私は、巣鴨高校の出身である。
かなり、20数年の間に、学校としての変容は若干していることだろうが、当時、そこは、まさに軍隊としての、規律と「文武両道」を要求される、極限の世界であった。
当然、男子校であり、女性は1人もおらず、往復の山手線で見るようなちゃらちゃらした「高校生活」などとは、自分は、まったくの無縁であった。
自分が、三島由紀夫が、後期にして、「肉体」を手に入れることに渇望し、それを得て、集団「楯の会」としての「共に見る 精神の淵 肉体の淵」へと向かっていった事へのシンパシーの根源は、ここにあるようにも思う。
***
入学すると、その日に、全員に、学園長が直筆した「文武両道」という色紙をもらう。
制服は、海軍のような制服だった。
日々は、授業の中で柔道・剣道のいずれかを義務付けられ、毎日、10:30ごろには軍隊的な体操の時間が必ず設けられており、絶対参加であった。
そして、四季折々の軍隊的な催事が待っていた。
5月には、連休前に「大菩薩峠越え競歩大会」なるものがある。山梨と奥多摩を繋ぎ、間に大菩薩峠を越える道、42kmを歩いて越えるのでる。
しかも、それは、夜中の2時にバスでスタート地点に下ろされ、昼12時までにゴールすることを要求される。
我々は、真暗な闇の山道を、懐中電灯のあかりを頼りに歩いていく。
道端で、両足が吊ってしまって倒れた同志を見かけることもあった。高校3年の時には、悪天候でどしゃぶりの雨の中、決行された。
私は、そのとき、雨に打たれながらも同志たちと歩きながら、不覚にも寝たのである。
歩きながらでも、人間というのは眠れるのだと初めて知った。
峠の頂上には、甘酒屋が一件あるのみだった。
下り道に入ると、夜は、蒼く明け始める。
自分は、朦朧とした中で、坂本龍一の「The Garden Of Poppies」という美しい曲を、頭の中で鳴らしていた。
当然、連休中は、からだじゅうがボロボロで、どこにもいけずに、寝たきりの生活をすることになる。
***
夏には、千葉の館山での水泳の合宿。
日本古来の古式泳法をするのだ。
しかも、いでたちは白ふんどしである。
秋になると、11月には、多摩湖でのマラソン大会。
マラソンとはコトバだけで、実質は、道無きでこぼこの山道を、樹を掻き分けながら、12km走るのである。
そして、冬、1月の極寒の中、7時ごろから、2週間に渡る「寒稽古」が始まる。
私は、柔道を選択したが、もはや畳は、その畳としてのやわらかさは失い、硬く寒さで凍り付いていた。そこで何時間も打ち込みをやらされた。
これら、四季折々の催事には、当然、それの事前練習もあり、例えば、マラソン大会などでは、学園の周辺を走るのだが、池袋周辺の、やわな世界を走る自分に見える、周りの人間も世界も全ては、別の次元のモノにみえた。
***
こんな戦時中下のような日々を送りながら、なおかつ、自分は、「排球班」に所属していた。
「排球班」とは何か? バレーボール部のことである。
***
これらの「受苦」を、3回繰り返して、終えねば、高校生活は終わらなかった・・・。
そういう自分が垣間見た、極限の世界、肉体の極限、精神の極限・・。
それは、多分、何らかの精神的作用を自分にもたらしたのかもしれない。
20数年たった今、もはや、自分では、わからないのだが・・・・・。
***
そういえば、三島由紀夫の「仮面の告白」に出てくるセント・セバスチャン像へ感じたエレクティオを思い出す。
うちの近くにも、かつて管理教育で悪名高かった高校があります。教師がヤクザみたいに怖かったそうです。
でも今は普通になりましたが…。
鎌田慧さんの「教育工場の子供たち」に取り上げられてたそうです。
http://www.iwanami.co.jp/moreinfo/6031510/top.html
管理教育ではなくて、軍国主義ですな。
そこで、自分の魂が形成された部分も無いとはいえません。