近頃はアスペルガーやADHDなど、発達障害に関わる病態を持つ生徒は、病気だから病気として認識され支援されるべきだという主張がなされている。(支援という言葉を私は好まないが。)辛い思いをする生徒が減るのは良いことだと思う。
で、ちょっと話はヨコに逸れるが、教員が何人か集まってこの手の話になると、「オレもそうだったんじゃないのかな」「私も」という話になる。うん、ほりも思い当たる。(笑)
でも、そんなにヒドイ程度ではなかったからかもしれないし、何となく大人になる過程で、何とか社会適応ができるようになって、今にいたり、教員という職について、それなりに、或いは、人によっては素晴らしく能力を発揮しているわけである。
となると、その頃の「そうだった」は何だったのかと言うことになる。病気でも何でもないだろう、ということだ。
どこで読んだか忘れたが、発達障害などを病気として捉えることについて疑義を呈していた。正高信男さんだっけ? 正高さんは、発達障害が天才を作るとかいう本を書いているはずだ。(本は読んでないけど、ちょっとしたエッセイは読んだ。)養老先生もそうだったかもしれないけど。
記憶も何も定かではないが、思うに、学校でも、発達障害児への理解を深めるためのそれなりの取り組みがあったりする。保護者からウチの子はADHDだから、配慮して欲しい、などの理解を求められることも多い。それで、○○君はそうだから、配慮をしよう、という教員の心がけのような指導方針が出てくる。(親からの要望が無くても、この手の子供たちに配慮することは多い。)それがそれで良いことだと思う。
しかし、である。
私は、「○○君は病気だから配慮して指導しよう」という取り組みと「○○君も普通の仲間だけど、少しこういう癖があるから気をつけてあげよう」というのとでは全然違うのではないかと思う。
思うのは、「受け入れる側の違い」と言うことである。
前者は、○○君を病人として、つまり、普通の子とは違う存在として、異質な存在として受け入れている。「○○君は発達障害であるゆえ、障害として理解しよう」という趣旨だから、他の生徒と○○君の間には、明らかな線引きがある。しかし、後者は、他の生徒と○○君の間には線引きがなく、○○君も同じクラスの、或いは、同じ学年の普通の子だけれど、ただ○○君の場合は、少し変な癖があったりするから、ちょっと対応に気をつけていこう、のように、「普通の中の1バージョン」とした受け取り方である。
共に「受け入れる」という観点では同じだが、病気というレッテルで最初から異質として受け入れるのと、あくまでも普通の一範疇として受け入れるのとでは、受け入れる側の寛容度が大きく異なると思う。前者は、「普通」の範囲が非常に狭く(だから、○○君は病気と分類される。)、後者は広いということにならないか。
これは養老先生だったかもしれないけど、(養老先生は、そこまではっきり言ってなかったかもしれないけど。←忘れた。)今の時代は、受け入れる側の許容度が小さいから、そこからはみ出る場合は、「病気」と別の範疇に分類をしないと、理解不能で受け入れにくくなるという現実があるということだ。
これって、何だか、とっても良くないことのような気がする。
「普通」の範囲がもの凄く狭く、均質であることが暗黙のうちに求められるから、ちょっとでも外れると「病気」にされると言うことだ。
「アンチエイジング」や「健康志向」もこの観点では同類である。「完璧な健康人」なんて、誰もいないだろうに、それを目指す、目指すのが半ば義務みたいな感じとか。目指さないと、ナマケモノと、否むしろ、「ふつーじゃない」と思われるような。
発達障害が目に付くようになったのも、そんな社会背景が影響しているのだろうな。
発達障害を理解しよう、という言い方は、とても許容度が高い社会を目指すように見えるけれど、それだけ社会の許容度が低くなっているから、わざわざ言語化して伝えなければ人々は気がつかない、意識せずに彼らを受け入れることが体感的に難しい状況があるのだろうな。
昔は受け入れられていた、と言いたいわけでもないけど、昔は、生活の仕方もいろいろだったし、いろんな意味で「変な人」がけっこう大勢いたから、さして目立つこともなく、なんとなく紛れてしまっていたのだろうとも思ったりする。「ガンコな職人さん」がそうだったのかもしれない。しかし、それはそれで社会に適応して、つまり、居場所があって、人がそれを認めていれば何ら問題はないわけである。社会適応というのは、人間が「生物」として生きるか死ぬかとは全然別個の問題で、個体の問題というよりもむしろ、個体を取り巻く回りの問題、純粋な社会問題である。この点、今は生活の何もかもが均質化しているから、ちょっとでも異質だと目立っちゃって、回りの方が受け入れがたくなるのだろう。
