博覧こうき

信頼のK&S行政書士受験教室

ミネルヴァの梟は飛べない

2008-06-30 02:45:43 | Weblog

朝からの雨。「遣らずの雨」っていうのはなんとなく艶かしいのですが。雨だからといって何にもしないわけにもいきません。

「仕事をやらずの雨」っていうわけじゃ…。だいたい雨の日は憂鬱で仕事をする気もないのですが、6月も終わりだし。7月前にやっておかなくてはならないものもあるし。

そうは言っても、知恵の神「ミネルヴァ」は、やって来そうにもないし…。ましてその使者「フクロー」クンは夕方になっても飛び立ってはくれなかったんですが。

ヘーゲルの『法哲学』のテキストの冒頭の明言。「ミネルヴァの梟は夕闇とともに飛び立つ」って。ヘーゲル哲学もけっしてやさしいものではありませんが。現実の生活の前に「哲学」があるか。要するに、哲学に従って現実の生活が営まれていくのか。

現実の生活の後に「哲学」が生まれてくるのかっていう違いですね。ヘーゲルがいう「フクロー」クンは「哲学」なんです。夕方にならないと飛び立たないってことは……おわかりですね。

こうジメジメするとあちこちにカビが生えてしまうのですが。前にも書きましたが、「有斐閣の法律学全集」などはひどいもんですよ。

同じ法律学全集でもまったくカビの生えないものもあるんです。『地方自治法』とか『民法総則』などはそうですね。作者の執念っていうか怨念でしょうか。自治法はともかく民法総則などは川島先生の執念のようで。

来栖先生の『契約法』も執念の塊でしょうね。あんなに分厚くて。厚いっていえば、かつての青林書院の「現代法律学全集」などはすさまじい。だって、執筆者にはページ数関係なしって依頼したとかいう話です。何ページになってもいいって。だから、このシリーズは分厚いのが多い。

だいたい本っていうのは分厚いものを読むに限るんです。専門書でもね。厚ければ何でも書いてあるんです。薄い本は読みやすそうですが、行間を読まなくちゃいけないからかえってたいへん。

それはそうと。本のカビは拭いてやればきれいになりますが。みなさん、頭の中にだけはカビを生やさないでくださいね。そんなカビは拭いたってきれいにゃなりませんよ。たぶんね。

この時期。2~3日勉強しないとすぐにカビちゃうでしょうね。おっそろし~。カビどころかコケまで生えている人を私は知っていますよ。

和解という字は示談に似てない~

2008-06-29 02:57:36 | Weblog

  ♪若いという字は苦しい字に似てるわ 涙が出るのは若いというしるしね♪

今は昔。こんな歌が流行りましたね。私が小学生だった頃でしょうか。「悲しみは駆け足でやてくる」という題名だったかな。アン真理子という歌手が歌っていましたね。

あんまりかわいい歌手ではなかったな…いや、それはあんまりだよ。

民法で「和解」の講義に入ると、私はいつもこの歌を思い出しちゃうんです。不謹慎にも講義しながら頭の中ではこの歌をうたっているんですよ。器用でしょ。この歌詞は二番ですからね。念のため。

「和解」という字は「示談」には似ても似つかないんですが、争いの当事者が争いを解決しようという点では似ていますね。「示談」は交通事故の世界を中心とした社会用語なんですが。

示談の法的性質は「和解」という見解が多数ですね。なかには「和解類似の無名契約」だなどという人もいて。

「和解と錯誤」という論点はありますが(「若いと錯誤」のことじゃありません。「若いと錯誤」は「若気の過ち」と同義)、「和解と後遺症」とはいわないんですね。そりゃそうです。あの特撰イチゴジャム事件は当事者が「和解契約」を結んだんですから。後遺症事件の場合は、当事者が「示談」をしたんですから。

「和解と示談」。それではどこに違いがあるかというと、いくつかの点で違いがあるんですね。(1)民法上の和解は、お互いに譲歩しなきゃいけない(規定の上ではね)。だけど示談は当事者の一方だけが譲歩する場合でもいいんですね。(2)和解には裁判上の和解っていう制度もありますが、示談は裁判外で行なわれるんですね。

