司馬遼太郎著「風塵抄」のなかに次のような文がある。学校関係者は読む価値があるのではないかと思い掲載した。
人はなぜ学校へ行きたがるのか。
「学問したいから」
そのようにきっぱりー自分をあざむくことなくー言える人は、さほどに多くはない。
学問をするというのは、かがやくような心構えがいる。まず、子供が一定の好みのもとに物を収集するというように、できるだけ多くの知識を記憶せねばならない。
記憶するだけでは、学問にはならない。知識群を手がたい方法で分析し、また独自の仮説をうちたて、あたらしい理論を構築しなければならない。
今後の日本に必要なのはそういう能力群なのである。・・・・ぜひ、創造の志を持つ若者こそ、学校に行ってもらいたい。たとえ学者にならなくても、世の中によき活性をあたえてくれる人になるちがいない。
受験制というのな、社会を仮に秩序つける上でのすばらしい催眠作用をもっているのである。
「自分が大学(あるいは高校)にゆけなかったのは不勉強で受験に失敗したから」
とか、
「自分の受験の能力ではその程度の大学しか行けませんでしたので」
と、スポーツの勝敗のようにだれもが自分を自分でなっとくさせている。
敗者は、その後、悪しく処理されても、右のこの自己規定によって社会的に爆発を生むにいたらず、むしろ子の代に、受験の勝者になることを期待する。
まことに世の中が挙げて受験のゲームをしている。学問とも創造とも、あるいは教養ともかかわりなく、ひとびとは世の安寧秩序のためにこの遊びに熱中している。
問題は、その仮象のゲームに敗れるか、参加できない人たちが、どのように価値ある人生を送るべきかということである。
このもっとも重要なことについては、両親も学校も、さほどに知恵のある思案をしていそうにない。
できれば高校・中学ごとにこのためのボランティアの賢者の委員会でもつくるべきではないか。
むろん、賢者たちは既成の価値観を批判する能力をもってくれねばこまる。さらにはすでに足もとに潮がさしはじめているあたらしい社会についての想像と認識をももってもらわねばならない。単に老人たちが過去のゲームを語るようではこまる。
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