以下は、私の記事「ウォークマンを付けたまま」に対するsatomiesさんのブログ「S:今日の一言」の記事「ふうむ」(http://d.hatena.ne.jp/satomies/20060427/p2#c)に対するTBです。2つめのコメントとして書きました。
satomiesさんの記事で紹介されていたからでしょう、一昨日は今までにないアクセス数がありました。
(以下2つめとしての私のコメント)
私が前のコメントに書いたことと重なりますが、私は、この問題を「個人のための場」と「集団としての場」が生む「やっかいさ」であると捉えます。
学校という集団の構成員(生徒)は、多くの「自由」や「個人的な好み」が、確実に束縛されます。その束縛の度合いは、「その行動が全ての生徒に見られた場合であっても、その学校が目指す機能を十分に全うできるかどうか」という観点で判断され、判断の基準は時により学校によって異なるものになることがあります。(「子どもの学校選択をどうするか」が大切になるのは、学校によってこうした判断基準が異なることがあるという実態があります。)
学校で生徒が宅配ピザを取るのは是か非か。全ての生徒が各自がそれぞれの好みに応じて宅配業者を選び、好みの昼食を取ることになったらその学校はどうなるか。その状況を好ましいとするか。(一方、誰も宅配業者に昼食を頼まない状況は好ましいか、好ましくないか。)生徒が制服をきちんと着ないのは是か非か。全ての生徒が制服をだらしなく着て校内を歩く雰囲気は学校として望ましいか、望ましくないか。(全員が制服をきちんと着る状況は、好ましいか、好ましくないか。)朝の連絡会に遅刻をするのは是か非か。全ての生徒が遅刻してきたらどうか。(始業時間に全ての生徒が揃っているのは好ましいか、好ましくないのか。)予習をしてこないのは是か非か。全ての生徒が予習をしてこなかい授業は望ましいか、望ましくないか。(皆が予習をしてくる授業は好ましいか、好ましくないか。)
この判断基準は、それぞれの学校が何を目標とするかによって変わるものもあるでしょう。
ウォークマンも同様です。全ての生徒が休み時間にウォークマンをしている光景は、現勤務校が目標とする指導の観点で、通常の光景として見なされるかどうか。
私はたとえ休み時間であってもウォークマンを利用するのは、現勤務校が目する機能を十分に発揮できなくなると判断します。生徒が個人的に音楽を楽しむことを否定するわけではなく、学校にいるときにそういった個人的な楽しみ方をしなくて良い、もっと他の楽しみ方を見つけなさい、ということです。ウォークマンをしている生徒に話しかけると、そうでない時と比べて、呼んでもなかなか答えてくれない、という事情も関与します。
事柄によって、「そんなことをするのは一部の生徒だから、良いのではないか」という考えがあるでしょう。しかし、これは必ずと言っていいくらい、「なぜ○○ちゃんはして良くて、私はしちゃダメなの?」という問題を生じさせます。多人数が集う学校という場に混乱をもたらすことになりかねないのです。学校を運営する側としては、こういった混乱がもたらす秩序の崩壊を最も危惧し、「してはいけないこと」と指導することになります。ですから、場合によっては「今まで良かったのに、急にダメだと言われた。」ということが起こってきます。
学校の秩序崩壊は、実は、じわじわと始まるもので、うっかり放置すると手に負えなくなることがあります。ですから、先手を打つことが必要になることがしばしばあります。(遅いと、回復に何倍もの労力がいるのです。)この辺りの事情は、実際、一部の生徒や親御さんには理解しにくいかもしれません。願望の種類によっては個人の要求に応えることができないわけですから。
私が自分のブログに書いた街中のウォークマンは、「集団の場」の概念を最大限に広げて当てはめたものです。共同体という集団をどう捉えるかは人によって判断が変わるでしょう。もちろん、ウォークマンに対する考え方も様々でしょうが、私の場合は、「ウォークマンをした知らない人には話しかけにくい」という個人的な思いがあり、あのような考えに至るわけでもあるのです。
satomiesさんの記事で紹介されていたからでしょう、一昨日は今までにないアクセス数がありました。
(以下2つめとしての私のコメント)
私が前のコメントに書いたことと重なりますが、私は、この問題を「個人のための場」と「集団としての場」が生む「やっかいさ」であると捉えます。
学校という集団の構成員(生徒)は、多くの「自由」や「個人的な好み」が、確実に束縛されます。その束縛の度合いは、「その行動が全ての生徒に見られた場合であっても、その学校が目指す機能を十分に全うできるかどうか」という観点で判断され、判断の基準は時により学校によって異なるものになることがあります。(「子どもの学校選択をどうするか」が大切になるのは、学校によってこうした判断基準が異なることがあるという実態があります。)
