松明 ~光明を指し示して~

暗闇を照らし赤々と燃える。が、自身が燃え上がっては長くはもたない。火を消すことなく新しい松明へと引き継がれねばならない。

初任者の授業(4年国語「一つの花」)思いもよらないできごと

2008-10-30 20:49:42 | Weblog
先日、私の受け持っている初任者が4年生の国語「一つの花」の授業をした。この初任者も私の指導をよく聞き入れていただき、よい学級づくりや授業づくりをしている。
今回の国語の授業でも子どもたちがよく集中して「話を聞く、考える、発言する」等ができていた。授業の前半も先週から始めたばかりの自由発言により、積極的に意見が出され、読み取りが深まっていった。大問題である「なぜ、いよいよ汽車が入ってくるというときになって、お父さんはぷいといなくなってしまったのか。」の疑問に対しても子どもたちの予想は
①ゆみ子が泣き止むように(ゆみ子のため)
②お父さんが最ごにゆみ子の笑顔をやきつけたかったから(お父さん自身のため)
③ゆみ子にコスモスを残してあげたい(ゆみ子のため)
④お母さんをほっとさせてあげたい(お母さんのため)
の4つが出た。そこで、教師はこの4つを整理して、
①ゆみ子のため
②お父さん自身のため
③お母さんのため
とし、どれがよいか子どもたちに選択させた。
そうしたところ②お父さんが最ごにゆみ子の笑顔をやきつけたかったから(お父さん自身のため)という考えが多く出た。これは、授業者も私も予想していなかったものである。どうもこれに多くの子どもが賛成したのは、いつも意欲的に発言し、読み取りが確かな子どもが理由を述べて発言したことからだと思われる。つまりその子どもの意見に他の多くの子どもがつられてしまったものと考えられる。授業にはこのような教師が思ってもみなかったことがよく起こることである。
子どもたちに理由を聞いてみると、「ゆみ子を泣き止ませることは、結果として、お父さんが最ごにゆみ子の笑顔を見て戦争に行けるから、お父さん自身のためにコスモスを取りに行った」と解釈しているのである。子どもたちの考えを聞いてみるとなるほどなーとも思われる。
しかし、文章をよく読んでみるとそうではない。ずっとゆみ子をあやすお母さんを見続けてきたお父さんの気持ちや「みんなおやりよ、母さん」「ゆみ子はとうとう泣き出してしまいました」「お母さんが、ゆみ子を一生けんめいあやしているうちに、お父さんが、ぷいといなくなってしまいました。」などを読むと、お父さんは困り果てているお母さんを助けるためにコスモスを取りに行ったと考えられる。授業者もそのように読み取っていたし、数人の子どももそのように考えていた。
ところが本時の授業になって、このように予想されなかったことが出てきたので授業者は困惑してしまい、授業がどうどうめぐりのようになってしまった。そこで、私が授業者に、もう一度、子どもたちに教科書を読ませるようにお願いした。そして授業はここで終わってしまった。
この授業は失敗ではない。このようなことは教え込みの授業でないかぎりよくあることである。
さて、授業後、授業者の先生と次のように話し合った。この②の考えをつぶさなくてはならない。そのためには明日はどうしたらよいだろうということになった。方法的にはいくつかある。
1大問題の解決をめあてに教科書を再度読ませる。
2グループで話し合わせる。
3ノートに自分の考えを時間をとって書かせる。
4もう一度ぷいといなくなった目的がわかる文や言葉に注目させる。(文を選ぶ、文を切る、辞書で意味を調べる)
5上記の1,2,3、4を複合的にやる
6その他
である。しかし、授業で一番難しいのは、方法や展開の仕方はわかっていても、子どもにどのように発問するかである。また、子どもから出た意見をどのように組織したり、わかりやすくしていくかである。私も初任者の教師もさらに勉強しなければならない。
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MUさん「お手紙」の授業ありがとう

