考えるのが好きだった

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絶対性が損なわれている今の教育

2013年07月14日 | 教育
 生徒が単語帳で単語を覚えようとしている。人前だから声は出ていないが、唇動いている。この生徒は伸びるだろう。
 アタマの良し悪しは、本当のところ、自分の能力がどうしたら伸ばせるかどうかを知っているかどうか、また、それを実現できるかどうかではないかと思う。(当たり前っちゃ、それまでだが。)
 結構アタマの良さそうな生徒でも、近頃では「先生、この答えは、〇ですか、×ですか?」と評価を問うてくる。素直な教師は、ついつい、〇だの△だの、×だのと答える。

 〇×なんて、どうでも良いじゃないか。
 それより大事なのは、美しい答えか、どのように正統な思考法でどこまで辿って得た解答かどうかであろう。

 美しい答えしかない答案の束の中に醜い答えが混ざってたら、何らかの減点対象になるだろう。無回答や稚拙な答案の中に混ざっている醜い答えは得点されるだろう。満点にさえなるかもしれない。「点数」というのは、絶対的な尺度ではなく、あくまでも相対的な尺度でしかない。点数なんて、〇×なんて、所詮はそんなものだ。
 生徒が目指すべきは、解答をより美しいものにするべく、より正統に思考する術を獲得すべく、精一杯努力することだけである。

 近年の学習で最も忘れられているのがこれではないかと思う。
 こうした方策は、偏差値が30であろうと50であろうと、あるいは、70であろうと80であろうと、まったく同じである。

 しかし、強硬な反対意見がある。
 「それでは生徒のやる気なくなるだろう。だから、そのたび毎に適切に評価してやることが重要である。」

 私は学校とは一般社会と異なる異様なところだと思う。
 通常の社会は、皆が納得していれば、それで皆の生活が何とかうまくいけば何だって許される側面がある。しかし、学校は、ちょっと、いや、だいぶ違うと思うのだ。
 皆が正しい、皆がそれで良いと思ったことであっても、ダメだとされることがたくさんある。「勉強」とは常にそういうものなのだ。皆の答えが一致したからそれが正しい答えという言うことにはならない。「点数」にしても、実は同様である。模擬試験の採点が、この何年かでかなり甘くなっている。とんでもないところで部分点を付けている。でなければ、生徒か誰かわからないが、要は、苦情が来るのであろう。自分では結構できたと思うのに点がなければ面白くない、ならば中間点でも欲しい、自分が満足したいのだ。

 こうした問題の根源にあるのは、相対性と絶対性の絡み合いだろう。
 学問という絶対を教える場に、人間という相対的な価値観が入り込んできて大手を振るい始めたのだ。相対性とは。言い換えれば「各人が納得するかどうか」「他人を納得させられるかどうか」だろう。
 「納得」が今の時代の大きなキーワードなのだろう。「コミュニケーション能力重視」も、要は、他人にいかに自分の言い分を受け入れさせるか、という「納得」という観点に帰結しうる。

 しかし、勉強を教えて言えるのは、生徒が納得しようとしなかろうと、間違いは間違いで、正しいことは正しいという何らかの絶対的な判断である。しかし、たとえば「達成感」とか「わかりやすいことはいいことだ」など、ある一面では当てはまるが、長期的に多面的にとらえれば必ずしもそうではない事実の洗礼を受けてこなかったかのようなイマドキの子供たちには、こうした「絶対性」はなかなかわかってもらえないもののように思われる。
 
 で、こうした凹みは、僅かな欠損のようなものではあるものの、日本中にはびこる黴のように菌糸を伸ばし、あちこちで胞子を飛ばしているような気がしてならない。
 それが、他人の評価でしか動けない子供たちを量産し、本来なら、自分の判断で十分動ける子供たちの能力をも損ね、なんだかよくわからない付和雷同の気分で動く国民性を生み出し、今の時代を作っているのだろうなぁと、この数十年の教育を顧みて思う。



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