ま~た雨が降ってら~という感じで目覚めて、起き出して、やっぱりまた降ってるわいと言いながら、
午前11時40分に一日が開始。良い天気だったきのうは何もしなかったから、また雨の今日も何もし
ないことにする。あはは、二人揃ってこのだらけようと来たら・・・。
朝食をしてからゆっくりとTIMEを読む。カナダ版が廃刊になって、アメリカ版が届くようになってから、
まじめに読むようになった感じ。まあ、わざわざカナダ国内向けの記事を書かせて、雑誌の一部に差
し替えて印刷するのは採算に合わないと判断しての決定だったんだろうけど、こっちは喜んで購読を
3年も更新してしまった。(カナダのことはカナダの雑誌があるからね。)で、最新号のカバー記事が
「The Case Against Over-Parenting」。過剰子育て反対論とでも言うところか。自分の子供が怪我
をしないように、病気にならないように、失敗しないようにと、やたらと子供にまとわりつく心配性の親
を「ヘリコプターペアレント」というんだそうな。いつも子供の頭の上を飛んで監視しているってことらし
い。要するに過保護。子供にしてみればうるさい限りだろうけど、子供を(人生の)成功者に仕上げる
のにこだわるあまり、子育てが「製品開発」のような様相だとか。おかげで、子供たちが大学に入学
する頃には、とっくに燃え尽きてカリカリになってしまった「クリスピー」か、些細なストレスで壊れて
しまう「ティーカップ」。
そういう風潮が行き過ぎ状態になったところで、これに逆行する流れが出てきたという。スローフード
ならぬ「ゆっくり子育て」の提唱。あたかも大不況の大波で、アメリカの家庭の3分の1が子供の校外
活動(習い事やスポーツ)を取りやめたという。要するに緊縮財政によるダウンサイズ、ダウンシフト、
簡素化。そうしたら、子供との関係が良くなったという家庭が圧倒的に多かったというから、不況も悪
いことばかりじゃないということか。平均的な子供が持っているおもちゃの数は150個とか。音や光
などで子供を「遊んでくれる」ものが多い。それを徹底的に整理して、子供が想像力を駆使して「遊べ
る」ものに絞ったら、喜んだのは子供の方。つまり、広い選択肢に対処する能力がまだ十分に育って
いない子供たちは親があれもこれもと与えて来る(教育的)おもちゃに生き埋めにされていたってこと
だろうな。そういう子供に息をつく余裕を与えようというのが「ゆっくり子育て」なんだろう。
この新しい動きは別名を「放し飼い子育て」とも言うらしい。ただし、放し飼いイコール自由放任では
ない。まあ、人間のすることだから振り子が今度はそっちへ振り切れないという保証はないけれども、
要は、子供が生きていく上で遭遇する問題を自分で考えて解決できる力(それが生きる力だと思う)
をつけられるように見守ろう、言わば「子育ての原点」のような考えに立ち帰ろうということなんじゃな
いかな。新しい子育ての試みが定着すれば、子供たちも手足を伸ばせていいだろうなあ。でも、今の
時代、子供にとっては過保護な親がいなくても「大人」になりにくい世の中かもしれない。知識と技術
の偏重で物理的に便利になった分、人間はそれに依存するようになって、いっそう自分で考えて判
断しなくても済む技術を追求しているように見える。なんだか、ボタンを押せばプログラムに従って
「遊んでくれる」おもちゃに囲まれた5才児のイメージと重ならないでもないけど、実際にそのあたりで
足踏みしてしまう危険性は昔よりも大きくなっているかもしれない。子育てが大変だってことは子供を
持てなかった極楽とんぼだってわかるけど、ひょっとしたら、洋の東西を問わず子供が大人に成長し
ようとすること自体がもっと大変な時代になっちゃったのかなあ・・・
午前11時40分に一日が開始。良い天気だったきのうは何もしなかったから、また雨の今日も何もし
ないことにする。あはは、二人揃ってこのだらけようと来たら・・・。
朝食をしてからゆっくりとTIMEを読む。カナダ版が廃刊になって、アメリカ版が届くようになってから、
まじめに読むようになった感じ。まあ、わざわざカナダ国内向けの記事を書かせて、雑誌の一部に差
し替えて印刷するのは採算に合わないと判断しての決定だったんだろうけど、こっちは喜んで購読を
3年も更新してしまった。(カナダのことはカナダの雑誌があるからね。)で、最新号のカバー記事が
「The Case Against Over-Parenting」。過剰子育て反対論とでも言うところか。自分の子供が怪我
をしないように、病気にならないように、失敗しないようにと、やたらと子供にまとわりつく心配性の親
を「ヘリコプターペアレント」というんだそうな。いつも子供の頭の上を飛んで監視しているってことらし
い。要するに過保護。子供にしてみればうるさい限りだろうけど、子供を(人生の)成功者に仕上げる
のにこだわるあまり、子育てが「製品開発」のような様相だとか。おかげで、子供たちが大学に入学
する頃には、とっくに燃え尽きてカリカリになってしまった「クリスピー」か、些細なストレスで壊れて
しまう「ティーカップ」。
そういう風潮が行き過ぎ状態になったところで、これに逆行する流れが出てきたという。スローフード
ならぬ「ゆっくり子育て」の提唱。あたかも大不況の大波で、アメリカの家庭の3分の1が子供の校外
活動(習い事やスポーツ)を取りやめたという。要するに緊縮財政によるダウンサイズ、ダウンシフト、
簡素化。そうしたら、子供との関係が良くなったという家庭が圧倒的に多かったというから、不況も悪
いことばかりじゃないということか。平均的な子供が持っているおもちゃの数は150個とか。音や光
などで子供を「遊んでくれる」ものが多い。それを徹底的に整理して、子供が想像力を駆使して「遊べ
る」ものに絞ったら、喜んだのは子供の方。つまり、広い選択肢に対処する能力がまだ十分に育って
いない子供たちは親があれもこれもと与えて来る(教育的)おもちゃに生き埋めにされていたってこと
だろうな。そういう子供に息をつく余裕を与えようというのが「ゆっくり子育て」なんだろう。
この新しい動きは別名を「放し飼い子育て」とも言うらしい。ただし、放し飼いイコール自由放任では
ない。まあ、人間のすることだから振り子が今度はそっちへ振り切れないという保証はないけれども、
要は、子供が生きていく上で遭遇する問題を自分で考えて解決できる力(それが生きる力だと思う)
をつけられるように見守ろう、言わば「子育ての原点」のような考えに立ち帰ろうということなんじゃな
いかな。新しい子育ての試みが定着すれば、子供たちも手足を伸ばせていいだろうなあ。でも、今の
時代、子供にとっては過保護な親がいなくても「大人」になりにくい世の中かもしれない。知識と技術
の偏重で物理的に便利になった分、人間はそれに依存するようになって、いっそう自分で考えて判
断しなくても済む技術を追求しているように見える。なんだか、ボタンを押せばプログラムに従って
「遊んでくれる」おもちゃに囲まれた5才児のイメージと重ならないでもないけど、実際にそのあたりで
足踏みしてしまう危険性は昔よりも大きくなっているかもしれない。子育てが大変だってことは子供を
持てなかった極楽とんぼだってわかるけど、ひょっとしたら、洋の東西を問わず子供が大人に成長し
ようとすること自体がもっと大変な時代になっちゃったのかなあ・・・