学校だと、いろんな配布物がある。各先生の書いたモノとかインタビューとか、まあ、そういうものが中にある。
時々、極めて不快になることがある。(苦笑)
主任でも管理職でも、生徒へのコトバとして、自分が高校生の時、こんなことをした、あんなことをした、と言う思い出話に、「何これ??」というのがあることがある。
例えば、「本来は許可されないことを担任が目を瞑ってくれた。感謝している」とか、「高校生の時に羽目を外すのも悪くない」とかいう内容。
何を考えているんだよ。かつ、それを見とがめない一番エライ管理職も何をしてるんだ。なぜ、差し止めないんだ。
学校が集団生活をする場であることが全く理解されてない。「個人の場」であると勘違いしているから書ける内容だろう。家庭内で、自分のムスコやムスメに言うのではない。
現実は「そう」だったかもしれない。しかし、それを教員自らが公言してどうなるというのだ。皆が「それ」を真似たり、「それ」が良いことであると判断する危険性を考えないのだろうか。「学校」という集団として何を目指すというのか。
「自分」はマトモに卒業し、少なくとも教職という定職に就いた。しかし、「そうなれなかった者」は必ず存在する。ちょっとしたきっかけで崩れ、立ち直れなかったり、立ち直るのにもの凄い苦労をした人だっているはずなのだ。だって、何百人もの生徒集団だから。でも、そんな人は表に出てこない。表に出てないからと言って「いない」とは限らない。「自分」は、タマタマ幸運だったから、多少ワルイことをしても何とかうまくいったのだろう。その可能性は考えないのか。
教員のくせにワルぶる人は嫌いである。立場をわきまえろ。実際どうだったかはどうでもいい。そんなことで「親しみ」を感じさせなくていいだろう。それが「ふつー」の生徒の態度だったら、学校は学校として機能しない。それで、その人たちの学校が学校として機能していたのは、その人たち以外の生徒が、真面目だったからなのだ。勘違いするな。
時々、極めて不快になることがある。(苦笑)
主任でも管理職でも、生徒へのコトバとして、自分が高校生の時、こんなことをした、あんなことをした、と言う思い出話に、「何これ??」というのがあることがある。
例えば、「本来は許可されないことを担任が目を瞑ってくれた。感謝している」とか、「高校生の時に羽目を外すのも悪くない」とかいう内容。
何を考えているんだよ。かつ、それを見とがめない一番エライ管理職も何をしてるんだ。なぜ、差し止めないんだ。
学校が集団生活をする場であることが全く理解されてない。「個人の場」であると勘違いしているから書ける内容だろう。家庭内で、自分のムスコやムスメに言うのではない。
現実は「そう」だったかもしれない。しかし、それを教員自らが公言してどうなるというのだ。皆が「それ」を真似たり、「それ」が良いことであると判断する危険性を考えないのだろうか。「学校」という集団として何を目指すというのか。
「自分」はマトモに卒業し、少なくとも教職という定職に就いた。しかし、「そうなれなかった者」は必ず存在する。ちょっとしたきっかけで崩れ、立ち直れなかったり、立ち直るのにもの凄い苦労をした人だっているはずなのだ。だって、何百人もの生徒集団だから。でも、そんな人は表に出てこない。表に出てないからと言って「いない」とは限らない。「自分」は、タマタマ幸運だったから、多少ワルイことをしても何とかうまくいったのだろう。その可能性は考えないのか。
教員のくせにワルぶる人は嫌いである。立場をわきまえろ。実際どうだったかはどうでもいい。そんなことで「親しみ」を感じさせなくていいだろう。それが「ふつー」の生徒の態度だったら、学校は学校として機能しない。それで、その人たちの学校が学校として機能していたのは、その人たち以外の生徒が、真面目だったからなのだ。勘違いするな。
>そうでなかった過去があるとすれば,それは職業上の倫理として秘すべきことだ
まさにその通りですよね。大きなことでは、ヤンキーやオール1のような極端なこと、小さいことでも「許可無しで自転車通学をしていた」等の過去も同様だと思います。