考えるのが好きだった

徒然でなくても誰だっていろんなことを考える考える考える。だからそれを書きたい。

「教養が邪魔をする」

2004年12月17日 | 物の見方
 この間の内田樹さんのブログに雑学と教養の違いについて書いてあった。
教養が邪魔をすると言うことは実際にある、ということであるが、これって、「知行合一」だよね。養老先生も同じようなことを言っていた。

 生徒を見ると、大人でもそうだが、勉強はテストのため、学歴というアクセサリーのためになっていることが多い。(少なくとも今私の近くにいる生徒どもは。)

 でもね、「国語は入試に関係ないから内職する。」と言われると、私は、猛烈に腹が立つ。(私は国語教師じゃないよ。)「日本人が、あるいは、日本で暮らしていて国語がいらないとはなにごとだ!」対する生徒の言い訳、「だって、授業だってつまらん。意味ない。無駄。」授業なんて元々つまらないものさ。面白かったら僥倖だと思え。ガクモンの面白さは自分で見つけるものだよなぁ。

 彼らにとっての勉強はトリビアと一緒。雑学か、他の目的を達成するための手段に過ぎない。「数学を1時間勉強したら、それだけの人間になれ、英語を1時間勉強したらそれだけの中身の人間になれ。」無駄かしらとも思いつつ、そう言ってはいるけれど、分からないだろうなぁ。「また、堀のヤツ、わけわからんことを言って、。」

 でもね、生徒の中には、勉強したら、それだけ自分のものにしてそうな生徒もいるのはいるんだよね。これは私にとっての大きな救い。「○○くん、君は立派だ。成績はあまり良くないけれど、君は勉強を自分のものにしているよ。」

 突然尾籠な話になるけれど、能楽堂のトイレはきれいです。歌舞伎座のトイレより、国立能楽堂のトイレの方がきれい。で、国立能楽堂よりも、お流儀の能楽堂で、しかも、超がつくような一流の先生の能の会が開催されているときのトイレに行ってみてください。個室が使用後であっても、使用前とほとんど変わりなく、全くと言っていいほど汚れがない。

 能楽堂で見かける方々は、上品な方が多い。美しいものを美しいと理解し、物事の理解が深く、より賢く振る舞われるように感じる。衣食足りて礼節を知る部分もあると思う。超が付くような先生にお習いするのは金がかかる。「先生の会」とは、その先生にお習いしているお弟子が観客になっていることが多い会だから、客層は限られていることが多い。能楽堂の中での振る舞いに、普段の生活が垣間見られる気がする。能楽という美しい世界が、ひけらかすアクセサリーになっているのではなく、まさに自分自身のものになっている。だから、トイレですら美しく使えるのだ。私はこれも教養の一つだと思うよ。汚しっぱなしにしておけない。教養が邪魔をして、汚いままにしておくことが出来ないのである。

 国立能楽堂でのことである。手洗い場にペーパータオルがあった。60代くらいか、とあるご婦人が使用後のペーパータオルで、水がちった洗面器の周りをぬぐっていた。私の存在に気が付いて、どうせ捨てるはずのものだからとか何とかおっしゃっていた。次に洗面所を使う、自分の見知らぬ人が気持ちよく使えるように、気を遣って見えたのだ。誰だって水滴の付いた蛇口周りを好む人はいないだろう。この方は、家庭でも気配りのきく有能な主婦として働いていらっしゃるのだろう。使用人がいたとしても、きっと上手に使っていらっしゃることだろう。私はものすごく感心して、以来、まねるようにしている。まぁ、紙タオルじゃなくて、ハンカチを使えと言われればそれまでだけど、心がけの問題です。で、教養と密接に関係すると思うのです。

 ブログ初心者で、トラックバックをどうやって使って良いのかが分からない。かつ、私は書くのに時間がかかるから、日々更新されている多くの方々のブログのように迅速な対応が出来ない。なんかとってもずれていますが、ご愛顧のほどよろしくお願い申し上げます。

1 コメント

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ペーパー・タオル (猫楠)
2005-07-20 07:00:58
オイラ、昔からやってる・・・。

この国の人がやってるのは見掛けたことないけど、

他の国の人が拭いてるのは2度程見掛けた・・・。

何故なんだろうかニャ~。

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