2008-10-27 22:45:42 | Weblog
 MUさんから2年生の国語の授業「お手紙」のDVDをいただいた。今日は初任者と一緒に見た。以前からMUさんの頑張りを聞いていたので楽しみであった。そのとおり、とてもよい授業であったし、すばらしい子どもたちであった。感想を列挙してみる。
○まず子どもが清潔で純真で明るく積極的である。
○「聴く、話す、反応する」ができている。
○学習の手順が子どもに身に付いている。(選択の仕方、文章を切る、文や言葉に着目する等)
○教師は、子どもたちにできるだけ高い解釈を自分たちで発見させようとしている。
○授業を焦らずに進めている。
○文を切ったり、限定したりして、かえる君の悲しみの原因を見つけ出すようにし ている。
○日常の例文をもとに、教科書の文にもどらせて考えさせている。「だれも」を家族、友人、知人などと気づかせていき、かえる君はどうなの?と考えさせている。
○子どもは「だれも」の中にはかえる君が入っていることが、うすうすわかっている。ですから一人の子どもが「『だれも』はかえる君も入っている」と発言すればなるほどと合点がいき一気に解決する。そういう子どもたちが育っている。
○浜松市全体の学校でもここまでの授業や子どもたちはないだろ。いや県下にもな
いだろう。
 次にやや気になり改善したいことを挙げてみる。
○友だちの発言に対して、大きな声で一斉に「賛成です」「同じです」はできるだけやめたほうがよい。子どもたちの思考がそこで止められることや、新しい角度からの発言が少なくなる危険性があるからである。
○まだ「教師対子どもの授業」の傾向がある。いっそう横に広げていきたい。「いまの○○さんの考えはどうだろうか」とか「グループで話し合ってみよう」などを入れていきたい。
○やっぱり、机上には教科書と筆記用具はあったほうがよい。そのほうが、子どもが自分で教科書を読んだり、何か発見したことをメモできるからである。また「追求方式の授業」を正しく受けとめてもらうためにもそのほうがよい。
  私の思いつくままに挙げてみたので不足なところや思い違いもあると思う。学校で検討してほしい。また教えてください。ありがとうございました。
 MU先生並びに全員の先生方のいっそうの努力を期待します。楽しみにしています。それから、先日の教育談義とても楽しく有意義でした。ありがとう。
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経験主義の克服

2008-10-24 12:07:06 | Weblog
 高橋金三郎は「学校のしごと教師のしごと」の著書で次のように述べている。
 今までのやり方は経験主義的なところが多かった。たとえば「日常生活経験を子どもと話し合う。教科書にあることを考える。子どもに考えさせ、討論していく中で、しだいにある法則性を教えていく」という立場をとっていたと思う。「教科書なら、子どもの持つ疑問や問題意識を何でも適当にというように、授業の中で進めていくとやがて必要な事実法則を子どもの身につくように教えることができる」というような考え方が強かった。果たしてそうだろうか非常に疑問を持つ。そんなに簡単にいくのであれば、全国数十万教師が数十年苦労して、わずかの成果しか上がらないということにならなかったはずである。
 私たちとしては、「何を子どもに教えるべきか」を明確に決めて、「そのような事実法則を教えるためには、どのようなプランの下に子どもたちにのぞんだらよいか」と考えていきたい。
 次に私は今までの教育学者の理論とか実践のしかたに強い不満を持っている。ある人たちはアメリカなどの教育を直輸入しているような気がするし、進歩的な人たちの側には、ソ連(ロシア)の理論や実践に対して非常に弱いような感じを受ける。・・・・。
 この部分を読んで私も同様なことを感じる。高橋氏のレベルもそうだけれども、もっと学校教育の身近なとろにたくさんある。そして、学校は何て従来のものに固執しているだろうと痛感する。特にベテラン教師の言動のひとつひとつに「経験主義」を感じてならない。そういう私もその1人かもしれない。この「経験主義」を追放しない限り、学校教育の変革はないと思う。具体的なことは改めて記載したいと思う。
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「追求方式の授業」をすすめます。これまちがいないです。

