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日・月・剣ではなく、日・月・星ではないか?・・2 続☆45   2021-07-11

2023年11月16日 | 続☆歴史の中の「経緯」

天津甕星-古事記と日本書紀の神様 | 日本の神様辞典 (yaoyoro.net)

天津甕星

アマツミカボシ

  • 香香背男(かかせお)
  • 天香香背男(あめのかかせお)

古事記には登場せず、日本書紀における「葦原中津国平定」にのみ登場する神。
星神、また悪神と明記される異例な存在。

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天津甕星は、太陽神とされる天照大御神(アマテラス)、月の神とされる月読命(ツクヨミ)をのぞけば、日本神話で唯一”星神”と明記される非常に珍しい神様です。

神名は、「天の甕(水瓶)のように大きな星」あるいは「天の神威ある偉大な星」の意味と考えられています。

別名の「天香香背男」は、「天上で輝いていらっしゃる男性」と解釈できます。

ギリシャ・ローマ神話や中国の神話など、外国の神話伝説に比べて、明確な星にまつわるお話が極端に少ないという事が日本神話の謎の一つです。しかし、この神の存在は、太陽、月と昔から私たちにとって最も身近な星以外で、星の信仰が日本にもあった可能性を示唆するとても興味深いものです。

何の星の神なのか、はっきりとした事はわかっていませんが、漠然とただ星の神、金星、シリウス、流星、火星などが考えられています。金星説については後述します。

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日本書紀本文での活躍です。

武甕槌神(タケミカヅチ)・経津主神(フツヌシ)の二神は草木や石に至るまでことごとく平らげたが、最後まで従わなかったのが星神・香香背男(カカセオ)だった。そこで二神は”倭文神”・建葉槌命(タケハヅチノミコト)を派遣してこれを服させた。とあります。倭文神は、”しとりがみ”などと読み、織物の神とされています。

剣、戦の神様では勝てなかった香香背男(かかせお)が、織物の神に服従させられるというのも不思議です。

日本書紀の一書(第二)では、武甕槌神(タケミカヅチ)・経津主神(フツヌシ)の二神が天降る際、まずはじめに平らげるべき相手として、この神の名前を、天つ神に報告します。

「天に悪い神がいます。名を天津甕星(あまつみかぼし)といいます。またの名は、天香香背男(あめのかかせお)です。どうかまずこの神を除いて、それから降って、葦原中津国を平定させて頂きたい。」

-宇治谷孟「現代語訳 日本書紀」(講談社学術文庫)

一書では、天津甕星(アマツミカボシ)を征するのは、この神を奉るという”斎主(いわい)の大人(うし)”という神です。

天津甕星(アマツミカボシ)も名前に「天」があり、天照大御神(アマテラス)などと同じ、天上の神のはずですが、彼らとは敵対する関係にあります。

天照大御神(アマテラス)らとは別の系統があり、そちらに属していたのかもしれません。

別系統の天つ神の存在を思わせるほかの神話としては、天孫・邇邇芸命(ニニギノミコト)とは異なる降臨、大阪・交野市の磐船神社に伝わる饒速日命(ニギハヤヒノミコト)の降臨神話があげられます。

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日本書紀ではもっぱら、邪神として描かれる天津甕星(あまつみかぼし)ですが、大甕倭文神社(茨城県日立市)では少し違った伝承があります。

大甕倭文神社(茨城県日立市)の社伝や地域の伝承では、天津甕星(アマツミカボシ)はこの辺り一帯を治めていた元々の統治者として伝わっています。

そこへ高天原から武甕槌神(タケミカヅチ)・経津主神(フツヌシ)が遣わされますが、自分の国を侵させてなるものかと、天津甕星(アマツミカボシ)は岩に変化して戦い、見事に退けます。

ところが、調子づいた天津甕星(アマツミカボシ)が変化した岩はどんどん大きくなり、高天原にまで届く勢いでした。

おそれをなした天つ神ですが、靜の里(茨城県那珂市瓜連)で機織を生業していた建葉槌命(タケハヅチノミコト)が、これを見て「無礼だ!」と怒り、武装して金の靴を履いて岩を蹴り砕いたといいます。

岩の破片は三方に飛び散り、根っこの部分が、大甕倭文神社(茨城県日立市)の「宿魂石(しゅくこんせき)」という岩山になったと伝えられています。

日本書紀とは違い、建葉槌命(タケハヅチノミコト)は武力で天津甕星(アマツミカボシ)を制圧しています。

別のお話では、武甕槌神(タケミカヅチ)が討ち取りにやってきた際、元々ここを治めていたみかの原の神はそうとは知らず、ご馳走をふるまいもてなします。しかし自分を殺そうとしていることを知り、その場から逃げ去ります。武甕槌神(タケミカヅチ)は後を追い、矢を放ちますが、風にもまれて命中しなかったためその場所を「もめや」といい、いつの間にか”茂宮”という地名になった。