とはいうものの。「互譲」なんてけっこう微妙ですね。こんな場合はどうですか。「債務者は債務を負っていることを承認し、債権者はその債務の弁済期の延期を承諾した」っていうケース。

どうせ微妙なんだったら、一方のみの譲歩でもいいんじゃないでしょうかね。当事者に争いをやめようとする意思があるんだったら。和解の規定を類推したって…。

ところで「和解」っていえば、梅謙次郎の『和解論』(明治22年)は有名ですね。フランス語で書かれた論文集ですが。リヨン大学からドクトル・アンドロワの学位を受けた論文。リヨン市から出版されたということです。

そのフランスには「ジダン」なるものも。いつもはボールを蹴っているんですが、たまに頭突きをするらしいですね。やられたほうは地団駄踏んで悔しがるって…。ジダンを踏みつけちゃうってわけじゃありません。後がこわい。

法律の学習にも少しぐらいの茶目っ気があってもいいのかも。勉強するのも少しは楽しくなるかも知れません。

  ♪それでもときどき楽しい日も来るけど またいつかは涙をふくのね♪

虚偽の外観・反省だけなら…

2008-06-28 02:19:56 | Weblog

謝罪会見。よくあることで。あんまりよくあるもんですから、どうしても比べちゃうってことも。これもよくあることで。テレビなんかを観ていると「謝罪」を分析するような人まで登場しますね。専門家(なのかどうか)の分析まで仰がなくても素人目にも違いくらいはわかりますね。

例の飛騨牛の偽装問題。なんでああもバレそうなウソをつくんでしょうね。従業員が勝手にやったんだとか…。辞めていった工場長が腹いせにやったんだとか。

悪しき慣習。政治屋あたりから始まったのかも知れませんね。バレたら開きなおりゃいいって。これを許してきた私たち国民の責任でもあるんですが。

そこでその牛やんの社長。とうとう「謝罪もどき会見」をやりましたね。あんまりおもしろかったんで朝のうちはテレビをハシゴしちゃったほど。あれほど誠意の欠片もみえない謝罪もめずらしいでしょうね。もっとも謝罪にはなっていませんでしたがね。それでも自分の指示だったことを認めただけでも一歩前進でしょうかね。

まさしく謝罪しているような素振り・外観。これを見て謝罪しているって信じ込んだ人がいたかどうかまでは知りませんが。信じ込んだ人にとっては外観どおりの効果が発生するんです。

謝罪だけならサルでもできる。かつていましたね反省ザルが。名前は忘れてしまいましたが。サルでもできる反省。できないのが万物の長。サル以下ですね。同じ過ちを繰り返すのもその長。学習効果がまったくみられない…。嘆かわしいったら…。私もその一人なんですがね。

その謝罪。謝罪広告強制事件(最大判昭31.7.4民集10.7.785)は有名ですね。憲法19条の思想良心は、世界観・人生観など個人の人格形成に必要な内面の精神作用のことをいうから、謝罪の意思表示の基礎にあるような道徳的な要素は含まない…。だから、謝罪広告の強制は19条に違反しないと。

もっとも「単に事態の真相を告白し陳謝の意を表するに止まる程度」であればって条件付きですがね。この程度を越えたら…って含みを持たせています。

その会見。道徳的な要素を基礎としない謝罪もあるんですね。そんなのならウチのチッチとミミにだってできますよ。たぶん。まだ「お手」はできませんけど。ずっと前から教えているんですが。物覚えが悪いっていうか。覚える気がないというか。

生まれつき、「物覚えが悪い」ってあんまりないと思います。要するに、覚えようとしないか・覚える気がないか…そのどちらかですね。


地を掃う…契約の余後効

2008-06-27 02:41:30 | Weblog


契約によっては、債務者が債務を履行(目的物の引渡し・登記移転など)した後であっても、信義則上、当事者に付随義務が課せられる場合があります。「契約の余後効」といわれる問題です。

例えば、マンションを販売した業者はマンション周辺の環境を保持する義務があるというように。いくつかの下級審の判例でも争点となっているんですが。

朝日新聞26日付けの朝刊35面。「自慢の眺望「法的保護に値せず」」という見出しが踊っていましたね。25日の大阪地裁の判決では「契約の余後効」としての付随義務など認めてくれなかったようです。

