキャッチボールをしていた。早春の観心寺は梅や乙女椿が咲きだしていた。唐招提寺の横には田んぼが広がり、薬師寺の横の線路はススキが銀色に光っていた。その頃は今のようにお寺の敷地が囲い込まれていなくて、まわりの農地に続いているような所が多かった。京都との境にある「浄瑠璃寺」や「岩船寺」はそのころ健脚だったから歩けたようなもので、今では車がないといけなくなった。堀さんご夫妻も徒歩で訪ねられたと書いてある。

みんなしばらく子育て時期は遠ざかっていたが、また気分転換が欲しい年になった。
今年は特に春を待っていた。なぜか浄瑠璃寺の馬酔木の頃には行ったことがなかった。浄瑠璃寺は秋でしょうと周りがいうので、私も秋にはたびたび訪れ、春の機会を逃していたが、道路が整備されたので時間もかからずいけるようになった。

平安、鎌倉の時代から戦火を逃れてきた建物は市街から随分離れた所にあってひっそりと寂れて古びているが、長い歴史を思うと遠くて近い人の営みの祈りや願いが今でも感じられる。

私は神も仏も実感できてはいないし、祈りは心に向かって唱えるのだとか理屈を並べて、縁なき衆生に近いけれど、古い裳階の形や屋根の優美な曲線や、並んでいる仏様の顔を見ると何か畏れのような気持が湧いてくる。

こうして庶民の願いや希望や歓びや嘆きの声を聴きながら仏たちは祈りの声を静かにそっとあずかってきたのかと思うと、長い歴史の中の庶民の暮らしの重みを感じる。
人はそれぞれ違った心の形を自分の中に持っている、疲れた時は、やはりここで祈って、荷物を預けて帰るのだろうか。
 
この春、僕はまえから一種の憧れをもっていた馬酔木(あしび)の花を大和路のいたるところで見ることができた。
 そのなかでも一番印象ぶかかったのは、奈良へ著(つ)いたすぐそのあくる朝、途中の山道に咲いていた蒲公英(たんぽぽ)や薺(なずな)のような花にもひとりでに目がとまって、なんとなく懐かしいような旅びとらしい気分で、二時間あまりも歩きつづけたのち、漸(や)っとたどりついた浄瑠璃寺の小さな門のかたわらに、丁度いまをさかりと咲いていた一本の馬酔木をふと見いだしたときだった。


いつ来ても参道の入り口にお土産の店があり、雑器や秘仏のレプリカや自家製の梅干しや漬物を売っている。
記念に小さな陶器の置物を買って帰る。


傍らに花さいている馬酔木(あしび)よりも低いくらいの門、誰のしわざか仏たちのまえに供えてあった椿の花、堂裏の七本の大きな柿の木、秋になってその柿をハイキングの人々に売るのをいかにも愉(たの)しいことのようにしている寺の娘、どこからかときどき啼(な)きごえの聞えてくる七面鳥、――そういう此のあたりすべてのものが、かつての寺だったそのおおかたが既に廃滅してわずかに残っているきりの二三の古い堂塔をとりかこみながら――というよりも、それらの古代のモニュメントをもその生活の一片であるかのようにさりげなく取り入れながら、――其処にいかにも平和な、いかにも山間の春らしい、しかもその何処かにすこしく悲愴(ひそう)な懐古的気分を漂わせている。
 自然を超えんとして人間の意志したすべてのものが、長い歳月の間にほとんど廃亡に帰して、いまはそのわずかに残っているものも、そのもとの自然のうちに、そのものの一部に過ぎないかのように、融(と)け込(こ)んでしまうようになる。そうして其処にその二つのものが一つになって――いわば、第二の自然が発生する。そういうところにすべての廃墟の云いしれぬ魅力があるのではないか? ――そういうパセティックな考えすらも(それはたぶんジムメルあたりの考えであったろう)、いまの自分にはなんとなく快い、なごやかな感じで同意せられる。……