追い打ちをかけるのが、何でもかんでもコミュニケーションの時代である。コトバの時代である。それこそ、養老先生が言うには、ネットのコトバという、実は全く実体のないもので人が死ぬ、死ななければならないと感じてしまう時代である。コトバに翻弄されているのである。言葉の使用がやたら重視されるから、コトバの使用が不適切だったり不器用だったりなどのコミュニケーション不全で、世の中に適応できない状況が生じる。反面、筆談のホステスさんが、(もちろん美人だけど)コトバの力だけでナンバーワンになる。テレビで見たけど、彼女の受け答え、むしろ「切り返し」というべき返答は実に巧みである。小泉さんに似ていると思った。政治家と言えば、失言がこれほど批判される時代もないだろう。(養老先生も書いていたっけ。)イマドキ、「貧乏人は麦を食え」なんて言った分には、失言どころの騒ぎではないだろう。(って、その結果、どうなったか知らないけど。)マスコミ、ジャーナリズムが一般大衆を扇動するのも無理ないなと思う。(関係ないけど、マスコミ業界への就職は、かなり難しいのに、中に入っちゃうと、彼らは市区停止するのだろう。「大衆に迎合するために思考停止するがプロだ」と思いこまされるのだろう。彼らは何のために勉強をしたのだろう。)
なーんか、何もかもが同根だと思う。
実体よりも、とにかく、「コトバ」---それが病気の定義であれなんであれ---の定義が大事な時代になっているということだ。ネットの批判も言葉尻を捉えたものであることが多い。(関係ないけど、これからの国語教育は、言葉尻を捉えて云々というより、「言葉尻に囚われずに筆者の主張を読み取る」ことを目的にするのが良い。芥川や漱石のような完璧な日本語を教材に、正しいコトバの使い方を学ぶと同時に--書くためには、有用で必要なことだから--、読むためには、書かれたコトバをヒントにしながらもコトバそのものに囚われず、主張を汲み取る、みたいな読解方法である。私の経験では、本当にアタマの良い人は、必ずこれをしている。--これ、記事になりそうだな。説得力を持たせ世とすると、えんえん長くなるけど。)
「コトバ」のそもそもの役割は、「切る」ことであるから、言葉を使用し始めた人間にとっては必然と言えるかもしれない。
しかし、切って、切って、切って、どんどん切って、それでどうなるというのだろう。人間も自然も、もともとは「切れない」渾然一体としたものの一部で、それが生態系や地球環境、さらには宇宙を作り上げているのだから。「切る」のがデジタルで、渾然一体・グラデーションがアナログだとしたら、テレビのデジタル化も理解できる。もちろん、家電産業の経済効果を見込むという陰の理由もあるだろうが、なんというシンクロだろうと思う。
「切って分かったつもりになる」、「コトバがわかればわかったつもりになる」のは昔から常だから、ますます助長してきているということなのだろう。それだけ、日本人の(本物でないにしても)「教養」が大衆化してきたと言うことだろう。大学全入時代に入ってきているだけのことはある。
-----で、今読み返して、わかった。
なるべく細かく分類をして均質を求めることを目的にすると、実は、経済効果がある見込まれると言うことである。
だって、人は一人一人違う。それを「同じ形」、「同じ性質」にするためには、手を加えなければならない。これには、人手が掛かる。人手は、お金である。
健康志向もそうである。人は必ず病気になるのだから、「カネになる」のである。「美人」もそうである。美人は平均的な顔だから、自分の顔を平均のものにするためには手をかける、カネを掛ける。そのように、なるべく均質化をめざすと、お金が動くのである。もちろん、健康も美人も、要は、同質、均質には価値がある、という陰の価値観が存在しているから成立するお金の動きである。
教育に関して言えば、学力は、どういうわけか、教育だけは平均ではなく、高脂血症のような「偏差値が平均から大きく外れる」ことが目的とされる。養老先生が、東大医学部の偏差値は健康診断でいうと高血圧だみたいなことを書いていたのと同じである。それで、これはこれで無理な話である。
ただ、共通するのは、「一つの尺度」を重視する策が「カネになる」ということだ。全てが経済に集約されると言うことである。市場経済主義だね。
でも、そういえば、市場経済においては、お金こそが唯一無二の尺度である。グローバリズムである。しかし、そもそもお金とは、脳の神経細胞の信号が外に出たものだと言う。(養老先生ね、もちろん。)
その意味でも、まさに今は脳の時代なのだろう。脳は、全てを単一の電気信号に置き換える。
そうか。脳の時代はお金という単一尺度の時代だったということか。
人類の進歩は、平均的なレベルは、単一の尺度を求めるという、「わかりやすさ」に収斂するということなのだろうか。
それで、(ちょっと話が飛ぶけど、)お金以外のアナログな、生物としての「わけのわからないコトバの定義のしようがないところ」も脳の信号と同様に重視する人たちが、人類を超えて進化して生き残るかもしれないと思う。養老先生の「参勤交代」である。(あ、でも、コンピュータのデジタルも残りそうだから、「わかりやすさ」を求める方でもそれぞれで分岐して進化するということなのかな?)
