円周率を習ったとき、3.141592・・・という数がとても奇妙に思われた。
「3」だと、正6角形の周囲と同じである。だから、「0.14」分が周りのまるく弛んだ分になる。図を書いて長さを測って、算数の時間にそんな風に習った気がする。しかし、「弛んだ分」ってのが、何だかすっきりしない。数値に「終わりがない」状況が理解できない。省略しても3.14である。ちっとも「きれい」じゃない。
何だかよくわからない。何か落ち着かなくて気分が悪い。
しかし、もし、これが「約3」だったらどうだろうか。
「3」と「約3」の差がどうやって教えられるのか私は知らないが、「0.14」という具体的な数字で突きつけられる「わからなさ」や気分の悪さはあるまい。
小学生の時は、3.14でやってきたと思う。(違うかな?)で、中学に入って(だと思うけど)「π」を習った。3.141592・・では、具合が悪いから文字に置き換えた方がいいというのは理屈で理解できた。しかし、実のところは腑に落ちない。だから、私は、πが出てくると、慣れるまでいつもアタマの中に3.14の具体的な数字を思い浮かべた。文字式は難しい。数値が文字で表現される分だけ抽象化が高まるから難しいのだろう。
勉強を教えるときでも習うときでも、重要視されるのは「わかること」である。「わかる」ために先生は一生懸命に教え、生徒は学ぶ。「わかること」は目標である。
円周率を「約3」にしたのも、「わかる」ための処置だろう。もし私が「約3」で習っていたとしたら、これほど気分悪く感じなかったのではないかな。「すっきり」していたのではないかな。何の疑問もなく。それで、「わかる」という目標に到達したことだろう。
しかし、勉強をする上で本当に大切なことは、むしろ、逆ではないか。端的に言って、「わかる」のを目指すと言うより、「わからない」というアタマの状況をいかに受け入れ保持するかの方が私は遙かに重要な課題ではないかと思う。
もちろん、「わからないこと」が「わかる」ようになるのは勉強によってであり、勉強は「わからないこと」を「わかる」ようにするためのものであることに間違いはない。だからといって「わかること」を目標にするのは、私は一時の便宜にすぎないと思うのだ。
「わかること」が目的であるなら、学習活動は「わかった」段階で完結する。しかし、勉強に「これで終わり」はない。学習活動は引き続き行われなければならない。終わらせないためには、「わからない」状態が続かなければならないではないか。
世間でも「人生一生が勉強だ」という言葉を耳にする。学問の世界は尚更だ。宇宙船を飛ばして未知を探る一方、見えるわけがない量子の世界を垣間見る。(ボーズ・アインシュタイン凝縮なんてこの典型だろう。)時間軸にあっても過去を遡り未来に臨む。自分自身も対象だ。
「学校の勉強なんて役に立たない。」と言われがちの世間にあっても、次から次へと「未知」が人に襲いかかってくる。「わからない」という言葉で意識することはまれかもしれないが、「じゃあ、どうしよう」という事態に我々はしばしば直面するではないか。(「じゃあ、どうしよう」は、「わからない」の実践形(?)だな。)
学問の世界にあっては言うまでもない。「わからないこと」の連続である。なぜなら、一つめの「わからないこと」が解決されると、次の「わからないこと」がすぐそこに待っているからだ。それで、「わからないこと」はどんどん続いていく。この追求こそが、まさに学問である。
たぶん、人間はそうやって様々な「わからないこと」に挑んできた。それで、推測だが、「わからないこと」に挑んで少し解決をし、それに飽きたらずに更なる「わからないこと」に挑み続けてきた人たちこそが文明を築き上げ、人間としての何らかの特質を発揮して生き残ってきたのではないだろうか。「わからないこと」は、日々の生活上のこともあり、生活と離れた学問上のこともあり、両者に明確な区別はなかっただろう。
何にしろ確実に言えるのは、ここに「わかった」という「安心」がないことである。
正確には、一瞬「わかった」と安心することはあっても、すぐ前に次なる疑問の「わからないこと」が厳然と存在することである。だから、うかうかしてはいられない。
それでは、解決した途端に、なぜ、「次なる疑問」が待っているのだろうか。
答えは決まっている。最初から「次なる疑問」があったからに他ならない。
では、なぜ、「次なる疑問」が最初からあったのか。