また、矢を放つと今度は命中して、みかの原の神が倒れ、しとめたので”留”という地名になった。

縛り上げて、久慈川の河口まで下り、武甕槌神(タケミカヅチ)が「最期に言い残すことはあるか」と聞くと、「なにも言い残すことはない」とみかの原の神と言い、大笑いして首を討たれたので、その場所はなまって”大洗”という地名になった、という地名由来説話が残っています。

倭文神社(静岡県富士宮市)も同様、当社が鎮座する星山一帯を元々治めていた神様として伝えられており、悪しき神という表現は出てきません。

天津甕星(アマツミカボシ)を比定する星として、平田篤胤をはじめ、金星と考える説があります。

「天上の甕(水瓶)のように大きな星」あるいは「天上の神威ある偉大な星」、「天上で輝いていらっしゃる男性」と推測される名前で、高天原を騒がせる強大な神なので、天上に輝く星のなかでも、とりわけ大きく強く輝く星であると考えられます。

天球上の星で一番光輝くのが金星であり、太陽、月の次に明るい星です。

昼間でも観測でき、「明けの明星」「宵の明星」という別名を持ち、日本でも古くから文献上でもその存在が確認できます。

この「明けの明星」「宵の明星」というように、一番光度が強いということは、日暮れであれば一番最初に目立ち、夜明けであれば一番最後まで光を放ちます。

これが、天つ神でありながらも高天原に最後まで従わない神、または最初に平らげるべき相手として登場するゆえんであると考えられます。

日本にも強い影響を与えた古代中国の陰陽五行説においては、昼間に観測される金星は、「太白天を経れば天下革まり、民、王を更ふ」と、太陽(正当な君主)のほかにもそれに匹敵する者がいる、君主の地位を脅かす存在の凶兆とされたようです。

日本書紀で悪しき神として描かれるのは、こういった陰陽五行説の影響が考えられます。

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ずぼっと、もらってきてしまいました。

かなり、重要なことが書かれているのです。

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第二の一書では天津神となっている。経津主神と武甕槌命が、まず高天原にいる天香香背男、別名を天津甕星という悪い神を誅してから葦原中国平定を行うと言っている

鹿島神宮や静神社の社伝によれば、武甕槌命は香島(723年に鹿島と改名)の見目浦(みるめのうら)に降り(現在の鹿島神宮の位置)、磐座に坐した(鹿島神郡の要石とも)。天香香背男は常陸の大甕(現在の日立市大甕、鹿島神宮より北方70km)を根拠地にしており、派遣された建葉槌命は静の地(大甕から西方約20km)に陣を構えて対峙した。建葉槌命の陣は、茨城県那珂郡瓜連(うりづら)町の静神社と伝えられる

「カガ(香々)」は「輝く」の意で、星が輝く様子を表したものであると考えられる。神威の大きな星を示すという

平田篤胤は、神名の「ミカ」を「厳(いか)」の意であるとし、天津甕星は金星のことであるとしている。

星や月を神格化した神は世界各地に見られ、特に星神は主祭神とされていることもある。 しかし、日本神話においては星神は服従させるべき神、すなわち「まつろわぬ神」として描かれている。これについては、星神を信仰していた部族があり、それが大和王権になかなか服従しなかったことを表しているとする説がある。

全国の星神社星宮神社の多くは天津甕星を祭神としている。

天津甕星を服従させた建葉槌命(タケハヅチノミコト)は、天羽槌雄神と同一視されることもある

茨城県日立市大甕神社は、建葉槌命を主祀神とする(一説には素戔嗚尊とも)

同神社伝では、甕星香々背男(天津甕星)は常陸国の大甕山に居を構えて東国を支配していたとしている。

大甕神社の神域を成している宿魂石は、甕星香々背男が化したものと伝えられている。

葦原中国平定に最後まで抵抗した神ということで建御名方神と同一神とされることもあり、

また、神仏習合の発想では北極星を神格化した妙見菩薩の化身とされることもある。

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静神社ーー織姫。

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倭大物主櫛甕魂命(やまとのおおものぬしくしみかたまのみこと)

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漢字辞典の説明によると、もともと人体の「腹と反対側」は「」という字で示していた。(「北」という字は、人を後ろ側から見た様子を描いた象形文字である)。

だが、(中国では)王がひとと会う時は南を向いて座る習慣があったので、と反対の方角を指すために、「王の後ろ側(腹の反対側)」という意味で「北」の字がつかわれるようになった。

