土曜日。きのうの朝の雪まじりの雨に続いて、今度は強風注意報発令中。高台では予報通りの
「雪」だったけど、たぶんバンクーバーで一番気候温暖な我が家のあたりでは、カレシによると
「大きいのが3枚か4枚」。もう来週は弥生3月なんだから。弥生って草木が芽を出して茂るとい
う意味じゃなかった?
中小企業の年金を運用していた会社が2千億円も無くしていたという嘘みたいな本当の話。運
用に失敗して損が出て、それを客に知られないうちに取り戻そうあがいているうちに2千億円が
消えたということかな。日本の新聞サイトではほんの数行の電報文みたいな記事しかなかった
けど、『ウォールストリートジャーナル』紙にかなり詳しい記事があった。ま、オリンパス事件以来、
日本のビジネスの隠蔽体質が注目されているから。何でもリーマンショックの後の2009年頃に
「利益が安定しすぎていておかしい」と警告を発したアナリストがいたそうだけど、「有名な」とこ
ろじゃなかったから、お金を預けていた企業は信じなかったんだろうな。それとも、株価も景気も
不安定な状況で「安定した」利益を得ていることに安心したのかな。年金の掛け金を払っていた
人たちはどうなるんだろう。中小企業で働く人たちが額に汗して稼いで、老後のために積み立て
たお金なのに。
世界第3位の豊かな国でひっそりと餓死する人がいる。各国の新聞も「kodokushi」という日本
語の表現をそのまま使って報道していた。かって「karoshi」という日本語がメディアをにぎわした
けど、日本語をそのままローマ字で表記するのはその国にそういう現象を表現する言葉がない
から。東京圏のようなカナダの全人口に匹敵するくらいの人たちがひしめき合っているところで、
電気やガスを止められたことや病気や飢えを誰にも知られずに死ぬ人がいて、それを何ヵ月も
誰も気づかずにいる。部屋で死なれては迷惑だからと孤老に部屋を貸したがらない風潮さえあ
るという。福祉担当の役人は「プライバシーの壁に阻まれた」、薄々でも問題に気づいていた人
たちも「プライバシーに立ち入るのは・・・」。ひょっとして他人のプライバシーを自分が見たくない
ものを見ないですませるための壁にしているんじゃないのかな。臭いものに蓋って言うから。
母親と幼い子供が死んだ事件では、障害児を持った母親が福祉の助けを求めなかったのは日
本に「恥の文化」があるからだと言った評論家?がいた。恥じることを美徳とするのが日本文化
だということはわかっているけど、それは自分に対して恥ることじゃないのかな。母親が障害児
を持った自分を恥じていたということなのか、障害を持った子供のことを恥じていたのか。漢字を
見るとわかるけど「恥」は「心の耳」、つまり自分の「良心の耳」だと思うんだけど、日本の美徳と
される「恥の文化」は世間が見たくないものを見せるなかれということのようで、だから助けを求
める(つまり見たくないものを見せる)人には「恥を忍ぶ」という屈辱(罰)を与えるのかもしれない
な。あんまり人に優しいようには思えないけど。
母親が自分自身を恥じるのは勝手だけど、障害を持って生まれてしまった子供のことを恥ずか
しいと思うのは、子供の人格を否定することではないかと思う。出かけるのに着るものがない言
うのと変わらないように思う。ほんとうに着るものがないんじゃなくて、自分が恥ずかしくない(つ
まり他人の目に映える)ものがないということが多い。最近の小町にもファッション感覚ゼロの友
人と一緒にいるところを知り合いに見られたら恥ずかしい、どうしたら友人を変えられるかという
相談があったけど、これも友人は着る物と同じで自分が他人の目に映えるための小道具でしな
くて、だから自分が世間に対して恥ずかしいと、見事に友人の人格を否定している。理解しがた
い心理だけど、小町横町にはそういう住人がひしめきあっているから、やはり文化の影響かな。
いつの時代か誰かが元々美徳であった文化を都合がいいように定義しなおしたのかもしれない。
見たくないものを見ないで済む、つまり問題を隠蔽すれば対応の努力をせずに済むんだから、