また「風立ちぬ」の名文を読んで見よう。文章の書き方が少しは上達するかもしれない。


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2017.3.30 今年の<つくし>

2017-03-30 | 山野草・季節の花,風景など

お天気がいいので散歩に出た。少し寒いが花の春は足元に来ていた。
つくしを一握り摘んで、さやえんどうとバター炒めにした。



ソメイヨシノのつぼみが膨らんできた。


庭のスノードロップ


山茱萸


ノカンゾウの芽が柔らかい


つくしを見つけた。近所にはもうないのかと思っていた。


袴をとってバター炒めにする。



今日もいい散歩ができた。
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「ミナの物語」 ディヴィッド・アーモンド 山田順子訳 東京創元社

2017-03-20 | 読書



「肩胛骨は翼のなごり」の女の子「ミナ」が隣に越してきた「マイケル」に勇気を出して、初めて声をかけるまでの物語。

まだお隣のうちは、以前に住んでいたおじいさんが亡くなって空き家になっている。おかあさんとどんな人が来るのか密かに話してはいるが、荒れた庭や倒れそうな物置を見ていると少し心配になる。

ミナのうちの庭には登るのに手ごろな一本の木がある。枝に座って、上にあるブラックバードの巣からかわいいヒナの声が聞こえてきたのをそっと聞いたり、猫を追い払ったり、本を読んだり、木に言葉を刻んだりしている。

ミナは少しユニークで、学校に行ってない。
賢く、好奇心がいっぱい、本が好きで考えることも好き。授業中も自分の考えにとらわれ過ぎて時々はみ出してしまう。空想や夢や自然の中に気になることが満ちていて、頭も心もいつも忙しく、くるくると動いて止まることがない。

人間が作りあげたものに目を向ける--家、道路、壁、尖塔、橋、車。歌や詩。そう、あたしはそういうものが、完璧とはほど遠いことを知っている。でも、完璧だったら退屈だろうし、完璧というのは決して長所ではない。

先生は心配するけれど、お母さんは本を読んだりお話をしたり、ミナの心に浮かぶいろいろなことを一緒に考えてくれる。勉強も教えてくれるから今は学校には行かなくても大丈夫。学校に行くと浮かんでくる大切な考えが規則に縛られて窮屈だ。お母さんと自由に暮らしながら、生きることや広い世界のこと、おとぎ話や、神話の世界や、詩の中のたくさんの言葉や、その意味について考える。

白い紙に自分の想いを言葉にするのも好きで、浮かんだテーマについて様々な言葉を書いて、書きながら感じて、考えて、成長していく。

白いところがだんだん少なくなってくるので、じきにこの文章も終わりにしなくちゃいけないのがわかるから、そうするとあたしは神さまみたいなものかしらろ思うのは、あたしが書くのはもう充分だと決めるのと同じように、神さまがもう充分だと決めて、時間を終わらせることにして、ある日、たったひとこと、<ストップ>といったら、すべてがあっさりストップするんだろう。

集団生活からはみ出していることが、すべてにはみ出しているとは限らない。ミナのようにのびのびと呼吸しながら育つことはどんなに楽しく貴重なことだろう。

個性的ということは集団生活の中では少し窮屈かもしれない。無理に押し込めないこんな生活は理解のあるお母さんがミナに与えてくれたもので、子供時代の一時期、こうして過ごせるミナは幸せかもしれない。ミナお明るい日常にはそういった作者の思いが詰まっている。

こうして暮らすことは、孤独かもしれない。いつまでも心のままに自由ではいられない。集団で暮らすのは個性を型にはめるかもしれないが、人は群れて暮らす。成長していくことは少し苦しく、経験して学ばなければいけない。こんな子供時代を過ごした賢いミナはよく考え、書いて、いつか豊な心の翼を広げてたくさんの人の中でも自由に暮らせるだろう。