で、ちょっと話はヨコに逸れるが、教員が何人か集まってこの手の話になると、「オレもそうだったんじゃないのかな」「私も」という話になる。うん、ほりも思い当たる。(笑)
でも、そんなにヒドイ程度ではなかったからかもしれないし、何となく大人になる過程で、何とか社会適応ができるようになって、今にいたり、教員という職について、それなりに、或いは、人によっては素晴らしく能力を発揮しているわけである。
となると、その頃の「そうだった」は何だったのかと言うことになる。病気でも何でもないだろう、ということだ。
どこで読んだか忘れたが、発達障害などを病気として捉えることについて疑義を呈していた。正高信男さんだっけ? 正高さんは、発達障害が天才を作るとかいう本を書いているはずだ。(本は読んでないけど、ちょっとしたエッセイは読んだ。)養老先生もそうだったかもしれないけど。
記憶も何も定かではないが、思うに、学校でも、発達障害児への理解を深めるためのそれなりの取り組みがあったりする。保護者からウチの子はADHDだから、配慮して欲しい、などの理解を求められることも多い。それで、○○君はそうだから、配慮をしよう、という教員の心がけのような指導方針が出てくる。(親からの要望が無くても、この手の子供たちに配慮することは多い。)それがそれで良いことだと思う。
しかし、である。
私は、「○○君は病気だから配慮して指導しよう」という取り組みと「○○君も普通の仲間だけど、少しこういう癖があるから気をつけてあげよう」というのとでは全然違うのではないかと思う。
思うのは、「受け入れる側の違い」と言うことである。
前者は、○○君を病人として、つまり、普通の子とは違う存在として、異質な存在として受け入れている。「○○君は発達障害であるゆえ、障害として理解しよう」という趣旨だから、他の生徒と○○君の間には、明らかな線引きがある。しかし、後者は、他の生徒と○○君の間には線引きがなく、○○君も同じクラスの、或いは、同じ学年の普通の子だけれど、ただ○○君の場合は、少し変な癖があったりするから、ちょっと対応に気をつけていこう、のように、「普通の中の1バージョン」とした受け取り方である。
共に「受け入れる」という観点では同じだが、病気というレッテルで最初から異質として受け入れるのと、あくまでも普通の一範疇として受け入れるのとでは、受け入れる側の寛容度が大きく異なると思う。前者は、「普通」の範囲が非常に狭く(だから、○○君は病気と分類される。)、後者は広いということにならないか。
これは養老先生だったかもしれないけど、(養老先生は、そこまではっきり言ってなかったかもしれないけど。←忘れた。)今の時代は、受け入れる側の許容度が小さいから、そこからはみ出る場合は、「病気」と別の範疇に分類をしないと、理解不能で受け入れにくくなるという現実があるということだ。
これって、何だか、とっても良くないことのような気がする。
「普通」の範囲がもの凄く狭く、均質であることが暗黙のうちに求められるから、ちょっとでも外れると「病気」にされると言うことだ。
「アンチエイジング」や「健康志向」もこの観点では同類である。「完璧な健康人」なんて、誰もいないだろうに、それを目指す、目指すのが半ば義務みたいな感じとか。目指さないと、ナマケモノと、否むしろ、「ふつーじゃない」と思われるような。
発達障害が目に付くようになったのも、そんな社会背景が影響しているのだろうな。
発達障害を理解しよう、という言い方は、とても許容度が高い社会を目指すように見えるけれど、それだけ社会の許容度が低くなっているから、わざわざ言語化して伝えなければ人々は気がつかない、意識せずに彼らを受け入れることが体感的に難しい状況があるのだろうな。
昔は受け入れられていた、と言いたいわけでもないけど、昔は、生活の仕方もいろいろだったし、いろんな意味で「変な人」がけっこう大勢いたから、さして目立つこともなく、なんとなく紛れてしまっていたのだろうとも思ったりする。「ガンコな職人さん」がそうだったのかもしれない。しかし、それはそれで社会に適応して、つまり、居場所があって、人がそれを認めていれば何ら問題はないわけである。社会適応というのは、人間が「生物」として生きるか死ぬかとは全然別個の問題で、個体の問題というよりもむしろ、個体を取り巻く回りの問題、純粋な社会問題である。この点、今は生活の何もかもが均質化しているから、ちょっとでも異質だと目立っちゃって、回りの方が受け入れがたくなるのだろう。