2008-10-23 14:18:00 | Weblog
 初任者の教師でも「追求方式の授業」を意識してやれば、かなりよい授業ができることがわかってきた。
 例えば、「自分の考えを持つ」「自分の考えを発言する」「全員が意見を持つ」「友だちの考えを聴く」「グループで話し合う」などの学習の基本ができてきたこと。加えて、国語でいうならば「文章や言葉に着目する」「文を分ける」「考えを選択する」「証拠をあげる」などの学習活動ができるようになってきたことである。
 しかし、このような効果のある「追求方式の授業」を多くの教師に理解を示せ、そのことに努力しろといってみても、本人がその気にならなければ無理なことである。ただ言えることは、好むと好まざるにかかわらず実践するれば確実に授業が変わり、教師が変わり、子どもが変わることは事実である。だから私は「追求方式の授業」をすすめている。
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新城の会「授業研究の会」

2008-10-20 14:59:48 | Weblog
 明日は温泉に行く、旅行に行く、映画を見に行くなどは、前の日から少し心がウキウキするものである。しかし、教育講演会に行く、教育研究会に参加するなどとなると本務である教育の勉強になるとわかっていても「ああ、大変だなー」「めんどくさいなー」となるものである。それは、そういう会は、あまり勉強にならないものが多くがあるからである。
 授業研究の会である「新城の会」は参加してみて、やっぱりよかったという思いになる研究会である。それは、内容がよいからである。よそよそしくない。実践を伴い、質が高い、教科の研究が、いつでも子どもの根を育てることに繋がっているから等である。
 今回は、国語の教材解釈、体育の実践、絵の描かせ方等であった。完成したもの、未完成のものなどの実践を出し合い話し合った。また参加者が自ら絵を描くという活動もした。ほぼ1日の研究会であったが、あっという間に終えてしまった。
 管制の研修会では、いつも時計とにらめっこで早く終わらないかなー、となることが多い。
 「新城の会」には是非多くの先生方に参加していただきたい。こればかりは、口で何回言っても説明してもわからないものである。参加してはじめてそのよさがわかるからである。
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よく「目指す児童像」と言うが・・・・・

2008-10-13 16:53:26 | Weblog
 授業によって「目指す児童像」をつくることが本道であるが、その「目指す児童像」を明確に持てないで授業をしている教師が多い。つまり授業により、子どもに知識を習得させることのみを毎時間毎時間坦々としていることである。
 このような教師の授業は子どもたちが散漫であり、落ち着きがなく、互いによいものをつくり出していこうとする姿が見られない。
 やはり、授業によってどんな子どもをつくるのか「目指す児童像」を持っているか、そうでないかでずいぶん育つ子どもが違ってくるし、授業そのものも違ってくるようである。
 では、「目指す児童像」とは、どんなものであろうか。私の考えるところでは、 
 ①全ての児童が集中できる。
 ②全ての児童が主体的に取り組める。
 ③全ての児童が「聴く、話す、反応」できる。
 ④学び合い高めることができる。
 ⑤課題に意欲的に挑戦することができる。
 ⑥明るく、開放的である。
 ⑦男女の仲がよい。
等である。
これらを教師はいつも意識して授業することが大切である。
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何でそんなに立ったり座ったりするの?