それは、最初の疑問が、途方もなく大きな疑問の一部であることが既にわかっていたからである。
「わからないこと」と同義の「疑問」は、世間であれ学問の世界であれ、並列的に存在するのではなく、何かしら重層的な構造をなしているのではないかと思う。
まるで海に浮かぶ氷山のようなものである。水中に巨体を秘め、小さな頭を出している。「わかる」とは、水面に出た部分を削り取るようなものかもしれない。ところが、元々がでっかい氷の塊だから、またすぐに水に浮かび上がってくる。「次なる疑問」がそれである。おそらく、この氷山は途方もない大きさなのだろう。人類の叡智では畏れ多くも解ききれないものに違いないのである。
子どもに教育を施すとは、氷山の一角に触れさせることではないかと思う。大昔だったら、水汲みや火熾しなどの生活の知恵から呪術や儀式に関わることもあっただろう。現代においては、読み書き計算を始めとする、文化的社会的生活の基盤たる知識の数々であろう。子どもは大人から学び、中には長ずるにつれそれらを発展させてきた者がいた。(だから、現代の生活がある。)
いずれにしろ大事なのは、かつて子どもは、ものを学ぶとき、それが氷山の一部に過ぎないことを、まだまだ未知なる大きなものがあることを知りつつ学んできたということではないか。
それは、大人もそうだったから、出来たのだろう。
つい近年まで、我々は皆自然に囲まれて暮らしてきた。自然現象であれ何であれ、不可解な「未知」が、誰の周りにも間近に存在していた。自分の手で制御できることは少なく、制御できないことの方が遙かに多かったはずだ。
ところが、現代社会においては、(養老先生のおっしゃる)都市化が進み、人は辺りのもの全てが制御可能なものであるかのような錯覚に陥ったのだ。大人のこの感性が子どもの教育に投影されないはずがない。その具現化が、たとえば上述した「円周率は約3」を始めとする「わかりやすさ」重視の近年の方策ではないか。まるで何もかもが「すっきり」安定して意識の範囲内に収まるかのように。
それは、私が円周率に感じた気分の悪さや落ち着かない気分とは縁遠い「安心」できる「すっきり感」である。予見可能性に満ちた「ああすればこうなる」という養老先生の言葉に通じるだろう。これが「わかりやすさ」を求めて当然とする「現代という時代」の正体ではないか。
「明るい開放感のある真っ白なリビング」が宣伝文句になるマンションである。内田先生がブログで書いていた(と思う)、白々と明るい世界でなされた人殺しの「異邦人」である。つるりとしてきれいなプラスチック製品の感触である。それはくみ取り式トイレやひんやりとした土蔵の持つ暗闇やにおい、「学校の木の机」が持つ風合いがない世界である。
このように考えると、子どもに四書五経を暗唱させる教育が理にかなっているのがよくわかる。
子どもは、難解な詩句を暗唱させられてわかった試しはないだろう。それでも、調子の面白さは本能的な語感からわかっただろう。大人のちょっとした解説でわかるものがあったのかもしれないが、わからないことの方が遙かに多かったに違いない。しかし、どの子どもも、そこには、自分にはまだ幼すぎてわからないが、何かしら崇高なものがあると感じることが出来ただろう。繰り返し暗唱し、心に刻み込む。やがて、自分一人の力で少しずつわかってくるものが出てくる。それでも時を経て大人にならないとわからない文言が大半だっただろう。いつまで経ってもわからないものもたくさんあっただろう。
大事なのは、この「わからない」という感覚が子どもの日常に大きく関与しただろうということだ。子どもの世界は、遊びと勉強、日常の生活のすべてが等しい価値を持っている(と思う)。遊びは勉強であり、勉強も遊びであり、生活が勉強であり遊びになる世界で暮らしている子どもにとって、全くワケのわからないモノの存在は、その子どもが関与する全世界に影響を及ぼすだろうということだ。だから、そういう教育を受けて育った子どもは、「未知」を自分の世界から排除するようなことはあるまい。「わからない」ことを「わからない」まま自らの中に留めておく余裕を持つに違いない。
ここに、「わかりやすさ」を求める態度は、早急にわかろうとする態度は、ない。自分が卑小な存在であることを、「未知なるもの」に溢れた広大無辺の世界をありのまま、わからないまま受け入れていたはずだ。それで、子どもとは受け入れる能力にかなり長けた存在であろう。