お隣に越してきた「マイケル」に声をかける、今、勇気を振り絞って話しかけた方がいいとミナは思う。そうして新しい一歩が始まっていく。

読みながら、ミナはいい、お母さんも素晴らしいと思いつつ、一人でどうするのだろうと少し心配したが、「マイケル」との未来が見えるところでほっとした。


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「キリンヤガ」 マイク・レズニック 内田昌之訳 早川書房

2017-03-02 | 読書



アフリカ・ケニアは欧米の進んだ文化文明が浸透し、ビルと工業の町に変わっていた。
2123年当時、欧米文化はアフリカも席巻し工業化で空気汚染はひどく青空が見えなくなっていた。
サバンナでのびのびと生きる動物やかつての暮らしはもう見られない。それを残すためには、同じ思いでいるケニヤのキクユ族を連れてユートピア小惑星にキリンヤガという名をつけ、そこに移住するほかはないと考えたコリバという一人の老人の話である。
彼はヨーロッパとアメリカで教育を受けた博士であり、父親が移住を言い出した時、息子一家は外聞もあり猛反対をした。

コリバは公害で汚染された地球にもうユートピアはないと感じていた。宙港から宇宙船に乗り、新しい惑星でムンドゥムクになった。新しい土地にある山をケニア山、キリンヤガと呼び、その頂に住む絶対神ンガイの予言をきき、人々を教え導く祈祷師になった。

ケニアからユートピアを求めこの世界に移住した人々は、その後この緑あふれる大地で、伝統的な鍬で耕して行う農業や狩りや、まじないを信じて自分たちの国を守ってきた。

みな心の片隅にささやかな希望やよりどころや夢のような漠然としたものを抱えている。それが実現してもしなくても何かの時に支えになるかもしれないと思っている。それが全く消えてしまったとき絶望して生きることをやめてしまうか、ただ生涯を流れに任して一生を終わる。ムンドゥムクの導きは天啓のようだった。

この物語は、SFの形をかりた現代の寓話であり、ムンドゥムクが子供たちを集めて話す言葉は、それも形は違っても「イソップ」童話のようであったり、教訓だったり、言い伝えだったりして、それがユートピアを担う次の世代の糧になってきた。

しかしムンドゥムクは機械文明のかけらからも離れられなかった。どんなに彼が望んでも、「共同体」という宇宙組織の監視下にあり(それは監視して、助けがいるときに何らかの援助ををするだけのものにすぎなかったが)持参したパソコンで情報を得ていたり、何よりも、今まで欧米の名門大学の教育で得た知識があった。
彼はそれがユートピアを維持するために必ず役立つものだと信じていた、住民も彼の知識の前に頭を垂れ、尊敬し指示に従って暮らしてきた、その知識はキリンヤガの世界では大いなる智慧にまで昇華されていった。
あくまで、キリンヤガで事故が起きるまで。

宇宙船が墜落し、瀕死の重傷を負ったパイロットを助けるために地球から先端の医療機器を持った医師が来た。
住民は医師が骨を接ぎ輸血をするのを目の当たりに見た。
今まで信じていた、軟膏や、祈りやお告げは何だったのだろう。
ムンドゥムクは自然に逆らわず生きることを理想にしていた。しかし住人は考え始めた。

丸い草ぶきの家に住み、女が働き、限られた財産を得られない息子たちは、畑の外で共同生活をする。昔は野生動物と戦うために使った槍も腐って錆びてきた。これはユートピアか。

この作品が新しい現代の寓話として発表されたときは多くの賞を受け、続く短編も次々に賞を受けて賞賛された。「キリンヤガ」は短編集になっている。

中でも
「空にふれた少女」は絶賛されたという。
たまたまムンドゥムクの小屋でコンピュータを見て驚く。文字などいらない、本を読んではいけない、コンピュータに触るな。解るな。そういわれて育ったが、彼女はまれにみる聡明な頭を持っていた。コンピュータと話せないならと、自分の言葉を創ってこっそりと会話ができるようになった。
ムンドゥムクにもわからない言語で話す少女を出入り禁止にした。少女は言葉に飢え、知識に飢えて、食べることも忘れて一心に考え、ついに命を失った。