眺望や日当たりを「売り」にして販売されたマンション。買ったが最後、その後で目の前に高層のマンションが建設された…。買った側としては売主の法的な責任を追及したいところですね。

いくら「契約の余後効」とはいえ、原則として買主は救済されないというのが一般的な見解でしょうね。だって、土地の所有者はどのように自分の土地を利用するか予測できないからです。Aの土地に建っているマンションを買った、隣地の所有者Bは何をするかわからないからですね。

ところがマンション販売業者が隣地の所有者の場合はどうでしょうか。信義則ていう伝家の宝刀を抜いてもいいんじゃないですかね。本件はそんな事例でした。

「朝日を浴びる東面、生駒山を間近に望む眺望」と強調までしていたというのですが。この点、「眺望を保証していた」とも考えられますね。しかも売主が隣地の所有者だというのですから、ますますテーミスの秤は購入者保護のほうに傾く…そう考えられませんかね。

損害賠償を認めたいくつかの下級審判例がありますね。法的構成としては、「付随義務違反」をいうもの、「瑕疵担保責任」(いわゆる「環境瑕疵」)に言及するもの、不法行為責任を語るものなど…。

もっとも、本件地裁判決がいうように「大都市・大阪の中心部で、たまたま住民が良好な眺望を独占的に享受していたとしても、法的保護には値しない」ともいえますね。大都市では土地がないんですから。

実務の世界で、判例を引用するとき、特に肯定的に引用するときには「事実との関連で考える」ことが必要なんですね。どういう事実関係の下での下された判断なのかを見極めないといけない。

これって、今は亡き遠藤先生の受け売りなんですがね。合掌。

「悠然として南山を見」たかった

2008-06-26 03:02:08 | Weblog


陶潜は、その五言古詩「飲酒」のなかで「悠然として南山を見る」なんて詠んでいましたが。(ゆったりとした気分で、南のほうの山をぼんやり眺めている)。自然と一体化したかのような…そんな心境にはなかなか。

ところで「ミる」のいろいろ。「見」=ぼんやり見る。「視」=気をつけて見る。「看」=手をかざして見る。「観」=注意して見る。…とまあ、こんな具合に。それぞれ熟語を考えれば意味もよくわかってきますね。

序にいうと、漢詩にもいろいろあって「五言詩」、「七言詩」がありますが、五言詩は「二言・三言」と分けて読むんです(七言だったら、二言・二言・三言というように)。「結庵在人境」だったら、「庵を結んで」と「人境に在り」ていうように。

「ヲ・二」と会ったら帰れっていうように、上に上がって読む場合には「ヲ」とか「二」という助詞をつけるわけなんですが。

漢詩の素読が子どもの頃からの教育っていうわけじゃありませんが、やらされましたね。スズメじゃありませんから、半分も覚えちゃいませんが…。漢詩ばっかりじゃありません。書までも。オウヨウジュンとかチョスイリョウなど。

結局、書も漢詩もモノにはならなかったですがね。鬼っこは…。二兎を追うものは一兎も得ずって。親も子どもの能力などおかまいなしに酷なことを要求するもんなんですね。う~ん、二兎だからダメだったんですね。三兎を追っとけばよかったかも…。

結局、親を越えられたのは「年」だけですよ。わたしゃまだ息していますからね。のうのうと…。

…というわけで。25日。要するに仕事が捗らなかったと。「南山」ならぬ「難産」。生みの苦しみっていうやつなんですが。体調も悪くないし…陽気も意外と爽やかだったのに…。

こんな日は休むに限る…。


  ♪こんな日は少しだけ お酒を呑んで あの人が好きだった歌をうたうわ♪

お手付き・手付損倍戻し

2008-06-25 03:33:03 | Weblog


「手付」。江戸時代からの取引慣習ということですが、うまく考えましたね。「手付損倍戻し」って…。この古来からの取引慣習を明文化したものが民法557条というわけで。

江戸時代では「遊女の身請けのための手付渡し」などということもよくあったようで。時代劇ではそんな場面はとりあげてくれませんがね。

「お手付き」。これは主人と女中などとの関係ですから、身請けとは関係ありませんが。「お手付き損」っていうよりも「お手付き得」だったんでしょうかね。花札なんぞでやろうものなら、指詰めもんでしょうなあ。