本当に自分のものにしていく勉学は、常に「未知」に対する畏敬の念を内在させる姿勢である。今どきの子どもが持つ、特に能力が高くない子どもが持つ全能感とは全く逆方向の、外界に大きく開かれた態度である。私は先ほど「ありのまま」という言葉を使った。これは、今どきの子どもが自分に対して使うのとは全く逆の意味での「ありのまま」である。
子どもの持つ能力は柔軟性が高く、「能力がどの方向にどれだけ伸びていくかわからない」という点での力は、言うまでもなく大人を凌ぐ。こういった予見不能、制御不能な子どもの能力は、実は、都会化した大人をひどく懼れさせるのではないか。それが、「子どもという自然」を「ないもの」と見なし、現代という社会は表面上は子どもを大切に扱っているかのように振る舞いながら、実は子どもに強い制約を与えて子どもを蔑ろにしようとしていると言っても言い過ぎではなかろう。(現代社会が子どもを大事にしないのは養老先生もおっしゃることだ。)
「わかりやすい授業」が賞賛されるのは、ひょっとしたら、こういった大人の懼れの異形としての欲望が奥底に潜んでいるという「カラクリ」があるのではないか。それが、「未知」に対する柔軟性に欠けた子ども、学ぼうとしない、つまり、「わからないこと」を排除することによって自分にわからないことはない、わからないことがあるとしたらそれは周りが悪いからだと考える全能感に満ちた子どもを産み出すことになったと考えられないだろうか。
以上、推論めいたことも書いた。どの程度正しいかどうか私にはわからない。しかし、いずれにせよ、子どもが外界に自分を開き、いつの時代においても祖先がそうしたように我々が「未知」に向かっていくには、「わからない」ことを常に内に持っていることでしかなし得ないのではないか。
だから、勉強は、あまり「わかりやすさ」を重視する目的で安易な方向に流さない方が良い。「わかる」のは、一時の方便に過ぎないからである。
子どもの能力は高い。我々大人以上の吸収力で、大人も気が付かない「未知」を感じ取っていくはずだ。大人はもっと子どもの力を信頼して「わからなさ」に耐えさせるべきであろう。逆に言えば、大人は自分自身の「安心」のために「わかりやすさ」を子どもに与えてはいけないのである。
「3」だと、正6角形の周囲と同じである。だから、「0.14」分が周りのまるく弛んだ分になる。図を書いて長さを測って、算数の時間にそんな風に習った気がする。しかし、「弛んだ分」ってのが、何だかすっきりしない。数値に「終わりがない」状況が理解できない。省略しても3.14である。ちっとも「きれい」じゃない。
何だかよくわからない。何か落ち着かなくて気分が悪い。
しかし、もし、これが「約3」だったらどうだろうか。
「3」と「約3」の差がどうやって教えられるのか私は知らないが、「0.14」という具体的な数字で突きつけられる「わからなさ」や気分の悪さはあるまい。
小学生の時は、3.14でやってきたと思う。(違うかな?)で、中学に入って(だと思うけど)「π」を習った。3.141592・・では、具合が悪いから文字に置き換えた方がいいというのは理屈で理解できた。しかし、実のところは腑に落ちない。だから、私は、πが出てくると、慣れるまでいつもアタマの中に3.14の具体的な数字を思い浮かべた。文字式は難しい。数値が文字で表現される分だけ抽象化が高まるから難しいのだろう。
勉強を教えるときでも習うときでも、重要視されるのは「わかること」である。「わかる」ために先生は一生懸命に教え、生徒は学ぶ。「わかること」は目標である。
円周率を「約3」にしたのも、「わかる」ための処置だろう。もし私が「約3」で習っていたとしたら、これほど気分悪く感じなかったのではないかな。「すっきり」していたのではないかな。何の疑問もなく。それで、「わかる」という目標に到達したことだろう。
しかし、勉強をする上で本当に大切なことは、むしろ、逆ではないか。端的に言って、「わかる」のを目指すと言うより、「わからない」というアタマの状況をいかに受け入れ保持するかの方が私は遙かに重要な課題ではないかと思う。
もちろん、「わからないこと」が「わかる」ようになるのは勉強によってであり、勉強は「わからないこと」を「わかる」ようにするためのものであることに間違いはない。だからといって「わかること」を目標にするのは、私は一時の便宜にすぎないと思うのだ。