学校で生徒が宅配ピザを取るのは是か非か。全ての生徒が各自がそれぞれの好みに応じて宅配業者を選び、好みの昼食を取ることになったらその学校はどうなるか。その状況を好ましいとするか。(一方、誰も宅配業者に昼食を頼まない状況は好ましいか、好ましくないか。)生徒が制服をきちんと着ないのは是か非か。全ての生徒が制服をだらしなく着て校内を歩く雰囲気は学校として望ましいか、望ましくないか。(全員が制服をきちんと着る状況は、好ましいか、好ましくないか。)朝の連絡会に遅刻をするのは是か非か。全ての生徒が遅刻してきたらどうか。(始業時間に全ての生徒が揃っているのは好ましいか、好ましくないのか。)予習をしてこないのは是か非か。全ての生徒が予習をしてこなかい授業は望ましいか、望ましくないか。(皆が予習をしてくる授業は好ましいか、好ましくないか。)
この判断基準は、それぞれの学校が何を目標とするかによって変わるものもあるでしょう。
ウォークマンも同様です。全ての生徒が休み時間にウォークマンをしている光景は、現勤務校が目標とする指導の観点で、通常の光景として見なされるかどうか。
私はたとえ休み時間であってもウォークマンを利用するのは、現勤務校が目する機能を十分に発揮できなくなると判断します。生徒が個人的に音楽を楽しむことを否定するわけではなく、学校にいるときにそういった個人的な楽しみ方をしなくて良い、もっと他の楽しみ方を見つけなさい、ということです。ウォークマンをしている生徒に話しかけると、そうでない時と比べて、呼んでもなかなか答えてくれない、という事情も関与します。
事柄によって、「そんなことをするのは一部の生徒だから、良いのではないか」という考えがあるでしょう。しかし、これは必ずと言っていいくらい、「なぜ○○ちゃんはして良くて、私はしちゃダメなの?」という問題を生じさせます。多人数が集う学校という場に混乱をもたらすことになりかねないのです。学校を運営する側としては、こういった混乱がもたらす秩序の崩壊を最も危惧し、「してはいけないこと」と指導することになります。ですから、場合によっては「今まで良かったのに、急にダメだと言われた。」ということが起こってきます。
学校の秩序崩壊は、実は、じわじわと始まるもので、うっかり放置すると手に負えなくなることがあります。ですから、先手を打つことが必要になることがしばしばあります。(遅いと、回復に何倍もの労力がいるのです。)この辺りの事情は、実際、一部の生徒や親御さんには理解しにくいかもしれません。願望の種類によっては個人の要求に応えることができないわけですから。
私が自分のブログに書いた街中のウォークマンは、「集団の場」の概念を最大限に広げて当てはめたものです。共同体という集団をどう捉えるかは人によって判断が変わるでしょう。もちろん、ウォークマンに対する考え方も様々でしょうが、私の場合は、「ウォークマンをした知らない人には話しかけにくい」という個人的な思いがあり、あのような考えに至るわけでもあるのです。
「空き時間(授業が無い時)」に先生が「ヘッドフォン」をして音楽を聞きながら仕事をしていたこと。
まぁね。時代と共に価値観は変わりますからね。(笑)
数年先は、どうなってるのか解りませんけどね。
学校ってのは「修練」の場ですからね。(笑)
少なくとも「教育する側」は子供たちに、社会に出たときに想定できる最大限の範囲の価値観を見せて、経験させてあげる努力をするのが仕事だろうと思うのですよね。
そういう意味で、いろんな先生がいないと困りますわね。
てな感じに思ったんですけど、どうですか?
少なくとも、いまの高校生が「ヘッドフォンしてるとマズイ」時があるってのを知らないで社会人になっちまったら、苦労するのは本人でしょうからねぇ。
>>「修練」の場
大学に入ったら、ウォークマンをするな、なんてこと、誰も言わない思うんです。
生徒に小うるさく言うときは、「これがきっと彼らにとっての最後のチャンス」と思ってます。
身だしなみをウルサク言うのも、「きちんとしなければならない場」を知っていた方が、本人にとっても生存に有利だろうし、周りにとっても秩序の維持に良いだろうと思うんです。
しかし一方では、ブログではとにかくコミュニケーションするのが基本と考えている層があることは明らかです。その場合コミュニケーションの程度など誰を基準にするのかはわかりませんが、こうすればいい、こういうのがいいと思うというようなことを書いている人もかなり多いと思えます。しかし考えてみれば、それらを読む時間も相手のブログに書き込む時間も、かなりの時間をブログに費やさねばコミュニケーションなどは十二分にできません。ブログに時間を費やすのも各自の自由ですから、それぞれのコミュニケーションの形があって然るべきだと思えます。
そして多くは自己中心的な感覚にもとづいてのコミュニケーションだと思うので、ほりさんの対応は、それはそれでいいのではと思えました。各個人の感覚にもとづいて互いがやっているわけですから。匿名でのブログでは性別さえ本当かどうかわからないし、何もかもに真剣に対応している場合でもないと思います。