ムンドゥムクは少女を悼みながら、この世界の規律は絶対だと信じていた。新しい言葉や習慣に浸食されて、この緑の楽園を枯らすことがあってはならない。

この短編は悲しく聡明な一人の少女の運命だけではない多くの示唆を含みながら胸に残る。

ムンドゥムクの思い描いたキリンヤガという自然に守られた国、穏やかな生活。昔ながらの掟は、時の流れ、民族の歴史、風土の変化にどう対応していったか。

時は少しずつ変化をもたらす、良きにつけ悪しきにつけ。
二律背反、二面性、価値観の二義性、気づかないほどの矛盾。言葉は知らなくてもそういった割り切れない感じを持たせないとする掟には、どこがニュートラルでどこにユートピアがあるのか。人は考え始めた。
掟にはどんな価値があるのか。硬貨の裏と表、人の背と腹。境界は薄すぎて見えない。

それに代わる言葉を人はたくさん考え出した。思いようさ、人は人、自分は自分さ、拘るな、色即是空さ。すべては正しく、裏返せば違う解釈もある。
そうだ、こういったすべてがこの私、ムンドゥムクの寓話には含まれているのだ。コリバは自分も縛った。

しかしそれはこの物語を読めば、私に大きなヒントを与えてくれてはいる。コリバのユートピアは全てのユートピアに似ているかもしれないが、時とともに生きることの解決にはならない。命は流れ行くもので止まってはいない。
信じることよりも疑うことから世界は進化してきたようにも感じる。

おもしろく悲しく興味深いはなしは、また読み返せば違った顔を見せるかもしれないと思えた。



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「さぶ」 山本周五郎 新潮文庫

2017-02-26 | 読書



小雨が靄のようにけぶる夕方、両国橋を西から東へ、さぶが泣きながら渡っていた。双子縞の着物に、小倉の細い角帯、色の褪せた黒の前掛けをしめ、頭から濡れていた。雨と涙でぐしょぐしょになった顔を、ときどき手の甲でこするため、眼のまわりや頬が黒く斑になっている。ずんぐりとした軀つきに、顔もまるく、頭が尖っていた。――― 彼が橋を渡りきったとき、うしろから栄二が追って来た。こっちは痩せたすばしっこそうな軀つきで、おもながな顔の濃い眉と、小さな引き締まった唇が、いかにも賢そうな、そしてきかぬ気の性質をあらわしているようにみえた。

山本周五郎賞という多くの作品を読みながら、肝心の作品を読んでなかった。この賞は優れた物語り性を顕彰されるものだそうで、お話好きとしては、まず題名だけでも拾い読みはしておくべきだと思っていた。

検索してまず読みやすそうな、それでも名作といわれている「さぶ」にした。これはテレビか映画で見たことあったからで、主人公が逆境にめげず、かえってそれをばねにして成長する、今でいうビルドゥングスロマン、ちょっと涙がにじむような話だった、その上友情物語で、身分制度の冷たさと逆にそれがあった故に際立つ人のつながりの暖かさが、うっすらと心に残っていた。


二人のまだ子供だったころ、奉公の厳しさから逃げようとする「さぶ」を「栄二」が引き止めるところから始まる。
二人は表具と経師で名を知られる店で働いていた、おとなしく勤めていれば手に技がつき独立もできる、「さぶ」は貧しい百姓の出で「栄二」は孤児だった。同い年の二人は常に助け合っているが「さぶ」は栄二を心から慕い尊敬していた。