こんなに楽なことはない。
他人が窓にカーテンをしていないために家の中が見えてストレスになるという感覚も、ワタシに
は理解できないけど、小町横町には多数派なのかと思うくらいたくさんいるらしい。人間、意識し
ていないものは見えないんだから、見えるということはつまり見ているということじゃないのかな。
見てストレスになるんだったら見なければいいのにと思うけどね。そりゃ素っ裸でいるのが見え
て不快だというのならまだわかるけど、自宅で日常生活を営んでいる人たちに向かって、見える
のがストレスになるから見えないようにしろというのは、俗に言う逆切れってやつじゃないのかな。
「私がストレスを感じなくて済むようにカーテンの陰に隠れて暮らせ」、つまり「私」の視界から消
えろと言っているようなものだと思う。きっと自分の視界のどこまでが自分のスペースなのか、つ
まり、どこまでが自分でどこからが他人なのかがわかっていない人なんだろうな。
自分と他人の区別を心理学ではバウンダリー(境界線)と言うけど、自分の境界線が見えないと
いうことは「自分」が果てしなく漠然と続いているような感じなのかな。そういう状態では漠然とし
た不安感が起こってもおかしくはないかもしれないな。常に漠然と不安を感じているところへ他
人が視野に入ってくると、その他人はその人自身のスペースにいるだけなのに、視野の持ち主
はその他人を別のスペースにいる人格として認識できないから自分のスペースを侵犯されたよ
うに感じてストレスになってしまうのかもしれないな。漠然とした不安を呼び起こすものは「見せ
るな」、「隠せ」、心の耳に不快に響くものは「聞かせるな」、「黙れ」という「恥の文化」を作り上げ
たのは、いつの世だったのか知らないけど、あんがいそういう人たちだったのかも。
それじゃあ人と人の間の空気は薄くなるだろうし、絆も切れてしまうだろうな。中小企業で懸命に
働いて、老後のために払い込んできた年金を知らない間にごっそりなくされた人たちに飢えて孤
独死するような運命が待っていないことを祈るばかり・・・。
「雪」だったけど、たぶんバンクーバーで一番気候温暖な我が家のあたりでは、カレシによると
「大きいのが3枚か4枚」。もう来週は弥生3月なんだから。弥生って草木が芽を出して茂るとい
う意味じゃなかった?
中小企業の年金を運用していた会社が2千億円も無くしていたという嘘みたいな本当の話。運
用に失敗して損が出て、それを客に知られないうちに取り戻そうあがいているうちに2千億円が
消えたということかな。日本の新聞サイトではほんの数行の電報文みたいな記事しかなかった
けど、『ウォールストリートジャーナル』紙にかなり詳しい記事があった。ま、オリンパス事件以来、
日本のビジネスの隠蔽体質が注目されているから。何でもリーマンショックの後の2009年頃に
「利益が安定しすぎていておかしい」と警告を発したアナリストがいたそうだけど、「有名な」とこ
ろじゃなかったから、お金を預けていた企業は信じなかったんだろうな。それとも、株価も景気も
不安定な状況で「安定した」利益を得ていることに安心したのかな。年金の掛け金を払っていた
人たちはどうなるんだろう。中小企業で働く人たちが額に汗して稼いで、老後のために積み立て
たお金なのに。
世界第3位の豊かな国でひっそりと餓死する人がいる。各国の新聞も「kodokushi」という日本
語の表現をそのまま使って報道していた。かって「karoshi」という日本語がメディアをにぎわした
けど、日本語をそのままローマ字で表記するのはその国にそういう現象を表現する言葉がない
から。東京圏のようなカナダの全人口に匹敵するくらいの人たちがひしめき合っているところで、
電気やガスを止められたことや病気や飢えを誰にも知られずに死ぬ人がいて、それを何ヵ月も
誰も気づかずにいる。部屋で死なれては迷惑だからと孤老に部屋を貸したがらない風潮さえあ
るという。福祉担当の役人は「プライバシーの壁に阻まれた」、薄々でも問題に気づいていた人