それと養老先生を好きな人は、説明が足らないことが多いですが、自分にわかるように説明してくれというのもおかしな話ではありますけれど、面倒な誤解が生じる場合に説明は有効だと思います。特にブログではそれを永遠と突付かれる可能性があるからです。特に物の見方などがよく分からないブログをやっている人にとって、ほりさんが身近にいる自分の物の見方を確認する対象になってしまう可能性も否めません。
とにかく書き言葉でのやりとりより、子どもたちのことを考え、彼らの心に近づいてもらいたいと思います。がんばってください。
透さんがお書きくださったこと、私、よく理解できてないかもしれません。(だったらごめんなさい。)
私は「ブログ」そのものには興味がありません。ブログにおけるコミュニケーションのあり方にも興味がないんです。ただ、もちろんのことですが、私のコメントやTBで、気分を害させてしまったら、それは大変申し訳なく思いますが、ブログは広く公に開かれた存在なので、自分自身にも、同じ事が起こりうると思っています。
>>それと養老先生を好きな人は、説明が足らないことが多いですが
これ、現実世界で、生ほり、ときどき指摘されます。(笑)「言葉を尽くして説明しないと、わからないよ」と。私の場合は、「学校という非常に特殊な環境」にいます。教員としてそんなこと当たり前じゃねぇかと思うことが多々あって、それが通じないのは、世の中、変。せめて、管理職くらいわかれよ、と思う。(笑)生徒に迎合して人気をとる「政治家」が教員に増えているようです。今年の校長は、これまでで最も話の通じる人のようで、私は少々はラクになりました。生徒は教員の「鏡」なんです。教員がだらければ生徒もだらける。びしっと良い意味での緊張感があれば、生徒もそうなる。(こういう書き方をするとよく誤解されるのですが、あくまでも、「よく遊べよく学べ」ですよ、もちろん。)
>>彼らの心に近づいてもらいたいと
この考え方、「両刃の刃」です。書いて説明するのは私の能力では無理だけど。
「子どもたちのことを考える」にしても、今そのときの子供たちのことを考えるのか、10年後の子供たちのことを考えるのか。土台と目標をどこに設定するかによって答えが逆転することが多いです。それで「どうしたらいいか」の対応が変わるのが現実です。
教師が学び続ける姿勢を堅持しており、学生・生徒が学ぶ姿勢を学ぶ学校、かしら。或いは、教師が飽くことなく考え続けている学校かな。
良く教え、良く学ぶでは、一流とは言えない。
で、「両刃の刃」ではなくて、「諸刃の剣」かな・笑。
墓穴を掘っちゃった・笑。
尤も → もっとも/最も
ハズイなぁ・・・。
早く、忘れようっと。
>生徒に迎合して人気をとる「政治家」が教員に増えている
これは頷けます。ブログではこの手の手法が本当に多いです。世の中いったいどうなっているのかと考えてしまうことも多々あります。「政治家」的というのは、そのほかに自画自賛でアピールをくどくどと続けるというのもあります。ブログの世界は現実の一部かもしれません。けれど、生徒も大人になると「政治家」的という意味が分かってくると思います。(笑)
>彼らの心に近づいてもらいたいと
その時その時で必要なことを当たり前(難しいですが)に対応することが大切かもと思えています。今と将来のどちらかに焦点を当てることよりも、そのどちらもをその時その時で考えて対応するほかないと思います。先生も人間なんですから、後で考えれば間違うこともあるでしょう。けれど、間違うことも教育の一つだと思えます。そういうことを含めての短い言葉になりました。現実や現場ではまずやってみなければわからないということも多いですよね。文章にするだけならばこんなに楽なことはない。
>彼らの心に近づく
という言葉は、あまりに水をやりすぎると草花の根は腐ってしまうということにも似ていると思うこともあります。あと言葉を尽くしても伝わらないことなど沢山あると思います。そう理解しながら尽くすというのは、難儀なことでもありますが。(笑)一生修行だと感じることも多いです。(笑)
>>良く教え、良く学ぶでは、一流とは言えない。
嬉しいな。「良く教え、良く学ぶ」が最善だと思う人、多いんだもの。
で、あ、そうか。「諸刃の剣」なんだ~。(笑)「剣」は「刃」でも良いらしいが。「両刃」は「りょうば」がふつーらしい。(いつもどうもありがとうございます。)
今の世の中、政治家が多すぎるから、嫌だなぁと思います。やがては、多数決で数学の答えあわせまでするようになるんじゃないかと思えて来ますよ。(笑)
>>そのどちらもをその時その時で考えて対応するほかないと思います。
まさにそうです。お互い生きてる人間同士で、変化し合ってますから。なかなかむつかしいけど。
私は、いろいろ今まで「間違えて」来ました。でも、生徒って、それを乗り越えるくらいに成長してしまう。で、変に甘やかすと、かえっていけないことの方が多い気がします。子どもの力は凄いです。こっちが教えられます。また、私はその意味で生徒の力を信じています。
ところで、透さんも教員ですか?
すでにそんな雰囲気ですよね。(笑)私は教員ではないです。しかし本当に男子10代の教育が難しいですね。