追い打ちをかけるのが、何でもかんでもコミュニケーションの時代である。コトバの時代である。それこそ、養老先生が言うには、ネットのコトバという、実は全く実体のないもので人が死ぬ、死ななければならないと感じてしまう時代である。コトバに翻弄されているのである。言葉の使用がやたら重視されるから、コトバの使用が不適切だったり不器用だったりなどのコミュニケーション不全で、世の中に適応できない状況が生じる。反面、筆談のホステスさんが、(もちろん美人だけど)コトバの力だけでナンバーワンになる。テレビで見たけど、彼女の受け答え、むしろ「切り返し」というべき返答は実に巧みである。小泉さんに似ていると思った。政治家と言えば、失言がこれほど批判される時代もないだろう。(養老先生も書いていたっけ。)イマドキ、「貧乏人は麦を食え」なんて言った分には、失言どころの騒ぎではないだろう。(って、その結果、どうなったか知らないけど。)マスコミ、ジャーナリズムが一般大衆を扇動するのも無理ないなと思う。(関係ないけど、マスコミ業界への就職は、かなり難しいのに、中に入っちゃうと、彼らは市区停止するのだろう。「大衆に迎合するために思考停止するがプロだ」と思いこまされるのだろう。彼らは何のために勉強をしたのだろう。)
なーんか、何もかもが同根だと思う。
実体よりも、とにかく、「コトバ」---それが病気の定義であれなんであれ---の定義が大事な時代になっているということだ。ネットの批判も言葉尻を捉えたものであることが多い。(関係ないけど、これからの国語教育は、言葉尻を捉えて云々というより、「言葉尻に囚われずに筆者の主張を読み取る」ことを目的にするのが良い。芥川や漱石のような完璧な日本語を教材に、正しいコトバの使い方を学ぶと同時に--書くためには、有用で必要なことだから--、読むためには、書かれたコトバをヒントにしながらもコトバそのものに囚われず、主張を汲み取る、みたいな読解方法である。私の経験では、本当にアタマの良い人は、必ずこれをしている。--これ、記事になりそうだな。説得力を持たせ世とすると、えんえん長くなるけど。)
「コトバ」のそもそもの役割は、「切る」ことであるから、言葉を使用し始めた人間にとっては必然と言えるかもしれない。
しかし、切って、切って、切って、どんどん切って、それでどうなるというのだろう。人間も自然も、もともとは「切れない」渾然一体としたものの一部で、それが生態系や地球環境、さらには宇宙を作り上げているのだから。「切る」のがデジタルで、渾然一体・グラデーションがアナログだとしたら、テレビのデジタル化も理解できる。もちろん、家電産業の経済効果を見込むという陰の理由もあるだろうが、なんというシンクロだろうと思う。
「切って分かったつもりになる」、「コトバがわかればわかったつもりになる」のは昔から常だから、ますます助長してきているということなのだろう。それだけ、日本人の(本物でないにしても)「教養」が大衆化してきたと言うことだろう。大学全入時代に入ってきているだけのことはある。
-----で、今読み返して、わかった。
なるべく細かく分類をして均質を求めることを目的にすると、実は、経済効果がある見込まれると言うことである。
だって、人は一人一人違う。それを「同じ形」、「同じ性質」にするためには、手を加えなければならない。これには、人手が掛かる。人手は、お金である。
健康志向もそうである。人は必ず病気になるのだから、「カネになる」のである。「美人」もそうである。美人は平均的な顔だから、自分の顔を平均のものにするためには手をかける、カネを掛ける。そのように、なるべく均質化をめざすと、お金が動くのである。もちろん、健康も美人も、要は、同質、均質には価値がある、という陰の価値観が存在しているから成立するお金の動きである。
