職員室通信・600字の教育学

小高進の職員室通信 ①教育コミュニティ編 ②教師の授業修業編 ③日常行事編 ④主任会トピックス編 ⑤あれこれ特集記事編

柳橋。JR八戸線鉄橋。新湊橋。湊橋。これらを、垂直に、垂直に、突き抜けて、海に出ると、屋体崩しが

2008-06-23 19:12:43 | Weblog

      

      

★2次試験に向けて昼休み特訓学習会はじまる

◆職員朝会のコメント。
〈コメント〉
 今週はテスト週間。
 意欲も含め、質の高い学力を、みなみの総力をあげて、集中的につける月・火・水……、あるいは、月・火・水・木……と考えている。
 ビジネスの世界で、よく262の原則ということがいわれる。
 ま、それにあてはめていうと、上の20%は、やれといわれなくてもやる。やるなといってもやる。
 次の60%は、やるほうにもなるし、やらないほうにもなる。
 残りの20%は、どんなになろうともやらない……ということになるかもしれない。
 わたしたちが今、心を配らなくてはならないのは、上の20%ではない。
 次の60%と20%だ。
 この層に「勉強したい」「早く帰って試験勉強したい」と思えるようにすることだ。
 ポイントとして、
(1)「国語っておもしろい」……「数学ってほんとんにおもしろい」と心から思える一瞬を50分間に一度つくること。
(2)「試験勉強っておもしろい」「試験勉強やるってカッコいい」と心から思える一瞬を1日に1回つくること。
(3)「勉強ができるって、スゴイ」と心から思える一瞬を試験週間に1回つくること。
 学年教師集団で、あるいは教師個々に、この点に留意して、月・火・水・木を運営してほしい。
 なお、以前からやめようといっていることだが、「時間が余ったからきょうは試験勉強にしよう。各自、○○科の勉強だったらなにをやってもいいよ」、(今、こういうことをやっている人はいないと思うが)、これでは60%、あるいは20パーセントは、ほとんど動かない。(職員朝会のコメント 以上)

 校長の口頭による指示は無効、校長のレジメによる指示も無効、有効なのは、きちんとした文書による指示のみ……と普段、言っているクセに、こういうことをしゃべってしまう。
 しゃべってしまってから、反省している。

◆昨年の今頃は、精神的に不調の極限に陥っていた。
 精神の好不調を、わたしは、自分が書く文字の量で計測する。
 音楽好きがピアノを弾くように、ジョギング好きが走るように、毎日、文字を書きつづけていると、わたしは、しあわせなのだ(^o^)。
 今年の5月は(ツール→文書の文字数で調べると)49000字書いている。
 これに対して、昨年の6月=16000字だ。
 悶々としていたのが、よくわかる。
 悶々としていた期間に、こんな記述がある。

 
〈2007/06/21〉
 心の病に陥った、ひとりの新聞記者が、その「体験記」を読売新聞に連載している。
 やる気がみなぎる好調期の高揚感と「治ったのでは?」という期待感、と次の瞬間、再び絶不調期がやってくるというくだりでは、彼の失意、落胆、意気消沈ぶりがリアルに伝わってくる。
 わたしのブログもこれに似ている。(と書くとき、わたしはあることをうたがっているのだが……。)
 たとえば、5月の連休中、風邪でつっぷし、そこから快復した直後の3週間くらいで、ブログに掲載した記事の文字数は約40000字(←一太郎の「文書の文字数」でチェック)。
 原稿用紙にして100枚だ。
 音楽家がピアノを弾くように、マラソン選手が走り込むように連日、透きとおるような快さで文字を書きつづけている。
 というような期間があるかと思えば、ひと月にたった3枚という期間もある。
 今がその「たった3枚」期間のど真ん中だ。
 記述したい、あるいは記述しなければいけないことがらが次から次に目の前にあらわれる。
 だが、現在、自分のからだが根元からフワフワと宙に浮いてしまっていて、これらを文字に定着させることができない。(
〈2007/06/21〉の記述 以上)

◆今年の6月は、これまでのところ、33591字。
 ペースとしては、先月とそれほど変わっていない。
 しかし、ここ、数日、急速に、そのペースがダウンしてきている。
 ダウンしてきていることを、身でも心でも自覚し、そのハズミに、昨年の苦しみを想起したのだ。

    


 前回のブログに、柳橋を「左から右に渡るわたし」がわたしなのか? 橋のたもとから「それを眺めているわたし」がわたしなのか? 周の夢に胡蝶と為れるか、胡蝶の夢に周と為れるか(蝶になった夢を、わたしが見ていたのか? わたしになった夢を、蝶が見ているのか?)の心境。胸がしめつけられて、せつない気持ちに陥る……と書いているが、2人の「わたし」が、連続・融合する一瞬というのが、この「わたし」が消滅してしまう瞬間なのではないか?という思いに至ったことが、せつないのだ。

    


◆警笛が聞こえたので見上げると、鮫駅方面に向かう気動車が鉄橋を渡っていた。

    


◆身をかがめて、こういうところを突き抜けた。

 わたしは、この旅に出ようと決めたときに、無意識のうちに、旅の終末に、歌舞伎の「屋体崩し」のような壮大な仕掛けを期待していたのではないか?
 柳橋。
 JR八戸線鉄橋
 新湊橋。
 湊橋。
 これらを、垂直に、垂直に、突き抜けて、海に出ると、屋体崩しが待っていて、わたしの存在自体は変わらないが、わたしの、いわば存在の存在が、なんと、びっくり、一新、一変し、新しい「わたし」が誕生する。
 そんな瞬間……(^^;)

    


◆身をかがめて橋の下をくぐりぬけると、うみねこが待っていた。
 ゆきゆきて、武蔵の国と下つ総の国とのなかに、いと大きなる河あり。
 それをすみだ河といふ。
 その河のほとりに群れゐて、思ひやれば、限りなく遠くも来にけるかなと、わびあへるに、渡し守、はや船に乗れ、日も暮れぬといふに、乗りて渡らんとするに、みな人、ものわびしくて、京に思ふ人なきにしもあらず。
 さるおりしも、白き鳥のはしと脚と赤き、鴫の大きさなる、水のうへに遊びつつ、魚をくふ。
 京には見えぬ鳥なれば、みな人、知らず。
 渡し守に問ひければ、これなむ、宮こ鳥といふをききて、
 〈名にし負はばいざこととはむ宮こ鳥わが思ふ人はありやなしやと〉
 と、よめりければ、舟こぞりて泣きにけり。

◆師の弔い期間(6/21~7/21)に入り、また昨年のレオンの死を想起し、ちぢこまっているわたしを、きょうは「ま、ええやんけ」「ええやんけ」という感じで、ほぐしてみた。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