たちも「プライバシーに立ち入るのは・・・」。ひょっとして他人のプライバシーを自分が見たくない
ものを見ないですませるための壁にしているんじゃないのかな。臭いものに蓋って言うから。
母親と幼い子供が死んだ事件では、障害児を持った母親が福祉の助けを求めなかったのは日
本に「恥の文化」があるからだと言った評論家?がいた。恥じることを美徳とするのが日本文化
だということはわかっているけど、それは自分に対して恥ることじゃないのかな。母親が障害児
を持った自分を恥じていたということなのか、障害を持った子供のことを恥じていたのか。漢字を
見るとわかるけど「恥」は「心の耳」、つまり自分の「良心の耳」だと思うんだけど、日本の美徳と
される「恥の文化」は世間が見たくないものを見せるなかれということのようで、だから助けを求
める(つまり見たくないものを見せる)人には「恥を忍ぶ」という屈辱(罰)を与えるのかもしれない
な。あんまり人に優しいようには思えないけど。
母親が自分自身を恥じるのは勝手だけど、障害を持って生まれてしまった子供のことを恥ずか
しいと思うのは、子供の人格を否定することではないかと思う。出かけるのに着るものがない言
うのと変わらないように思う。ほんとうに着るものがないんじゃなくて、自分が恥ずかしくない(つ
まり他人の目に映える)ものがないということが多い。最近の小町にもファッション感覚ゼロの友
人と一緒にいるところを知り合いに見られたら恥ずかしい、どうしたら友人を変えられるかという
相談があったけど、これも友人は着る物と同じで自分が他人の目に映えるための小道具でしな
くて、だから自分が世間に対して恥ずかしいと、見事に友人の人格を否定している。理解しがた
い心理だけど、小町横町にはそういう住人がひしめきあっているから、やはり文化の影響かな。
いつの時代か誰かが元々美徳であった文化を都合がいいように定義しなおしたのかもしれない。
見たくないものを見ないで済む、つまり問題を隠蔽すれば対応の努力をせずに済むんだから、
こんなに楽なことはない。
他人が窓にカーテンをしていないために家の中が見えてストレスになるという感覚も、ワタシに
は理解できないけど、小町横町には多数派なのかと思うくらいたくさんいるらしい。人間、意識し
ていないものは見えないんだから、見えるということはつまり見ているということじゃないのかな。
見てストレスになるんだったら見なければいいのにと思うけどね。そりゃ素っ裸でいるのが見え
て不快だというのならまだわかるけど、自宅で日常生活を営んでいる人たちに向かって、見える
のがストレスになるから見えないようにしろというのは、俗に言う逆切れってやつじゃないのかな。
「私がストレスを感じなくて済むようにカーテンの陰に隠れて暮らせ」、つまり「私」の視界から消
えろと言っているようなものだと思う。きっと自分の視界のどこまでが自分のスペースなのか、つ
まり、どこまでが自分でどこからが他人なのかがわかっていない人なんだろうな。
自分と他人の区別を心理学ではバウンダリー(境界線)と言うけど、自分の境界線が見えないと
いうことは「自分」が果てしなく漠然と続いているような感じなのかな。そういう状態では漠然とし
た不安感が起こってもおかしくはないかもしれないな。常に漠然と不安を感じているところへ他
人が視野に入ってくると、その他人はその人自身のスペースにいるだけなのに、視野の持ち主
はその他人を別のスペースにいる人格として認識できないから自分のスペースを侵犯されたよ
うに感じてストレスになってしまうのかもしれないな。漠然とした不安を呼び起こすものは「見せ
るな」、「隠せ」、心の耳に不快に響くものは「聞かせるな」、「黙れ」という「恥の文化」を作り上げ
たのは、いつの世だったのか知らないけど、あんがいそういう人たちだったのかも。
それじゃあ人と人の間の空気は薄くなるだろうし、絆も切れてしまうだろうな。中小企業で懸命に
働いて、老後のために払い込んできた年金を知らない間にごっそりなくされた人たちに飢えて孤
独死するような運命が待っていないことを祈るばかり・・・。