「わかること」が目的であるなら、学習活動は「わかった」段階で完結する。しかし、勉強に「これで終わり」はない。学習活動は引き続き行われなければならない。終わらせないためには、「わからない」状態が続かなければならないではないか。
世間でも「人生一生が勉強だ」という言葉を耳にする。学問の世界は尚更だ。宇宙船を飛ばして未知を探る一方、見えるわけがない量子の世界を垣間見る。(ボーズ・アインシュタイン凝縮なんてこの典型だろう。)時間軸にあっても過去を遡り未来に臨む。自分自身も対象だ。
「学校の勉強なんて役に立たない。」と言われがちの世間にあっても、次から次へと「未知」が人に襲いかかってくる。「わからない」という言葉で意識することはまれかもしれないが、「じゃあ、どうしよう」という事態に我々はしばしば直面するではないか。(「じゃあ、どうしよう」は、「わからない」の実践形(?)だな。)
学問の世界にあっては言うまでもない。「わからないこと」の連続である。なぜなら、一つめの「わからないこと」が解決されると、次の「わからないこと」がすぐそこに待っているからだ。それで、「わからないこと」はどんどん続いていく。この追求こそが、まさに学問である。
たぶん、人間はそうやって様々な「わからないこと」に挑んできた。それで、推測だが、「わからないこと」に挑んで少し解決をし、それに飽きたらずに更なる「わからないこと」に挑み続けてきた人たちこそが文明を築き上げ、人間としての何らかの特質を発揮して生き残ってきたのではないだろうか。「わからないこと」は、日々の生活上のこともあり、生活と離れた学問上のこともあり、両者に明確な区別はなかっただろう。
何にしろ確実に言えるのは、ここに「わかった」という「安心」がないことである。
正確には、一瞬「わかった」と安心することはあっても、すぐ前に次なる疑問の「わからないこと」が厳然と存在することである。だから、うかうかしてはいられない。
それでは、解決した途端に、なぜ、「次なる疑問」が待っているのだろうか。
答えは決まっている。最初から「次なる疑問」があったからに他ならない。
では、なぜ、「次なる疑問」が最初からあったのか。
それは、最初の疑問が、途方もなく大きな疑問の一部であることが既にわかっていたからである。
「わからないこと」と同義の「疑問」は、世間であれ学問の世界であれ、並列的に存在するのではなく、何かしら重層的な構造をなしているのではないかと思う。
まるで海に浮かぶ氷山のようなものである。水中に巨体を秘め、小さな頭を出している。「わかる」とは、水面に出た部分を削り取るようなものかもしれない。ところが、元々がでっかい氷の塊だから、またすぐに水に浮かび上がってくる。「次なる疑問」がそれである。おそらく、この氷山は途方もない大きさなのだろう。人類の叡智では畏れ多くも解ききれないものに違いないのである。
子どもに教育を施すとは、氷山の一角に触れさせることではないかと思う。大昔だったら、水汲みや火熾しなどの生活の知恵から呪術や儀式に関わることもあっただろう。現代においては、読み書き計算を始めとする、文化的社会的生活の基盤たる知識の数々であろう。子どもは大人から学び、中には長ずるにつれそれらを発展させてきた者がいた。(だから、現代の生活がある。)
いずれにしろ大事なのは、かつて子どもは、ものを学ぶとき、それが氷山の一部に過ぎないことを、まだまだ未知なる大きなものがあることを知りつつ学んできたということではないか。
それは、大人もそうだったから、出来たのだろう。
つい近年まで、我々は皆自然に囲まれて暮らしてきた。自然現象であれ何であれ、不可解な「未知」が、誰の周りにも間近に存在していた。自分の手で制御できることは少なく、制御できないことの方が遙かに多かったはずだ。
ところが、現代社会においては、(養老先生のおっしゃる)都市化が進み、人は辺りのもの全てが制御可能なものであるかのような錯覚に陥ったのだ。大人のこの感性が子どもの教育に投影されないはずがない。その具現化が、たとえば上述した「円周率は約3」を始めとする「わかりやすさ」重視の近年の方策ではないか。まるで何もかもが「すっきり」安定して意識の範囲内に収まるかのように。
それは、私が円周率に感じた気分の悪さや落ち着かない気分とは縁遠い「安心」できる「すっきり感」である。予見可能性に満ちた「ああすればこうなる」という養老先生の言葉に通じるだろう。これが「わかりやすさ」を求めて当然とする「現代という時代」の正体ではないか。