教育に関して言えば、学力は、どういうわけか、教育だけは平均ではなく、高脂血症のような「偏差値が平均から大きく外れる」ことが目的とされる。養老先生が、東大医学部の偏差値は健康診断でいうと高血圧だみたいなことを書いていたのと同じである。それで、これはこれで無理な話である。
ただ、共通するのは、「一つの尺度」を重視する策が「カネになる」ということだ。全てが経済に集約されると言うことである。市場経済主義だね。
でも、そういえば、市場経済においては、お金こそが唯一無二の尺度である。グローバリズムである。しかし、そもそもお金とは、脳の神経細胞の信号が外に出たものだと言う。(養老先生ね、もちろん。)
その意味でも、まさに今は脳の時代なのだろう。脳は、全てを単一の電気信号に置き換える。
そうか。脳の時代はお金という単一尺度の時代だったということか。
人類の進歩は、平均的なレベルは、単一の尺度を求めるという、「わかりやすさ」に収斂するということなのだろうか。
それで、(ちょっと話が飛ぶけど、)お金以外のアナログな、生物としての「わけのわからないコトバの定義のしようがないところ」も脳の信号と同様に重視する人たちが、人類を超えて進化して生き残るかもしれないと思う。養老先生の「参勤交代」である。(あ、でも、コンピュータのデジタルも残りそうだから、「わかりやすさ」を求める方でもそれぞれで分岐して進化するということなのかな?)
決まりは決まりとして置いといて、適切な対応をする。簡単ではないですが、できなくもないこと、のはず。なんですが、こういうことが分からない人っているんですよね。
決して悪い人ではないのですが、ほりさんのいう偏差値55あたりの人、なのでしょうか。
思考が飛躍して、かなり書き足しました。
マニュアルが好まれるのと関連しますね。マニュアルは、「コトバ」で出来ていて、「決まり」ですから。
「適切な対応」は、そのときそのときで行うことだから、目的を明確化した上で応用するということかな。
偏差値55は、コトバが全て、習ったことが全てだと思い込みやすい。人の言うことはかなりわかるが自分では思考しないレベルでしょう。
イマドキの異様にパターン化させて学習させる学校教育が要因になっていると思います。こっちをなんとかするべきですよね。
やっぱり、センター試験がいけません。
結果は、ADHDとか診断することはできないが、一部に関しては気になる点もあるので、これこれを配慮してほしい、というものでした。(いわゆるグレーゾーン)
障がいがあるかそうでないか、で切るとするとこの場合は無い方に分類されるわけですが、だからといって実態がなんら変わるわけではないんですよね。それまで続けてきた配慮は、それからも引き続き必要なわけです。
ところが、行政側からすると全く問題ない子もグレーゾーンの子も一緒くたになるわけで、「この学校は障がいを持つ子が少ない」と判断されると教師や予算が減らされたりする。だから何とか、必要性を理解してもらうために概念とか線引きのルールができてくるんだと思うんです。
また、現場には変な平等意識があって、学習が困難な子どもの宿題を変更したり減らしたりすると、「贔屓だ」などといったクレームが来たりする。本人の親からも「うちの子が目立つと困るからやめてほしい」と言われたりして、ずいぶん悩みました。
結局「障がい」という言葉を使わずに、うまく説明するしかなかったのですが…。
以前はきちんと診断なりを受けて、その子に合った指導をしていくことが正しい、と思ってましたが、最近はそうでもないかなと思いだしています。
「障がいは個性だ」という言い方には引っかかりを覚えるのですが、大らかな意味でのそういう捉え方をして、その子に必要な配慮をしていくのが自然でいいのかもしれません。
それから、自分にもADHDやアスペルガ-の傾向があったのでは、と思うことがあります。発達障害の概念のかけらも無かった時代ですが、逆にそれが教育現場の大らかさにつながっていたようにも思えます。そうでなければ、私も今ごろ別の人生を歩んでいたかもしれません。
とくに、この切りかえし、