この賢く、器用な技を持ち整った顔立ちの栄二の話が主で、彼はそんな生まれつきの才能を持っているが、間違ったことには目がくらむような怒りを覚えそれを抑えきれない性質で、幾度となく誤解され冷遇され、罪を着せられて生死の境をさまよう。濡れ衣を着せられ小石川の人足寄せ場に送られ、そこで寄り集まった人々と暮らすうちに彼は少しずつ成長していく、小さな出来事が積み重なって彼が育っていく様子が人情ものとして読みがいがある。

「さぶ」の献身も美しい。

こういった話を読むと、深い人生訓を言うような固いものからは感じられない香りが、心を優しく撫でていくような読後感を覚える。

日本的な身分制度や、使用人の悲哀や、貧しさの悲しみを物語の中に忍ばせている。ストーリーといえばありきたりに墜ちるような中で、無垢で善良な「さぶ」を題名にし、「栄二」を主に、眼に浮かぶような小さなところを描写する目や、ややもすれば勧善懲悪という定型に陥りそうな話を、江戸時代という枠の中で書き尽くした、こんな物語を描いた人なのだ。

これだけではない。山本周五郎という無冠を誇りにした人が描いた、「赤ひげ」「樅の木は残った」「厳かな渇き」「虚空遍歴」など多くの名作をもっと読むべきかもしれないと思った。

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「死の泉」 皆川博子 早川書房

2017-02-18 | 読書



第二次大戦下のドイツでは、オーバーザルツベルグに高官の山荘があり麓に「レーベンスボルン」という名の母子保護施設があった、あたりにはこのような施設が数多く作られていた。まだドイツの士気が高揚し、未来に向かって多くの子供を育てて国力の増進を図っていた時代。同じように妊婦も保護という名のもとに集められてきた。施設の所長クラウス・ヴェッセルマンはSSの上級将校で「レーベンスボルン」の責任者だった。ドイツは人的優位を望んで、金髪碧眼の子供を選別して保護し、そのためにはポーランドの子供でも容赦なく狩り集め養子縁組をして育てていた。

夫のギュンターが入隊して、愛国者の妻という口実を使って保護されていた妊婦のマルガレーテは、クラウス・ヴェッセルマンに求婚されて同居する。彼は偏狭で狂的な音楽趣味を持っていた。少年のソプラノに魅せられ、声の美しい少年二人、フランツとエーリヒが別邸で保護され日々声楽の訓練を強制されていた。カストール(去勢)手術を施した形跡もある。
マルガレーテは子供の将来ために金髪碧眼で美しい声を持つ子であってほしいと望み、男の子ミヒャエルを産むが、連合軍がベルリンを攻撃し、オーバーザルツベルグに入り山荘を含め麓一帯が爆撃で壊滅した。

時が流れ、ミュンヘンにいたギュンターに彼の城を譲ってほしいとクラウス・ヴェッセルマンが来る。そこには17歳に成長したミヒャエルもいた。
ギュンターに招待されて一家は窓の下を通る仮装行列を見物する、そこで美しいソプラノをきき、クラウスは飛び出していき、貧民窟に迷いこむ。そこにはフランツとエーリヒがいたが探しても会うことができなかった。
だがそこには一時期「レーベンスボルン」に勤めていて博士の子を宿した女の子ゲルトもいた。
そこで、出会うことが運命だったように主要な人々がつながり始める。
城のあるオーバーザルツベルグはマルガレーテの故郷で、ギュンターと知り合ったところだった。
城に行き静かに研究を進めたい博士に同行することになる。

フランツとエーリヒは博士に復讐することを生きがいにしてきた。彼らも後を追って城を目指す。
城の地下の迷路には接合された人体のミイラの不気味な標本や、過去にナチスが略奪した品々が残されていた。深い湖もありそれは外につながっていた。