「明るい開放感のある真っ白なリビング」が宣伝文句になるマンションである。内田先生がブログで書いていた(と思う)、白々と明るい世界でなされた人殺しの「異邦人」である。つるりとしてきれいなプラスチック製品の感触である。それはくみ取り式トイレやひんやりとした土蔵の持つ暗闇やにおい、「学校の木の机」が持つ風合いがない世界である。
このように考えると、子どもに四書五経を暗唱させる教育が理にかなっているのがよくわかる。
子どもは、難解な詩句を暗唱させられてわかった試しはないだろう。それでも、調子の面白さは本能的な語感からわかっただろう。大人のちょっとした解説でわかるものがあったのかもしれないが、わからないことの方が遙かに多かったに違いない。しかし、どの子どもも、そこには、自分にはまだ幼すぎてわからないが、何かしら崇高なものがあると感じることが出来ただろう。繰り返し暗唱し、心に刻み込む。やがて、自分一人の力で少しずつわかってくるものが出てくる。それでも時を経て大人にならないとわからない文言が大半だっただろう。いつまで経ってもわからないものもたくさんあっただろう。
大事なのは、この「わからない」という感覚が子どもの日常に大きく関与しただろうということだ。子どもの世界は、遊びと勉強、日常の生活のすべてが等しい価値を持っている(と思う)。遊びは勉強であり、勉強も遊びであり、生活が勉強であり遊びになる世界で暮らしている子どもにとって、全くワケのわからないモノの存在は、その子どもが関与する全世界に影響を及ぼすだろうということだ。だから、そういう教育を受けて育った子どもは、「未知」を自分の世界から排除するようなことはあるまい。「わからない」ことを「わからない」まま自らの中に留めておく余裕を持つに違いない。
ここに、「わかりやすさ」を求める態度は、早急にわかろうとする態度は、ない。自分が卑小な存在であることを、「未知なるもの」に溢れた広大無辺の世界をありのまま、わからないまま受け入れていたはずだ。それで、子どもとは受け入れる能力にかなり長けた存在であろう。
本当に自分のものにしていく勉学は、常に「未知」に対する畏敬の念を内在させる姿勢である。今どきの子どもが持つ、特に能力が高くない子どもが持つ全能感とは全く逆方向の、外界に大きく開かれた態度である。私は先ほど「ありのまま」という言葉を使った。これは、今どきの子どもが自分に対して使うのとは全く逆の意味での「ありのまま」である。
子どもの持つ能力は柔軟性が高く、「能力がどの方向にどれだけ伸びていくかわからない」という点での力は、言うまでもなく大人を凌ぐ。こういった予見不能、制御不能な子どもの能力は、実は、都会化した大人をひどく懼れさせるのではないか。それが、「子どもという自然」を「ないもの」と見なし、現代という社会は表面上は子どもを大切に扱っているかのように振る舞いながら、実は子どもに強い制約を与えて子どもを蔑ろにしようとしていると言っても言い過ぎではなかろう。(現代社会が子どもを大事にしないのは養老先生もおっしゃることだ。)
「わかりやすい授業」が賞賛されるのは、ひょっとしたら、こういった大人の懼れの異形としての欲望が奥底に潜んでいるという「カラクリ」があるのではないか。それが、「未知」に対する柔軟性に欠けた子ども、学ぼうとしない、つまり、「わからないこと」を排除することによって自分にわからないことはない、わからないことがあるとしたらそれは周りが悪いからだと考える全能感に満ちた子どもを産み出すことになったと考えられないだろうか。
以上、推論めいたことも書いた。どの程度正しいかどうか私にはわからない。しかし、いずれにせよ、子どもが外界に自分を開き、いつの時代においても祖先がそうしたように我々が「未知」に向かっていくには、「わからない」ことを常に内に持っていることでしかなし得ないのではないか。
だから、勉強は、あまり「わかりやすさ」を重視する目的で安易な方向に流さない方が良い。「わかる」のは、一時の方便に過ぎないからである。
子どもの能力は高い。我々大人以上の吸収力で、大人も気が付かない「未知」を感じ取っていくはずだ。大人はもっと子どもの力を信頼して「わからなさ」に耐えさせるべきであろう。逆に言えば、大人は自分自身の「安心」のために「わかりやすさ」を子どもに与えてはいけないのである。
あ、ちなみに、力作エントリにはあまりコメントが付かないの法則、知ってました?