2008-10-11 21:34:40 | Weblog
 法則化教育運動の向山洋一氏は、「形式的無能力者用儀式」の押しつけというタイトルの文章で次ぎようなことを述べています。
 「毎時間毎時間、授業開始の儀式をさせている無内容教師がいます。それがいいと強制する校長がいます。指導主事の中にもいます。授業の開始のときに『気をつけ、これから3時間目の勉強を始めます。礼』という儀式をやると『子どもは集中する』という『常識』があるらしいのですが、私の見た数十の授業儀式の中で、子どもが集中しているのは、一つもありませんでした。毎時間このような馬鹿げた儀式はやらないほうがよいでしょう。授業開始の儀式をやめて、最初から『子どもたちを授業に集中させる工夫』をするのです。優れた先生は、授業の最初からすべての子どもたちを引き込みます。」・・・・。
 私も向山氏と同じ考えです。私の見た「授業開始の儀式」を長々とやる教師の授業は、たいて次のようなものでした。
 ①当番が「起立、気をつけ!」と号令をかける。しかし、全体の子どもたちが、そろってできない。できないので、当番はいつまでも「始めましょう」を言わない。できない子どもに注意する。どんどん授業時間が過ぎていく。教師もそれをいいこととしている。やっと、全体がそろうと「始めましょう」が言われる。
 ②子どもたちは着席すると、授業への集中どころか、こんどはざわざわと無駄話が始まる。
 ③授業は、教師の「教え込みの指導」が中心であり、子どもの主体性を引き出すようなことが少ない。子どもたちは、一方的に聞いていることが多いので手わるさや無駄話が多くなる。
 教えるという専門職である私たちは、授業で子どもを集中させなければならないことを常識にしなければなければならない。。それにしても学校は何でそんなに立ったり座ったり子どもにさせるのだろう?朝の出会いにみんなで起立して「おはようございます」のあいさつをし、帰りにみんなで起立して「さようなら」のあいさつをすればよいだろう。授業の終始のあいさつは、姿勢を正して座ったままで「始めましょう」をやればいいと思う。もっと実質的なことを大切にしていきたい。
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仕事の優先順位

2008-10-05 12:36:35 | Weblog
 教師の仕事はほんとうに多い。それも雑多なものがかなりある。とても専門職なんていっていられない。だから多くの仕事の中から何を捨てるか、何から優先して仕事をやるかは重要なことである。私の考える仕事の優先順位としては、
 ①緊急を要する提出物や分掌の仕事などをする。他に迷惑をかけてはいけないから。
 ②授業の準備(教材の下調べ等)をする。授業が充実していれば、他のものはある程度手を抜いても子どもは育つから。
 ③学級の掲示物、子どもの日記やノートの点検、学級便りを書く等である。
 ただ気をつけなくてはならないことは、③の仕事である。学級の掲示物を何時間もかけてつくる。学級便りを何枚も書く、保護者への連絡帳や子どもの日記のコメントを毎日書くなどである。できればそれにこしたことはないが、そのために、授業が疎かになってはいけないからである。教師はもっと授業で勝負しなければいけない。掲示物に力を込めても、学級便りを何枚出しても、日記を詳しく見ても、子どもは思ったほどは育たない。私たちの本務である授業をもっと大切にしたい。
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教師がしっかり指導しなくちゃー 

2008-10-02 15:47:45 | Weblog
 朝の会などで子どもが「1分間スピーチ」や「ニュースの紹介」などをやるときがあります。それが、4月から続いているわけですが、なかなかスピーチが上手になりません。まず、①発表内容を考えてこない②声が小さい③発表の工夫がされていない等が目立ちます。
 聞き手の方も感想等の発言が少ないばかりか、発表の声が小さくて聞き取れなくてもそのままでいます。
 問題なのは教師です。そのような事実があってもあまり指導しません。ですから、10月に入っても4月とあまり変わらないのです。せっかくやっているのですから意味あるものにしなくてはなりません。
 教師の姿勢としては、机上の書類処理などをせずに、真剣に子どもの発表を聞いてやること、そして発表のどこがよかったのか見つけることが大切だと思います。
 子どもの発表には断片的ではあるが必ずよいところがあるものです。発表の、内容、態度、声、資料等です。
 そして、後からでなくその時タイムリーに、できるだけ具体的に褒めてやることが大切だと思います。そういう繰り返しによって子どもたちはどのような発表がよいのかはじめて分かっていくのです。

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