ところでその「手付の性質」。さすがに江戸時代にはいろんな性質のものがあったようです。現行の民法の下では認められていない「成約手付」なるものまで。

「大雅舎其鳳作「滅多無性金儲気質」(安永4年)巻五、第一に、『四郎兵衛……丁ど千両の手づけあらためてうけ取わたし、まづばいばいはでき申しぬ、さらば手うち酒にせんとて、』」(中田薫『徳川時代の文学に見えたる私法』p23)と。

その「手付」って…。本質はなんなんでしょうね。手付は「有価物」ですから、金銭に限るわけじゃありませんが。金銭が一般的ですが。どうしてお金などを払うのでしょうかね。考えたことありませんか。

実定法学者はなかなか答えてくれませんね。「ドイツ民法学会日本支部」を地でいくようなセンセーが少なくないようですから(刑法の世界もそうですね。「ドイツ刑法学会日本支部」っていうセンセーいますよ)、わが国古来の制度の研究にはあまり関心がないのかも知れません。

一つには、「契約を結ぶ権限を買う」っていうわけです。いわば「予約権」の対価。これは契約を結ぶまでの話であって、契約を結んだ後、履行するまでは「自由に解除できる権限を買う」っていう(解約手付)。

こう考えてみると金銭などの有価物を授受するということの意味がわかってきますね。

法律の制度って奥が深い…っていうよりも「生活の知恵」「商人の知恵」っていうものも少なくないんですね。少しは勉強する気になってきますか。それとも……でしょうか。

受験勉強とはいえ、受験のための知識だけマスターするっていうのは退屈でつまらないことです。


それじゃスジが通らない!?

2008-06-24 04:32:36 | Weblog


この世の中。スジが通らないことってけっこうありますから、いちいち目くじらを立てていたんじゃ…。(目にはクジラは立ちませんがね。えんどう豆さん、クジラの肉を持って行っちゃダメだってば)

その1。例の『西哲夢物語』の代金を振込みに郵便局へ。意外にも人っ子一人いません。窓口に振込書を出すと順番待ちのカードを取れって。誰もいないのに…。

しょうがないから取ってイスに座って「隠れた順番」を待とうとすると、受け付けるとのこと。そんなら何もカードを取らせなくても。ご丁寧にも「○○番のカードをお持ちの方窓口にどうぞ」って。こちとら忙しいっていうのに…。

そんなお遊び(?)に付き合っていられません。スジっていうよりも融通がきかない。スジを通すんならカードを取るんかな…やっぱり。

その2。ケーブルテレビの番組表。今月まではずーっと無料でしたが、来月からは有料になるとのこと。月210円とか。番組表がないとビデオ予約がメンドーなので申し込もうかなと。でも申し込み表はミミが破いちゃったので電話で。

「クレームが多いでしょ? 今までタダだったんだから」と私。なんでも会社が変わったからなんだと。わけわかんないこと言ってましたね。おいおい、それって債務引受けじゃないの? 債権者の承諾が必要なのに、勝手に有料だなんて…。

テレビ画面の操作で番組表は出てくるんですが、画面の中じゃ見にくいし…。というわけで、申込み。こりゃあ、スジが通んないですよね。

その3。taspoカードが届きました。来月から自販機でたばこを買うのに必要なんですよね。未成年者の喫煙率がどのくらい高いのか知りませんが。成人の喫煙率を上回っているっていうんなら話は別ですがね。わが国の人口のほんの数パーセントなんでしょ。たぶん。

そんなのはほっときゃいいんですよ。そこまで社会がメンドーみなくても。やがて肺がんかなんかで困るのは自分なんだからね。わずか数パーセントの未成年者を保護するために成人に不自由を忍ばせるって。もっとも、たばこをやめりゃこんなことどうでもいいんですがね。

