「教育と人間」斎藤喜博対話集から
私が実践者として一番願っていることは、、個人としても、集団としても、リズムとか息づかいが生き生きと通っている子どもたちをつくりたいということです。というのは、その逆の子どもたちをつくろうとする力が社会的にも教育行政としても方法論としても、強くきているからです。そのことにより、子どもたちが平板な個性のない人間になってしまう。子どもたちが、常識的、通俗的にされていってしまうからです。
二番目は、教師がやせている。平板で事務的な実践を形式的にばかりでなく、勉強もしていない。家へ帰ると食事しながらナイターを見て、おわるとすぐ寝てしまう、こういう生活が多いといいます。自分の実践に取り組むと同時に、すぐれた世界の芸術、科学から学んでいく。将棋の名人からでもよい、お百姓のりっぱな実践からでもよい、その力を学ぶことです。世界的な古典からも人間として自分が心をゆり動かされながら学んでいくことです。
三番目に、教師が、みずからの先生をもたないことがあります。先生をもつことを嫌っている傾向があり、自分はだれからも学ばないんだ、自分がつくりだしたんだというふうなこという。しかし、私は、先生をもたないで自分をつくりだすなんてことはできないと思うんです。なかまの中でもよし、全然ちがう世界でもよし、人間的に自分が追求している先生をもつことは大切なことです。そうしないと教師は固着し、形式化し、やせてしまうのです。