熊本熊的日常

日常生活についての雑記

複雑なきもち

2012年04月07日 | Weblog

昨年も一昨年も立川で桜を見たような気がする。今日は小三治の独演会。3月25日に三郷で一門会を聴いたばかりなのだが、あれこれ予定を考えて予約を入れているわけではなく、毎回出来心のようなもので気まぐれに切符を買っているのでこんなふうに続くこともある。

今日は「小言幸兵衛」のなかでちょっと危ないところがあってヒヤリとした。幸兵衛と仕立屋との問答のなかで、幸兵衛が芝居仕立てに仕立屋の息子と長屋にいる古着屋の娘お花との付き合いを妄想する場面がある。お花を梅幸に、仕立屋の息子を羽左衛門に見立てるはずだが、羽左衛門の名前が出てこなくて、少し間が乱れた。結局、「お前の息子には会ったことがないからわからない」ということにして羽左衛門なしで話は進行した。こういうこともあるのだなと、聴いていて複雑な心持ちになった。なにも完璧を要求しているのではない。生口演なのだから体調も気分もその時々で違うわけだし、生身の人間なのだから芸の調子も毎回違って当たり前だ。すべて一回こっきりのことばかりで、立ち現れてはその場で消えてくところに、今この瞬間、自分だけが体験する時間というものを味わう楽しさがある。落語に限らず講釈も芝居も舞台演芸というものはすべてそういうものだろう。今はネットの動画サイトやDVDなどのパッケージソフトでそうした芸を見ることはいくらでもできるようになった。しかし、生身の人間が演じるものは、その生身を観ないことには体験したことにはならない。人に五感というものがあり、さらにそれを超えた感覚というものもあるのだから、生身のものに触れれば自分の持つ感覚の全てが何がしかの刺激を受けるのである。そういう体験こそが人の感性と知性を豊かにするものだろう。旨いものを食うことが嬉しいのは、それによって自分の血肉が豊かになることを身体が喜んでいるからだと思う。噺家が言葉に詰まるのも、今この瞬間だけのことだ。言葉に詰まる大看板を観るというのも滅多に体験できることではないのだから贅沢なことに違いないのである。そう考えるなら、その場に居合わせることの縁を喜ぶべきなのかもしれないが、人情としては素直にそうできない。そのあたりが「複雑」なのである。

この後、仲入りをはさんで「初天神」だった。どちらの噺もまくらは控えめで、全体としてこじんまりとした会だった。

今日の演目

「鯛」柳家はん治
「小言幸兵衛」 柳家小三治
(仲入り)
「初天神」 柳家小三治

開演 14時00分
終演 16時00分
会場 アミューたちかわ 大ホール


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