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★JR東日本青森運輸区のF君の結婚式に出席する。F君は平成13年八戸運輸区で採用になり、緑の窓口→車掌→そして現在、運転手として日々、鉄路上で奮闘している。
◆やはり、ふと気がついたら、わたしはわたしのうちで、みなみ退場(3/31午後12時=午前0時)後の「文体」について考えている(^_^)v。
「文体」というと、昨年末の「電撃の悟りとしての文体論」がある。
復習のために一部をコピーする。
まず、こういう問いかけからスタートしている。
(1)今、わたしは、ひょっとして、現任校(みなみ中)の「マニフェスト」を「断念」するという手続きを経たうえで、その後の思考を記述しようとしているのだろうか? そして、そのための「文体」を求めているのだろうか?
(2)いや、それとも、新撰組の土方みたいに、土壇場のタイムリミットまで「マニフェスト」実現に向けて格闘し、その「悪戦苦闘」ぶりを記述しようとして、そのための「文体」を求めているのだろうか?
このときの「決着」は次のとおりだ。
(1)と(2)が、漱石の則天去私のように、強い電撃に打たれたように、わたしのなかで合体・融合した。
アウフヘーベンしたのではない。
合体・融合だ。
アウフヘーベンは理屈だが、合体・融合は悟りだ。
電撃の悟りを、理屈で説明することはむずかしい(^_-)ので、結論だけをコンパクトに述べる。
わたしのいう「文体」というのは、願望の「断念」が、絶対の条件になる。
願望の「断念」を強いられることを前提としていないものは、文体ではない。
その断念の上に、願望の実現に向けて格闘する……悪戦苦闘する……その「軌跡」が「文体」だ。
これが文体論の結論だ。
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★新郎F君への応援歌を熱唱する青森運輸区職員たち。
◆この文体論の定義は、現在、悔いが大きすぎて、いわば、(ま、かなり用法的に変だが……)「悔い返し」の心境にあるわたしにはピッタリで、コピーしながら、今、変更する必要はないと判断している。
だから、冒頭で、「みなみ退場(3/31午後12時=午前0時)後の文体について考えている(^_^)v」といったのは、「文体」というより、むしろ「作調」といったほうがいいのかもしれない。
作調=話ことばでは、話し手の態度、あるいは姿勢が声の調子、語りの調子になって表れる。書きことばにも、同じように、そういう調子がある。記述の態度、あるいは姿勢といっていい。この記述の態度・姿勢が「作調」だ。
今、イメージしている、「みなみ退場(3/31午後12時=午前0時)後の作調(^_^)v」を列挙してみると……。
(1)断念(←ある意味では「絶望」)の上に、願望の実現に向けて格闘する……悪戦苦闘する、切実&悲壮感を伴う作調
(2)短歌的・説明的な分析&批評ではなく、俳句的・飛躍的(←ある意味で、独断・妄断&偏見&ひとりよがり)な作調(江藤淳氏の文芸批評のような……<(_ _)>)
(3)報道記者が現地から実況放送しているようなライブ感あふれる作調
(4)星図を見ながら天体を観測しているような透明感あふれる作調
(5)語る過程で派生してくる枝葉末節の事項をいちいち説明するという、あきれてしまうようなくどさと軽薄さが充満した作調
もちろん、この(1)~(5)を融合・包括した作調ということではない。
今のところは、一応、(1)と(2)を主調音にする。
(3)(4)(5)はケースバイケース、ポンポンポンと渡り歩いていく……というようなイメージで考えている。
もう少しいえば、実は、わたしは(3)(4)(5)が苦手なのだ。
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◆昨日、玄関灯のことで、「09年度(4/1~)以降のことは、頭のてっぺんから足のつま先まで、一切考えない……と言いながら、例外的に、玄関灯の電球を取り替えることだけを考えていたのは、なぜだろうか?」と自分自身に問いかけ、その答えを「蟄居の構えの象徴……」とかポツリポツリと書きながら、あっ、これにまちがいない……と言い切れる、ある作品に思い至った。(こういう発見があるから書くことはおもしろい……。)
★
9時頃、わたしはその村から雪明かりのした谷陰をひとりで帰ってきた。
そうして最後の枯木林に差しかかりながら、わたしはふとその道傍に雪をかぶって一塊にかたまっている枯藪の上に、どこからともなく、小さな光がかすかにぽつんと落ちているのに気がついた。
こんなところにこんな光が、どうして射しているのだろうといぶかりながら、そのどっか別荘の散らばった狭い谷じゅうを見まわして見ると、明かりのついているのは、たった一軒、確かにわたしの小屋らしいのが、ずっとその谷の上方に認められるきりだった。
……「おれはまあ、あんな谷の上にひとりきりで住んでいるのだなあ」とわたしは思いながら、その谷をゆっくりと登りだした。
「そうしてこれまでは、おれの小屋の明かりがこんな下のほうの林の中まで射し込んでいようなどとはちっとも気づかずに。ごらん……」とわたしは自分自身に向かって言うように、「ほら、あっちにもこっちにも、ほとんどこの谷じゅうをおおうように、雪の上に点々と小さな光の散らばっているのは、どれもみんなおれの小屋の明かりなのだからな。……」
やっとその小屋まで登りつめると、わたしはそのままベランダに立って、いったいこの小屋の明かりは谷のどのくらいを明るませているのか、もう一度見てみようとした。
が、そうやって見ると、その明かりは小屋のまわりにほんのわずかな光を投げているにすぎなかった。
そうしてそのわずかな光も小屋を離れるにつれてだんだんかすかになりながら、谷間の雪明かりとひとつになっていた。
「なあんだ、あれほどたんと見えていた光が、ここで見ると、たったこれっきりなのか」とわたしはなんだか気の抜けたようにひとりごちながら、それでもまだぼんやりとその明かりの影を見つめているうちに、ふとこんな考えが浮かんできた。
「……だが、この明かりの影の具合なんか、まるでおれの人生にそっくりじゃないか。おれは、おれの人生のまわりの明るさなんぞ、たったこれっばかりだと思っているが、ほんとうはこのおれの小屋の明かりと同様に、おれの思っているよりかもっともっとたくさんあるのだ。そうしてそいつたちがおれの意識なんぞ意識しないで、こうやって何気なくおれを生かしておいてくれているのかもしれないのだ……」
★
◆ここまで読んでくださった方にクイズです。
この作者はだれで、なんという作品でしょうか?σ('┰~ )
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