やがて「北」の字は、腹の反対側を指すためよりもむしろ方角・方位を指すために使われることのほうが多くなってしまい、腹の反対側を指すための字を新たに作る必要が出てきてしまった。

身体に関係することを指す字を作りたいわけなので、「(月)にくづき」を足して「背」という文字が作られた、とのことである。(かくして、もともと腹の反対側を意味していた「北」の字のほうは、(ますます)方角をばかりを指すようになった、というわけである)

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せ‐の‐きみ【背の君兄の君/夫の君】. 「せ(兄)」の敬称

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  • 天香香背男(あめのかかせお)ーかか(蛇)-天のかか(天照?)の「兄」「夫」=スサノオ

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ソプデト(Sopdet)
"鋭いもの"-スピカ?
ナイルの氾濫を告げる星の神、
豊穣の女神

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イシス(Isis)
農耕の神、豊穣神
偉大なる女魔法使い、
王座を守るもの

オシリス(Osiris)
死後の再生と生命を象徴。
冥界の王。頭には「白冠」、
王勺と殻さお、ジェド柱と
ウアス杖を持つ。

(オシリス神話)イシスは兄オシリスと結婚していたが、オシリスは弟セトに殺されてしまう。 セトによってバラバラにされた夫の体を拾い集め、復活させて息子ホルスを身ごもるが、オシリスは生者として地上にとどまることは出来ず、冥界に下って死者の世界の王となった。夫の死後、イシスは息子ホルスが成長するまで守り、ホルスの成長後は、セトに奪われた地上の王位を息子が取り戻すために力を尽くした。

セト(Seth)
荒ぶる砂漠の神。
暴風と雷鳴を象徴とする。

ホルス(Horus)
力強い猛禽類ハヤブサを神格化。
ラーの息子とされる。

クヌム(Khnum)
羊の頭を持つ神、生命創造と洪水管理。
ろくろを回し粘土に魂を吹きこみ人間を作る。

後代にはエジプトの主神となったアモンのように出自がはっきりしないものもある。またギリシア人によってアフロディテと同一視された技芸神トトのように、原始の段階を抜け出たエジプト文化を反映している神もときにはみられ、しばしば壮大な神殿において厚く尊崇されていた。メンフィスを中心に崇拝されたプタハ神もこれに属し、工芸の神としてギリシア人にヘファイストスと同一視されたが、聖牛アピスをはじめとする動物崇拝もかなり広範囲にわたってみられる。

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おそらく、書記は、何かを隠している。

おまけに、古事記のほうは削除されていると思われる。

エジプト系(シュメール?)ー12支族?渡来人により、

どこかの?日本の古代王朝が塗り替えられたとみなせる。

仮に

阿蘇(豊国)王朝(スサノオ)から、と、考えると

スサノオを悪者にして(豊国天照も惨殺?)ー国を奪い、王位を奪い・・・

エジプト天照の誕生・・・

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最近

武甕槌神(タケミカヅチ)が饒速日だという話をよく見かけます。

が、

天香香背男(あめのかかせお)ーかか(蛇)-天のかか(天照?)の「兄」「夫」=スサノオ

スサノオー豊受の子供が饒速日

スサノオー天照?(豊国天照)の子供がニニギ

と、考えると

饒速日が天津甕星をやっつけるのは、おかしなことです。

同じく、

饒速日がタケミナカタをやっつけることになり・・・

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いったい、どうなってるんでしょうか?

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そして、この天津甕星のことは、書記にし書かれていない。

つまり、出雲王朝(スサノオ)を

やっつけたことを、隠している。

おまけに、饒速日も恭順したことにしているし・・・

 

天津甕星(アマツミカボシ)が変化した岩はどんどん大きくなり、高天原にまで届く勢い

(なにか、出雲大社をかさねている気がする)

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が、スサノオ・出雲大社ともに、ネームヴァリューが染みわたっているので

消すわけにいかない。

もしくは、すでに、3貴神は知れ渡っていた?

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じつは、スサノオが星神です。とは、かけない。

へいへい、実は、****が、スサノオを殺しました。

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そして、王任三郎

鬼門と艮(ウシトラ)の金神 – winisher.com

一般的な日本人であれば、毎年、節分の頃になると、「鬼は外!福は内!」と掛け声を上げながら豆まき行事を行なうかと思います。実はこの行為が、「地球を創造した正神への呪詛」であることを知る人は少ないと思います。

この正神のことを、かつて王仁聖師は『霊界物語』の中で、「国常立尊(くにとこたちのみこと)」と表現しました。日本の東北(艮)の地に追いやられ、呪詛によって封印されたことから、「艮(うしとら)の金神」とも言われます。