この小説には何重にもなった罠(遊び)がある。一つはギュンターの記録を、これは野上晶という翻訳家が訳したとするもので、原書は「子供たち」だった。
訳者が訪ねてみると彼は古いレコードを聞かせてくれた、そこからは美しいソプラノが流れてきた。
その上、謎を秘めたマルガレーテの手記の一部もあった。

そして戦慄するような光景を目にする。

この終わりの部分が、600ページを超す長編の幕切れにふさわしく「負けました」と声を出すほどだった、この物語を締めるのにこういう手もあるのか、現実の歴史(映画、ワルキューレを思わせる将校の氾濫もある)背景に物語の世界を作り上げた皆川さんの才能に感激した。


「あなたの研究って何なの」

「老いたネズミに若いネズミを結合すると、老いた方は、通常より寿命が延び、若い方は早く死ぬ。極限寿命に近づいていることを、老いた肉体の方が切実に認識し、若い生命力を積極的に吸収しようとつとめるからという推論が成り立つ。元気な方の免疫系が弱った方を保護し、神経内分泌物か産生するホルモンが相手を活性化するとも、かんがえられる。だから、この方法は、不老、あるいは虚弱者を壮健にする一手段となりうる」

マルガレーテの手記から。

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「世阿弥殺人事件」 皆川博子 徳間書店

2017-02-14 | 読書

かつて世阿弥が佐渡に流された、最初はその跡を辿ってみようという計画だった。その上研究者たちは、文献を比べてみた結果、「金島書」は世阿弥が著したものかという疑いがあって、疑問の箇所を再調査しようということも含まれていた。
ツアーには中世芸能の研究者の教授、助教授夫妻、研究所助手(講師)、能画家の女性、面打師の男、能画家の兄は能装束師だが都合により不参加、ビデオ撮影を頼まれた若者、同級生の姉、総勢7人が佐渡ツアーに参加する。

佐渡では現在もしばしば能演は行われていることで、世阿弥の直伝という久世流の兄弟はツアーに合わせて「老松」と「田村」の曲を予定した。

カメラマンを頼まれた中谷裕也は能のことは全く不案内だったが憧れの能画家北野華子と、友人道子の魅力的な姉令子が参加するというので、アルバイトを兼ねて参加する。

当日になって眠気をもようすような静かな曲「老松」が終わり、前シテの「童子」の後、後シテの登場になった。勇壮な舞と豪華な装束の「田村」を舞い始めたが、突然真剣を振りかざしたまま階を走り下り、見物の一人を狙って切りかかった
裕也はカメラを投げ出して逃げたが、一太刀で殺されたのは画家の華子だった。犯人は面をつけたまま裏口に向かい、衣装を脱ぎ捨てて逃走した。楽屋には三男で前シテを演じた千冬が縛られ昏倒していた。
犯人の行方は知れずその上、夜には体が弱っていた助教授夫人が死んだ。

裕也は憧れていた華子の死が割り切れず、残って調べることにする。
先についていた二人の女性は博物館で文献を閲覧して何か新しい学説を見つけたといったらしい。
久世家の長兄の妻は、新潟で教師をしている次男のかっての恋人だった。

久世家の兄弟は修行して皆「田村」は舞える。囃子方も謡方でも舞えるものがいる、犯人の確定は難しいが、犯人は面をつけたままま襲いそのまま逃走して行方がしれないこと。ついに行方不明のまま車で崖から落ちたことになった。

助教授の野淵夫妻は仲が悪く、夫は令子を手に入れ父の国立大教授によって将来の夢を叶えたいと思っていたことで、夫人が邪魔になっていたのかもしれない、しかし心臓麻痺を殺人だとするには証拠がない。
華子は間違って殺されたのではないか、能面は視野が狭い、その上おびえた人たちは逃げることに必死だった。
華子の兄が欠席したのは気に入った女を連れて旅行中だった。こういうことはよくあるらしい。だが彼は装束師ではあるが趣味は医学書を読むことでその方面には詳しい。

