熊本熊的日常

日常生活についての雑記

風林火山

2017年02月19日 | Weblog

鰍沢のイベントの後にひとまず甲府で宿泊することにしたものの、それでどうするかということは決めていなかった。妻が県立美術館へ行ってみたいというので、宿で朝食をいただいた後、フロントに寄って美術館へのアクセスを尋ねた。公共交通を利用するとすればバスなのだが、ほぼ一時間に一本の割だという。10時少し前にチェックアウトして、駅へ行って荷物をコインロッカーに預けて身軽になったところで美術館方面へのバスが出る乗り場へ行ってみると、その一時間に一本のバスが出た直後だった。妻とどうしようかと話をするなかで、甲府といえば武田信玄だろうということになり、武田神社に参拝することにした。こちらも一時間に一本のバスで行くのだが、これは少し待てば乗ることができるタイミングだった。

しばらく前からこのブログに書いていることでもあり、年末の「エンディングロール」を見ても明らかなように、機会を見つけて神社仏閣を参拝することが以前に比べて増えた。ジジイになってあの世を意識するようになったというわけでもないのだが、そういう場所に対して素朴に好奇心が湧くようになったのである。神とか仏という人知を超えた存在をどのように自分たちの生活のなかに位置付けるのか、認識するのか、というようなことが神社仏閣という物理的存在の在りようにどう反映されているのか。そこに自分の在りようを見る思いがするのである。ざっくりとした言い方しかできないが、人知を超えた存在であるはずのものを仏像という人間の姿で表現するところに仏教というのものの限界を感じる。それに比べると神を山とか岩といった天然物に象徴させてその姿は見えないことにする神社のほうが考え方として素直であるとの印象を受ける。人知を超えた絶対的な存在の有無は私にとってはどうでもよいことである。人知が全てではないということは確かなことだと思う。だからといって、そこに絶対的なものを想定してしまうのは、思考の放棄だと思う。人情として安心したいという心情は理解できるが、物事に必ず正解があるという枠組みを設けてしまうのは、なんだか馬鹿っぽいと感じてしまう。

これまで訪れたなかでは、やはり伊勢神宮が「ザ・神社」という圧倒的存在感を自分のなかで放っている。それ以外はそれぞれにそれなりに印象深い。数年前に式年遷宮を経たばかりで様々なメディアが伊勢神宮を取り上げていて、そうした情報に影響を受けているということは当然にあるのだが、それだけではないだろう。長年に亘って人々の信仰を集めた場というものには、蓄積された想いが独特の雰囲気を醸し出しているように感じられるのである。また、そこに身を置くことが心地よいのである。無理やりに形式を設けた信仰を強制して「本当に信じるなら金を出せ」というような風が微塵も感じられないところがよい。「はい?神様ですか?こちらにおられますよ。どうぞお参りしていってください」というおおらかな雰囲気がよい。普段なんの信仰もない者を、それが当然であるかのように受け容れる雰囲気というものに有り難さを覚えるのである。だいたい何事かを強制するというのは自信のない証拠だ。それは日常生活のあらゆることについてあてはまることでもある。

武田神社だが、今日は赤ん坊を連れた家族連れの姿が目立った。東京で言えば水天宮のようなところなのだろうか。京都の松尾大社も名水で有名だが、ここも名水を売り物にしている。山岳地帯はミネラル分豊富な水が湧くものなので、自然なことだと思う。社務所でペットボトルを販売しており、境内の井戸から水を汲むようになっている。

昼頃に甲府駅に戻り、駅前の飲食店でほうとうをいただく。我が家でも勝手流でほうとうをいただくことが多く、妻は本場のほうとうの味というものを知りたがっていた。私は昔トレッキングに出かけていた頃に山梨県内の山も訪れたことが何度かあり、その度にほうとうをいただいていたので、我が家のほうとうが本場に勝るとも劣らないと言っていたが、やはり自分で食べてみたいということらしい。それで実際に食べてみて安心したようである。

山梨県立美術館といえばミレーの「種まく人」で有名だが、それだけではない立派な美術館だ。日本にはパリのルーブルやロンドンのナショナル・ギャラリーのような大規模な美術館は無いが、こじんまりとはしていてもよくまとまったコレクションを展示している美術館がたくさんある。ここもそうしたところである。今回初めて訪れたが、天気に恵まれた所為もあって周囲の公園も含めて満足度の高い施設だ。東京からわざわざ足を運ぶところだとは言わないが、近くに来る機会があれば是非足を伸ばしたいとは言える。