その4。(いくらスジが好きだからと言って牛スジばっかり食べては飽きますね。というわけでこれからは筋子でも…。)これは番外。

  ♪なにからなにまで 真っ暗闇よ スジの通らぬことばかり♪

君に会ってみたけれど…

2008-06-23 03:18:42 | Weblog

10年以上も思い焦がれていた「君」とご対面。

いえ、自然人ではなくて「ぶつ」なんです。先日、この欄に書きました、『西哲夢物語』が送られてきました。あまりにも小さな包みに…。

縦18センチ弱・横13センチほど。何判っていうんでしょうかねえ。厚さ1センチ弱。本というよりは「冊子」ですね。値段は6000円弱です。高いと思うか・安いと思うか…まさに価値観の問題ですね。(6000円もあれば3日は食べられますからね)

限定70部の復刻。私のほかに69人しか持っていないわけです。…というわけで、読みたかった本でもあるし…。まっいいか。

その復刻本は、原本の写真製版ですから、内容・体裁・版型も原本どおりということです。「禁売買」本だからでしょうかね。一番最後の「奥付」も半分に切れています。これも原本のままということです。

原本にないものは、復刻出版社の「奥付」だけ。まったく原本どおりということですから、原本の値段はおろか復刻本の値段すら書いてありません。

「はしがき」も復刻した出版社のものが小片1枚はさんであります。復刻本についての説明もこの「はしがき」に書いてあるんですが。「本書が問題となり「桃色事件」と呼ばれたように桃色ないし赤色の表紙であった」らしい。

というわけで、赤い表紙にしてあるとのこと。(このせいか幾分、「軽く」感じられますがね)もっとも、原本よりは「上質・厚手」の紙をしようということですから、原本はかなり粗悪であたのかも知れません。なにしろ明治20年の発刊ですからね。

本文141ページほどですから、読み始めましたが。句読点がないし・漢字カナ交じり文ですから、読み難いですね。まったく読めない(印刷の写りが悪いのと・私の知能のせい)漢字もありますね。

「第壱回 十月二五日」は、モッセ(ドイツ人の法律顧問)の講述から始まります。日本では国会開設をするようだが、外交・兵制・経済の三つについては議員に口を入れさせてはならない」などと。(本書の発刊は明治20年、帝国議会はその3年後の明治23年)

「第十九回 三月廿一日」。「独逸ノ憲法ハ聯邦故ニ日本ニハ適セス故ニ普國ノ憲法ヲ取捨スヘシ第一憲法ヲ立ツルトキハ帝王勅令ヲ以テ人民ノ幸福ノ為國ヲ強ク為スタメ好意ヲ以テ憲法ヲ布クト云フ事ヲ記載スヘシ」(p88/一部現代の漢字表記に改めました)などと書いてあるわけなんです。

以下、普國ノ憲法を参考に「日本モ此通ニテ然ルヘシ」とか「此通ニテ可然」などと続いていくわけです(p88以下)。

ほぼ全ページを通読した感想。やっぱり期待を裏切らなかったですね。

真ん中の立場ってムシ?

2008-06-22 02:27:20 | Weblog


この世の中、真ん中の立場って…とかくムシされちゃうもんなんでしょうか。…っていうか、軽いっていうか…。そんなところなのかも知れません。

かくいう私は3人兄弟の真ん中。上のゲンゴローが生まれて。親たち親類縁者は喜んだんでしょうね。跡取りができたって…。ちやほやされて育つわけなんです。

その10年後。私がこの世に生を受けるんですが、立場は軽いこと軽いこと。だって、その3年後にはさん吉がやって来ちゃったんですから。

  ♪あいだにはさまれじなん じなん♪

「総領の甚六」とはよく言ったもので。甘やかされて育ってきていますからね。それで三男は末っ子だというので、これまたちやほや…。わたしゃ「三男も甚六」っていいたい。

  ♪じぶんがいちばんじなん♪

別に身内のバレ話をしようというんじゃありません。法律の世界でも「中間者」の立場も考えようというわけです。中間省略登記だって中間者の同意が必要なんだし(常に必要というわけじゃありませんが)…。

もっとも、改正不動産登記法の下では、権利に関する登記の申請の際、「登記原因を証明する情報」(登記原因証明情報)の提出が必要(61条)になったから、今後、中間省略登記は事実上困難になったといわれていますがね。