世阿弥の佐渡流刑は真実だろうか。歴史学者の研究心と、能好きの探求心は、多方面に広がっていく。ついに歴史にも決着が見え、一つの手がかりから、まだ発見されていない連続殺人が見えてきた。
「能」を題材にしてはいるが、派手な「田村」を使ったのは面白い。ここで殺人の実行はむつかしそうだがそれを言えば殺人事件は困難な状況でも起きる、兄弟の絆にもふれ、望から生まれた悲劇が終わった。
「金島書については、「古文書」や「風土記「古今集」も調べている。メインストーリーに絡むには少し煩雑な感じもするが、手際よく決着をつけたのはさすがで面白かった。




ネコヤナギの芽が膨らんでいました。
2017.02.13





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「肩胛骨は翼のなごり」 ディヴィッド・アーモンド 山田順子訳 創元推理文庫

2017-02-13 | 読書



この本を読むと不可思議を感じる子供心をとっくに失ってしまったのだろうかと思う。

マイケルが引っ越してきた家には倒れそうな小屋があった。扉をそっと開けて中に入っていくと隅に何か生き物がいた。座ったままで動けないらしい。蜘蛛の巣やほこりをかぶって彼は虫やネズミなどを食べて生きているようだ。苦しそうなので背をなでると背中に不思議な盛り上がりが二つあった。彼は口をきいた。
「なにが望みだ」
汚れて死にかけているようなこの人には食べ物と薬がいる。

隣にミナという女の子がいた。学校には行ってないで自由に暮らしていて、勉強はお母さんに教わっているという。
ミナと二人で彼を空き家に移して、話をする。こっそり夜様子を見に行ってみると、彼の背中に翼があった、三人で手をつないで踊っているとミナとマイケルの背中にも、月に照らされた翼が見えた。

ミナは学校に行ってないが子供らしい中にも柔らかい心と知恵でマイケルに様々な影響を与える。子供の心だけが見ることができる不可思議なものに満ちた世界を、マイケルにも気づかせる。

ミナが質問するとマイケルは言葉に詰まる。「あんた鳥、好き?」「わからない」「ハ!典型的」「ブラックバードの色は」「黒」「典型的」
彼女はありきたりの知識を典型的という。

マイケルの妹は命の灯が消えそうな心臓病の赤ちゃんで、彼は心配でならない。お父さんもお母さんも一喜一憂して病院に通っている。
お母さんは赤ちゃんの心臓手術の後、そっと抱き上げる翼のある男の人を見た。不思議な夢だった、と思う。
手術が成功して赤ちゃんが退院した。危険な小屋は取り壊され、そこで元気に遊ぶ赤ちゃんの庭ができるのだろう。

読後に失ってきた様々な不可思議を感じる心について。その中にある祈りの心について。
学校の教育につて、
なかでも、学校に行っていないミナののびのびとした暮らしと彼女とお母さんが声を合わせて歌うウィリアム・ブレイクの詩について。
両親の心が、赤ちゃんにばかり偏っていないかと、マイケルを気遣いいたわることについて。
教育の典型について。知識と経験と環境について。
奇怪な男が少しずつ元気になり、「名前はスケリク」と教えたことについて。
第一声が「何が望みだ」といったことについて。

作者は美しい感動的な物語の中にたくさんの意味を込めて、これを書いたことだろうと思う。

うちのあかちゃんも翼を持ってたと思う?」
ええ、ぜったい翼を持っていたと思うわ。よく見てごらんなさい。ときどきかあさんは、あの子はまだ天国を離れきっていなくて、この世にちゃんと降り立ってないんだと思う」
母さんは微笑したがその目は涙ぐんでいた。「だからこそ、この世にとどまるのに苦労しているのかもしれないわ」

お母さんはそういった。でもあの夜あかちゃんを抱きあげて慈愛に満ちた目でじっと見つめ、どこかに消えていったスケリクのことは夢だと言っていた。
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