>学力は、・・・高脂血症のような「偏差値が平均から大きく外れる」ことが目的とされる。・・・ただ、共通するのは、「一つの尺度」を重視する策が「カネになる」ということだ。
でした。偏差値の内部じゃ平均から外れて65だ70だなどはとんでも数値、別格と思われてますが、なーに大したことじゃない。同じテスト(と想定)を受けて同じ模範回答のもとに標準化された数値と「才能」にすぎない。おなじチャートの上に平均化されていますよね。
で、この記事の内容は、社会の均質化圧力についてとも読めますか? っていうより、そう読みました(笑)。
そして社会の平均化圧力は、外界からの刺激をパチパチと単純に信号化したいものだと欲望する脳の本質的な働きによる? それが養老先生のお考え? 養老先生のお考えはモーローとしてしか理解できないので、ちょっとタンマにいたしますが。
しかし現代では、なにもかもドルや円のカネで価値を計る究極の均質化がドミナントに進行していますよね。4,5万円もあれば冷蔵庫も買えるし女性だって買えます(ほり先生はしらなくていいです)。これは幻想です。カネが蔓延させた幻想というより、そのなかで幸せに生きれる人々が全世界に撒き散らしてきた猛毒ガスだと思っています。じゃ、どうすれば? そこはまだ五里夢中。批判歓迎――。
(これだけで全部が読めてるわけじゃないです、くらいすごい記事です)
発達障害などの線引きは、本人のためと言うより、周りの都合で決まるようなものです。
「本人のため」には、様々な配慮をするだけになる、ただそれだけのことでしょうが、これがうまくいかない現実があるから、「線引き」になったのでしょうか。
配慮が「贔屓」と取られるのは、何だかとっても貧しさを感じて寂しいですね。他人がトクをするのは自分が損をすることだ、という観点で物事をとらえるのでしょう。(これも「お金」と同じようなとらえかたなのかしら?)
>大らかな意味でのそういう捉え方をして、その子に必要な配慮をしていくのが自然でいいのかもしれません。
グレーゾーンは「遊び」(「ハンドルの遊び」とかそういうの。)に似たものかもしれません。本当は、ないと困るのに、今は、ことさら意識的に、遊びをなくそうとしている。余裕がないからそうなのか、それとも遊びがなくなってきたから余裕がなくなってきたのか。
何にしろ、今の現場の状況を考えると、余裕がなさ過ぎます。子供も先生も。
>発達障害の概念のかけらも無かった時代ですが、逆にそれが教育現場の大らかさにつながっていたようにも思えます。
小学校の時、クラスに、言葉を話さない子がいました。知的な遅れもありました。でも、みんなふつーに遊んでいたし、あの子はそういうふうなんだ、と受け入れていました。
学芸会の劇で、全員が出たときでも、何人ものナレーターが並んで舞台に立ったとき、その一人として隣の子が一歩前に出てナレーションをしたとき、一緒に一歩前に出て。。もちろん、何も語りません。
人からいやがられることを何もしなかったからうまくいっていたのかなぁ。。。
今から考えると、不思議です。
お褒めの言葉をありがとうございます。
ほりは、記憶力は悪いのですが、関係なさそうなことに共通点を見出す抽象化能力はちょっとはあると思ってます。
で、荒唐無稽?なことを言って、ときどきバカにされます。でも、そういうのは、大方、私より頭の悪い(←客観的情報から判断して)人です。
06年6月21日に「美人顔と論理的思考の共通点」という記事を書いてます。それを思い出しました。あれ、けっこう自信作だったんだけど(笑)、反応がなくって。。。で、思い出させてくださってありがとうございます。
で、そう考えると、東大医学部は偏差値の分布の端っこになりますが、「誰が考えても必ずそうなる答え、論理」に行き着くので、美人顔と同じことになります。
>で、この記事の内容は、社会の均質化圧力についてとも読めますか? っていうより、そう読みました(笑)。
最初は、発達障害について書こうとしてたのですが、書くうちに、そういうところに行き着きました。
>外界からの刺激をパチパチと単純に信号化したいものだと欲望する脳の本質的な働きによる? それが養老先生のお考え?