嘘・笑。
最近の子は、「躾」レベルができてないのが原因でもあるのでしょうか、視聴覚機器の影響でしょうか、「読み」の指導を根本からする必要があるのかもしれませんね。小中学校でやるべきことのように思いますが、そのレベルでの指導の有無は、子どもの人生に、決定的な影響を与えますよ。
「読み」にも臨界期ってあるんじゃないかなぁ。。。昭和40年代初め頃には、まだ大人の人でも新聞を音読する人の姿を時々見かけました。今どきはそんな人、いないもの。
>>あ、ちなみに、
・・・うすうす気付いてましたわ。(笑)
重ねて、どうもありがとうございます。
「わからない」ことがわかり、なんとか自力で「わかる」体験を少し得られるようになるのは高等学校くらいからだったように思います。
それまでは算数で言えば「証明問題」やら国語の「作者の隠された気持ち」が好きで、そればかり目がいっていた答え探しのガキであった私は、あまり「わからない」ってことがわからないヤツで、周りに迷惑をかけたことを思い出しました。
「わからなさ」を耐えさせるというのは面白い表現です。
話はそれますが、最近、小学生を見ていて、「わかる」ものを「わかろうとする」ってことも体験の積み重ねが必要なのだなと思っています。
あれ?なんか書いていて・・・。
すいません、わかりにくコメントで。
モノを論じるとき、人の考えを理解するとき、何を基盤にモノを言っているかを、つまり、藤原先生の言う「公理」を問題にしないと論じることが出来ないなと思って、追加記事を書きました。
私は、算数では、小学4年で習った、2台の列車がすれ違ったり追い越したりする問題、「何秒かかりますか」ってやつがわかりませんでした。(大きくなって物理が出来なくて当然だぁ。)小学生の時からしょっちゅう「わからない」とか「そりゃ変だ」と思ってました。
>>「わかる」ものを「わかろうとする」ってことも体験の積み重ねが必要なのだなと思っています。
はい。私はそれこそが脳を育てる勉強だと思うのは新しい投稿記事に書いたとおりです。
「わからなさ」を分かる。
これまさに芸術だと思いました。
ちなみに僕は、劇団の代表をしております。
芸術って、わからないこと、多いですよね。
芸術には「感性」と呼ばれる芸術の論理があり、(論理は了解だから)了解されないと「わからない。」
で、自然にも何にでも本当は「論理」が隠れている。(ニュートンさんやメンデルさんらのお陰で一部露わだけれど。)ただ、人間は、全てをわかっていない。
う~ん、凄いなぁ。。。と、私は感動します。でも、生徒は余り感動してくれません。
最近ご無沙汰ですが、私は能楽に興味がありました。身体芸術としての舞台芸術が好きって感じで。役者そのものと役柄の調和、身体表現あるいは、身体に表出される人間そのものを見に行っていたって感じでした。(で、能舞台ってのは、立体的だから凄く面白いんですよね。)
演劇における身体性って、劇団によってやはり捉え方は変わるのでしょうか。身体を見せる芸術(別に裸体とかそういう表面的なものじゃなくて)か、何らかの主張を見せるのか。役者さんたちはどんな意識なのかなって思ってたことあります。
今後もどうぞ、いつでもお気軽にお越し下さい。
(ご友人さまによろしく。)
こちらの文章は、はてなのサービスを使った「はてなブックマーク」に記憶させていたもの。
あい、↑の「ご友人さま」はワタクシです。
「ayanogi」、ブログ初心者でありまして、URLを入れていかなかったのは、入れていかなかったのか、入れ方わかんなかったのか、ちょっと定かじゃないです。
いや、どっちだろ。
ま、どっちにしても、アドレス、置いていっちゃいます。
「芸術」として、わからないことと格闘してるとこなんてのを、のぞいてやってください。
http://d.hatena.ne.jp/ayanogi/
ご友人って、S嬢さんだったんですかー。私も時々拝見させて頂いています。
ayanogiさんのとこ、早速行ってました。プロフィールから見ると、ひょっとして、何年か前に、私、拝見してるかもしれません。
「芸術」って、特に舞台芸術は、相手(俳優)と自分(観客)が織りなすハーモニーって感じが強く、かつ、時間と空間の制約を強く受けるから、難しい。常に動いてる。で、のめり込むと、それが面白かった。
で、自分もやってみたくなるんですよね、きっと。カラダとカラダで反応が起こってくるのかな??