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吉備津神社・・・1     続々☆歴史の中の「経緯」★16

2024年03月29日 | 続々☆歴史の中の「経緯」

備後一宮の吉備津神社

主祭神  大吉備津彦命
 
相殿神 大日本根子彦太瓊命
    細比売命
    稚武吉備津彦命
 

吉備津神社本殿内陣中央には、主祭神を大吉備津彦命、本殿向かって右側には相殿神に大日本根子彦太瓊命(孝霊天皇)と、細比売命を、左側には稚武吉備津彦命をお祀りしています。

大吉備津彦命は、またの名を五十狭芹彦命(いさせりひこのみこと)といい、第七代孝霊天皇の皇子で、四道将軍の一人で山陽道を平定され、吉備津開国之神として崇敬されています。

大日本根子彦太瓊命は、第七代孝霊天皇で、大吉備津彦命や稚武吉備津彦命の父君にあたります。

細比売命は、孝霊天皇のお后様にあたり、稚武吉備津彦命は、大吉備津彦命の弟君で、ともに吉備を治められました。また、吉備臣の祖とされています。

*社伝では平安時代の初めの大同元年(806年)、備中吉備津神社より御分霊を賜り、備後国品治郡宮内(現在の福山市新市町宮内)の地に創建されたとされ、備後国の一宮として国中より尊崇を集めました。*

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大日本根子彦太瓊命(孝霊天皇)

え?という思いだった。

むろんのこと 806年創建とならば

後乗せ・・的な話(分霊)になってしまうだろうけど

孝霊天皇は 第七代天皇とある。

?がここで始まった。

それって 欠史八代・・の天皇じゃないか・・・

***欠史八代***

神武天皇に始まる古代の天皇のうち、紀元前6世紀前期~紀元3世紀半ば頃までに在位したとされる2~9代目天皇の事。

系図や古事記、日本書紀といった記録には系譜が記されているが、その多くが昭和天皇の64年すらも凌ぐ超長期間在位していた(それこそ百年以上いた人もいる)割に逸話や業績は何も無い。


ただし神武天皇の即位から崇神天皇(10代目)に至るまでの時期、国内は特に有事もなく結構平和に治まっていた。また当時の大和朝廷は「奈良盆地の一角に拠点を置く」程度の組織でしかなかったため、特筆すべき事跡が伝わらないのも仕方ない。

そして実年代は、神武天皇は紀元1世紀初め、10代崇神天皇は3世紀前半とみられており、2代綏靖天皇から9代開化天皇に至る8代は、その間の在位と推定されている。

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孝霊天皇(こうれいてんのう、旧字体:孝靈天皇、孝安天皇51年 - 孝霊天皇76年2月8日)は、日本の第7代天皇(在位:孝霊天皇元年1月12日 - 孝霊天皇76年2月8日)。『日本書紀』での名は大日本根子彦太瓊天皇。欠史八代の一人で、実在性については諸説ある。

略歴
日本足彦国押人天皇(孝安天皇)の皇子。母は皇后で天足彦国押人命の娘の押媛(忍鹿比売)。兄弟として『古事記』では同母兄に大吉備諸進命の名が見える。26才で皇太子となる。

父帝が崩御した年の12月、黒田廬戸宮(くろだのいおどのみや)に都を移す。それまでの山裾にあった宮と異なり大和盆地の中央に位置する。翌年の1月に即位。即位2年、磯城県主(または十市県主)大目の娘の細媛命を皇后とし、彦国牽尊(後の孝元天皇)を得た。また春日千乳早山香媛、倭国香媛らを妃にしている。倭国香媛との間には御間城天皇(崇神天皇)の時代に四道将軍となった彦五十狭芹彦命、疫病や反乱を収めるのに重要な役割を果たした倭迹迹日百襲姫命を得た。即位76年、崩御。


大日本根子彦太瓊天皇(おおやまとねこひこふとにのすめらみこと) - 『日本書紀』
大倭根子日子賦斗邇命(おおやまとねこひこふとにのみこと) - 『古事記』
漢風諡号である「孝霊」は、8世紀後半に淡海三船によって撰進された名称とされる。

鬼住山の鬼
鳥取県伯耆町溝口には孝霊天皇にまつわる日本最古の鬼退治の伝説がある。楽楽福神社(ささふくじんじゃ)の由緒縁起によると昔、近くの鬼住山(きずみやま)を根城にして暴れ回っていた鬼の集団があった。この地を訪れた孝霊天皇は南の笹苞山(さすとやま)に陣を張った。まず笹巻きの団子を三つ置いて鬼の兄弟の弟の乙牛蟹をおびき出し矢で射殺した。次に笹の葉を刈り取って山積みして風で飛ばし、兄の大牛蟹たちの体にまとわりつかせたうえで火を放った。大牛蟹は蟹のように這いつくばって命乞いをした。大いに喜んだ里人たちは笹の葉で屋根を葺いた神社を作り、これが楽楽福神社の始まりと言うことである。天皇はこの地に崩御するまで留まったともいう。

徐福来日
14世紀の南北朝時代に成立した『神皇正統記』によると、秦の始皇帝が長生不死の薬を日本に求めたのが孝霊天皇の治世だったとある。日本が海外と関わりを持ったのは神功皇后の三韓征伐以後のはずとしながらも、ありえない話ではないとしている。1471年に李氏朝鮮で書かれた海東諸国記にも孝霊天皇即位72年壬午、秦の始皇帝に遣わされた徐福が仙福(不老不死の薬)を求めて紀伊まで至り、死後に土地の人から神と崇められ祀られたとある。ただし孝霊天皇即位72年は史記で徐福の記事がある始皇帝28年の翌年を機械的に当てはめただけのものである。富士吉田市の『宮下家文書』にも同様の記述があるが『宮下家文書』はいわゆる「古史古伝」に含まれる部類の書物であり、文体・発音からも江戸後期から近代の作で俗文学の一種と評されており、記述内容についても正統な歴史学者からは認められていない。

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そして もうひとつ、五十狭芹彦命

大吉備津彦命は、またの名を五十狭芹彦命(いさせりひこのみこと)といい、第七代孝霊天皇の皇子

いさせりひこのみこと

この名前が 「いそすさり」のように思えてしまった。

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歴代天皇と主な出来ごとのまとめ - ウガヤフキアエズ王朝実在論 (jimdofree.com)

第28代・アメノイソリエラキノオーいそすさり(アザラシ?)の群れが現れ誕生を祝う

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ここで、フリーズしてしまいそうな自分になるが

そうはいかない。

*社伝では平安時代の初めの大同元年(806年)、備中吉備津神社より御分霊を賜り、備後国品治郡宮内(現在の福山市新市町宮内)の地に創建されたとされ、備後国の一宮として国中より尊崇を集めました。*

と、あるのだから

備中 吉備津神社を調べなきゃ・・冷凍パックになってしまうよ!!

 


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