抵当権の順位の変更の場面。一番抵当権者A、二番抵当権者B、三番抵当権者Cの場合、AとCとで順位を変更するときには中間者Bの承諾が必要ですよね(374条)。

ちゃんと中間者の利益は守られているわけなんです。

Sに対する債権がGからA、Bに転々譲渡された場合、もうほとんどの人が中間者「A」をムシしちゃう…。かわいそうですね。それなんかまだましな(…でもないんですが)ほう。

ムシしてもいい人ならあえて「A」なんて出しません。なんらかの役割を担っているんです。登場するからには。

やっぱり場面を考えていないんですね。登記と同じように考えられませんか。債権譲渡の場合の債務者への通知は、債務者に対する対抗要件なんですから。

不動産がGからA、AからBに転々譲渡されて登記がまだGのもとにある場合、Bは何ができますかね。

法律の問題。択一式でも記述式でも未知の問題・考えたこともないような問題のときには、類似の制度などを考えてみるわけです。ヒントになる場合もけっこうあります。


忘れられない「判例二選」

2008-06-21 02:19:15 | Weblog


20日に届いた『法学教室7月号』の巻頭言は、われらが佐伯クンの「お気に入りの事件」。お気に入りの事件を見つけようというもの。彼のお気に入りの事件は「マガモ事件」(最判平8.2.8)とのこと。

記事を読んでいて、「お気に入りの事件」というわけではないんですが、わけのわからないっていうか、いまだに…という判例があります。

【たぬき・むじな事件】(大判大14.6.9刑集4.378)
「たぬき」は狩猟法で捕獲が禁止されていたんです。禁猟獣っていうわけ。だから「タヌキ汁」は飲めない! 捕らぬ狸のむじな汁。

被告人は、「十文字むじな」を捕まえたというんです。むじなを捕まえようと思って、むじなを捕まえたと。ところがこの「十文字むじな」は狸の一種で捕獲禁止だったわけです。でも、被告人は十文字むじなは狸の一種だと知らなかった。だから、狸を捕まえるという認識はまったくなかったんです。

大審院は、「事実の錯誤」(行為者が認識した犯罪事実と実際に発生した事実との食い違いの問題)だから、狸を捕まえる故意がないとして無罪。この判例は民法でも学習しますね。無主物先占(239条)の判例で。ほら、野生の狸を狭い岩穴に追い込んだ…アレですよ。


【むささび・もま事件】(大判大13.4.25刑集3.364)
「むささび」は狩猟法で捕獲が禁止されていたんです。禁猟獣っていうわけ。だから「むささび汁」なんてない! 飛べぬむささびのももんが爺。

被告人は、その地方で「もま」と呼ばれている動物を捕まえたんです。「もま」を捕まえようとして「もま」をしっかり捕まえたわけなんです。
まさか、「もま」が「むささび」だとはつゆ知らず…。むささびを捕まえようなんて認識はまったくなくて、もまだったら捕まえても許されるって考えていたわけなんです。

大審院は、「法律の錯誤」(自分の行為が法的に許されないことを知らなかった。あるいは法的に許されると思っていたという場合)だから、故意を認めたわけなんです。有罪。だって、もま(=むささび)を捕まえようとして、もま(=むささび)を捕まえていますから、犯罪事実の認識はあったというんです。ただ、それが違法だとは知らなかっただけだと。

法律の錯誤だというなら、しようがないですね。法律の錯誤にお目こぼしを認めていたら、犯罪を犯せるのは「法律家」だけっていうことにもなりかねないですからね。

「法律を知らなかったとしても、そのことによって、罪を犯す意思がなかったとすることはできない。」(刑法38条3項本文)

以上の判決。矛盾するような判決ですよね。で、どっちが「事実の錯誤」でどっちが「法律の錯誤」なのか。覚えたんですよ。学生時代には。覚えるのはいたって簡単です。

「むじな」の「じ」がつくから、「たぬき・むじな事件」は「じ実の錯誤」って…。

(因みに、「もま」は「ももんが」だそうで。本当かどうかは知りませんが、M大出の私の親友。M大では「むささび・ももんが事件」と習ったんだそうです)