王仁聖師に言わせますと、正神であった国祖・国常立尊を陰謀によって追放し、艮の金神として呪詛をかけた集団こそ、中国北方に降り立った偽神・盤古大神であるということですから、この流れが古代の日本へも渡来してきて、大和朝廷を作り上げたであろうことは十分に考えられるのです。(私見では、盤古系の北朝、国祖系の南朝と理解しております。)

さらに大和朝廷(あるいは朝廷に雇われた陰陽師たち)は、風水の思想の中に、東北の方角を鬼門とする思想を植え付け、人々に忌み嫌われるように仕向けました。(風水、道教(陰陽道)の発祥の地である中国では、このような思想は見られないと言います。)

では、陰陽師たちは、国祖・艮の金神に対して具体的にどのような呪詛を仕掛けたのでしょうか?以下、『超訳 霊界物語―出口王仁三郎の「世界を言向け和す」指南書』(P89)から抜粋してみたいと思います。

「節分」の時期にまく豆は煎った大豆だが、煎った豆には芽が出ない。これは「もし煎った豆から芽が出るようなことがあったら、表に出てきてもいいよ」という呪詛なのである。

また、「節分の夜」に、「柊鰯(ひいらぎいわし)」と言って、柊の小枝と、鰯の頭を玄関の門口に吊るす習慣がある。これは柊の葉のトゲで、艮の金神の目を刺し、鰯の臭いで艮の金神が家の中に入って来られないようにするための呪詛である。

他にもまだある。「五節句」に行なう風習はみなそうだ。

まず「正月」 。門の前に立てる門松は、艮の金神の墓標である。赤白の鏡餅は、艮の金神の骨と肉を表す。飾り物の鞠(まり)は、艮の金神の頭、弓の的は、艮の金神の眼を表している。

また、3月3日の「桃の節句」では、蓬(よもぎ)の草餅を食べるが、あれは艮の金神の皮膚である。

5月5日の「菖蒲(しょうぶ)の節句」で食べる粽(ちまき)は、艮の金神のひげと髪である。

7月7日の「七夕」には素麺(そうめん)を食べるが、あれは艮の金神の体の筋を表す。

9月9日の「菊の節句」では、菊の酒(菊の花を浸した日本酒)を飲むが、あれは艮の金神の血である。

これらの風習は魔除けの呪詛が起源になっているのだが、その除こうとしている魔というのが、「鬼=艮の金神」なのだ。その艮の金神の神示から誕生した大本では、節分の豆まきでは、当然ながら「鬼は外」とは言わない。「鬼は内!福は内!」と言って豆をまく。

また、「注連縄」も使わない。注連縄は国祖(艮の金神)が表に出てこられないように、縄を張り巡らした結界が起源だからだ。神社などでは、ご神木の幹に必ずと言っていいほど注連縄が張られているが、大本のご神木には注連縄がない。

このように、国祖を封じ込めるための数々の呪詛が、日本の文化の中に風習として伝わっているのだ。

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鬼畜世界の様相を呈してきた。が、ついに明治25年節分の日、天の大神様(スサノオ)は
国祖の御霊を出口なおに降ろして「三千世界一度に開く梅の花、艮の金神の世になりたぞよ」
との託宣を下し、立て替え立て直しの御神業に着手された。
ちなみに、大本成立以前に出口なおが帰依していた、安政6年に開かれた金光教も金神を
万物守護の神「天地金乃神」と崇めている。このことから、なおの筆先を疑問視し、大本の教えは
金光教の教義の焼き直しではないかと、いぶかる向きもあるが、決してその様な事は無い。
国常立神は差し迫った国難に対処すべく、御自らの想いを託す事の出来る霊媒となる神の子、
すなわち出口なおを求めていたのだ。思えば、大本は国家権力によって大弾圧を受けたが、
これも国祖を封印した邪神のなせる業か。大本大弾圧の後、国常立神は岡本天明に一縷の望みを託し以下の神示(日月神示)を下した。
「国常立神もスサノオも大国主命も総て地(智)にゆかりのある神々は皆、九(光)と十(透)の世界に
居られて時の来るのをおまちになってゐたのであるぞ、地は智の神様が治らすのぞと知らして
あろうが、天運正にめぐり来て、千(智)の岩戸(言答)はひらかれて、これら地(智)にゆかりのある
大神達が現れなされたのであるぞ、これが岩戸開きの真相であり、誠を知る鍵であるぞ」
地にゆかりのある大神達は、全て邪神によって封印された神であり、国津神である。
九と十の世界とは謎だが、伊勢神宮内宮の鰹木は十本で外宮は九本である事と、
奇妙に一致する。今後の解明が待たれよう。目下、世界では神々の争いが現界に波及し混迷の度を増してきている。

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