養老先生は、脳は外界の刺激をすべて電気信号に変えると言ってます。確かに、光も音も、神経細胞の電気信号に変わる。
それで、それが脳のソトに出たのがお金である、と。だから、お金は、異質な、関係のないものをくっつける。1ヶ月の労働が米と野菜と家賃と洋服代と光熱費に変わる、みたいな。
で、この養老先生の考えを敷衍すると、発達障害も、上記の記事内容に繋がる、繋がざるを得なくなるわけです。
私は、かっこよく言うと、養老先生からは、メスの使い方を教えて貰ったような気になってます。応用が利くから面白いです。
田舎だったし時代も時代だったし、私達の学年の構成メンバーの良さもあってか、みんな自分を出し切ってた感じがします。というのは、喧嘩も派手だったし言い合いも凄かったし正にドラえもんのジャイアン、のびた、スネ夫、しずかちゃんが入り混じった感じでした。子供が子供であるのでADHDの子供はあまり目立たなかったのかもしれません。みんな朝早くから学校に行き外遊びをしていたし、夕方遅くまで外で集団で遊んでいましたね。
その当時は頭が良い子が尊敬の的だったから、すごく変わっていたり友達との遊びに入らず一人で本を読んでたりする子供(アスペっぽい子供)は、自分たちとは違う存在だと思っても憧れに近い感じだったと思います。
アスペの子がいたとしても頭が良ければストレスなのかな?ぐらいでちょっとしたパニックは気にしなかったと思います。
差別や区別される対象は、今思うとすごく嫌な時代とも言えるけど、
頭の悪い子供(LDの子も含まれていたかもしれません)、貧乏で汚い子供、家柄の悪い子供、だったような。
特にこの3つは揃っている事が多く差別の対象になってました。
でも、そういう子たちはとても我慢強く、イジメられても堪えていたし言い返したりもしていました。中には庇う子もいました。
差別や区別って時代が違ったり、地域によっても変わるものだと思います。
あの時代貧乏だったから貧乏を嫌悪したし、今の時代コミュニケーションがうまくとれないから、よりコミュニケーションの下手な人が嫌悪されるのかもしれませんね。
>喧嘩も派手だったし言い合いも凄かったし
小学校の頃、ギャングエイジの頃はすさまじく暴れまくっていましたね。私も思い出します。
低学年の頃は、まだ青洟を垂らしていた子もいました。でも、みんなによったりだったなぁ。ひどく田舎だったし。
近所には、遊具は多少あっても全く整備されていない公園があって、男の子はみんな野球。2塁ベースだったかな。とにかく、騒がしかったし、じっとしてなかったものです。
私の場合は、価値観や評価の尺度が単一ではなかった気がします。勉強ができるのも運動ができるのも、真面目なのも面白いのも、同様に評価がされていたような気がします。先生がそうだったし、子供もそうだった。
私はたぶん、しずかちゃんのような良い子じゃなかったから(苦笑)、今、それなりにマトモに暮らしているのは、小学校の先生や友達のおかげだと思ってます。
>あの時代貧乏だったから貧乏を嫌悪したし、今の時代コミュニケーションがうまくとれないから、よりコミュニケーションの下手な人が嫌悪されるのかもしれませんね。
ああ、そうかもしれませんね。
今は、しゃべりの時代だから。
テレビでしゃべってて「かむ」とバカにしてたり(まあ、プロだからなのかもしれないけど、テレビの価値観は世の中の価値観になるから。)、政治家が失言で失脚するのが当たり前だし。ブログの流行も、コトバだし。
腕の立つ職人も、芸術家も「しゃべり」でアピールをしないと、売れない。
ミロのビーナスが発見時に解説書なしでも高い評価を受けたことをもっと大事に考えて良いのではないかと思う。
またお気楽に遊びに来てください。