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試験勉強と試験対策は違う

2013年07月21日 | 教育
 試験の前には勉強をするのが当たり前だ。
 ここで、2通りの考え方が生じる。一つは、試験の結果は「点数」で表示されるから、なるべく良い点数を獲得するためにはどうしたら良いかという考え方で、もう一つは、試験の種類が何であれ、自分が習得すべきことを確実にし、かつ、深めることができるかという考え方である。
 両者とも「試験の前にしっかりと勉強をする」という観点では何も変わらない。しかし、全く異なる。
 いわゆる「ヤマを掛ける」は、前者である。試験に出そうなことを勉強して出そうにないことは後回しにするか、あるいは手を付けない方法だ。「傾向と対策」も同様である。試験の傾向、つまり、試験に出そうなことを中心に学習するという対策である。「ヤマを掛ける」は、定期試験のように試験範囲があまり多くなく出題が限られているときの方法である。「傾向と対策」は過去問など既に何がどのように出題されるかがわかって可能になる方法である。
 他方、後者は、何が出るかわからないから、どんな問題がどのような方法で出題されようと対処できるように勉強をするものだ。ひょっとしたら「点数」にはつながらない事項であっても振り返って基礎基本を確実にすることを重視するわけである。
 
 さて、賢明な読者諸氏は、この後に続く文章展開はもうおわかりだろう。

 前者の「試験対策」は、目先の勉強だから、点数獲得という観点で効果が高い。英語なら試験に出る単語を中心に勉強をしたり、出題傾向に合わせた勉強である。定期試験だったら、〇〇先生が出題なら、こうした対策をすると良い、などで点数を稼ぐわけだから、もし、問題の傾向が変わりでもしたら、「こんなはずではなかった」ということになりかねない。
 後者は、懸命に努力したことが必ず点数に結びつくわけではないものの、底力を問う問題が出題されると強い。そのときのその試験にはいわば「役に立たなかった勉強」が次の試験に役立つと言うことがあり得る勉強方法である。

 もし、その試験が「最終の試験」ならば、あるいは、(ここが重要であるが、)学習すべきことがその後なにもないのならば、重要なのは圧倒的に「試験対策」であることはいうまでもない。しかし、試験がまだまだ続く、また、試験の後も学習が続くのであるなら、重要なのが上記、後者で示した試験勉強である。

 近頃の流行は、高校生、中学生はもちろん、小学生までもが、まるでそれが「最終の試験」であるかのような「試験対策」が試験のための勉強であると、場合によっては指導さえされて行われていることだ。点数が目的だから、合目的的に、点数につながりにくいものは、捨ててしまうのが賢い方法になる。
 
 今も昔も、ヤマを掛けた勉強はあった。やりきれないと、「捨てる」という考え方もあった。しかし、そうした行為は明らかに意識的で部分的なものだったように思う。「復讐にこんなに時間がかかると思わなかった」というただの「時間切れ」、要は、試験対策を目的にした勉強だったと言うより、何もしないうちに終わってしまった、などが多かった。ところが近年は、勉強をしなければならないと思っているほとんどすべての生徒のすべての思考の根幹に「試験対策」が重要だという考え方が根付いているように感じる。どんな対策をして良いのかわからなかったから勉強ができなかった、みたいな。ただの時間的な制約と言えないように感じるのだ。
 
 学生なら、学習者なら、まして、高校生なら、試験勉強をせよ、試験対策ではない試験勉強をせよ、と思っている私は、ああ、イヤだなぁ、と思う。

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