木村草太の力戦憲法

生命と宇宙と万物と憲法に関する問題を考えます。

判例評釈における二つの型

2012-01-12 10:08:44 | 憲法学 判例評釈
採点実感の解説をはじめたところ、
思いの外、盛り上がってしまい、
こうなったら、最後まで頑張ろうとよく分からない
ハイな気分でございます。

自分の中では、おとといの名人戦が折り返し地点なので、
ちょっと、休憩(昨日の記事も休憩と言えば休憩ですが)がてら、
今日は採点実感の解説をはなれて、雑感を書いてみます。

このブログをご覧の方は、
「法律に興味はあるが必ずしも司法試験受験生ではない」という方もいらっしゃると
思われますので、こういう話で休憩するのもいいかな?と・・・・。




話は、一分将棋から始まります。
将棋では、NHK杯のような短期決戦はもちろん、
名人戦のように長い持ち時間がある将棋も
最後は、一手一分以内という過酷な状況で指すことになります。

一分将棋の状況では、
トップ棋士といえども、必要なだけの明確で深い読みを入れることはできないでしょう。
もちろんできる範囲で読みを入れるはずですが、
直感とか、第一感と呼ばれる、ただ思いついた手を指す
ということも多いはずです。

しかし、この、ただ思いついただけの手が
後から時間をかけて検証してみると、極めて正確な最善手である
ということも多いわけです。


さて、私は裁判官の書く判決は、実はそれに近いと思っています。

裁判官の方が一時に抱える事件の数は数百に上ることもあると言われ、
一つの事件にかけられる時間は、限られています。
もちろん、読める範囲で文献を読み、過去の判例との整合性を考え
という作業はするはずですが、
それでも、直感のようなものに頼って書く文章というのが増えるはずです。
(そもそも、法解釈であり得る議論は将棋の手に匹敵するくらい
 可能性があるはずで、全て検証する時間は、
 どんなにあっても足りないわけです。)

しかし、そうした文章をあとから学者や法曹が検証してみると、
恐ろしく正確で、理論的であることも多いわけです。

これは、現場で事件と向き合っている緊張感から生まれるものでしょう。

一方で、現場をはなれた最高裁の裁判官が
あの事件はこうだった、みたいな話をする、
つまり後から議論を構成すると、
曖昧であったり、緊張感が欠けた話だったりして、
しらけてしまうということも多いわけです。
(一分将棋の妙手について、棋士の方に質問して、
 「え、いや、なんかこの銀が嫌だと思って。
  いや、よく分からなかったんですけど・・・。」
 みたいな解答が帰ってくるときと似ています。


こうした考えを前提に、学者の先生がやる判例評釈について考えてみます。

判例評釈には、古来、判民型と非判民型があるとされます。

非判民型というのは、判例に対し、
自分ならこの事件をこう処理するという議論を提示して、
判例と同じなら支持、違うなら批判をするものです。
(判断代地というのとよく似てますね)

これに対し、判民型というのは、
東京大学判例研究会という研究会が執る手法とされています。
この研究会の成果は、法学協会雑誌という東大の紀要に掲載されます。
(法学協会雑誌掲載の評釈の全てがこれである
 というわけではなく、ある種の理念型とお考えください)

この手法は、判例を支持するのではなく、
「この判例は、正しいことを言っている」ということを前提に、
何を言っているかを明確にする、
論理が十分に書いてないところは、
合理的に議論を構成して、論証を埋め、
射程を画定するという手法です。

判例に対し、支持とか批判とか、そういうことは言いませんが、
他方で、その判決を書いた裁判官が、
書いているとき何を考えていたのかを理解しようとする作業ではありません。

先ほど言ったように、判決文を書くときの思考というのは
取り出して見ても、「なんとなくこの銀が」的な切羽詰まった
ものが多いはずで、それを示しても特に有意義ではないわけです。

というわけで判民型の評釈は、
その時、裁判官の頭でどんな思考があったかを探求しても
大して何もでてこないだろうと考えます。


しかし、この手法が、裁判官を小馬鹿にしたものかというとそうではなく、
むしろ、最大限に判例に敬意を払う手法でもあるわけです。

事件が多くて時間が限られていても、いや、
時間が限られているにも拘らず事件と向き合わざるを得ないという
状況に置かれるからこそ、正解が直観できるという経験則が
この手法の前提です。

そういう前提のもとで、裁判官が直観してしまった
「正解」とは何なのか、を検証し、再構成する作業こそ
判民型判例評釈なわけです。




こうした考慮からいたしますと、
判例が曖昧なこと良く分からないことを言っている場合に、
その曖昧なことを書いたとき、
裁判官が具体的に何を考えていたかを追求しても、
あまり有益でないということになります。

(たぶん、そういう時、
 なんとなく書かなきゃいけないと思ったという以上の思考はしていません)

むしろ、それを合理的に再構成して、
裁判官が直感した正解にたどりつく、という気持ちが大事である、
とこう思われるわけであります。


・・・・・・。
さて、採点実感先生のご指摘ですが、
今年は違憲審査基準論に言及するな発言が話題ですが、、
それは、比較的重要度が低く、
真に問題なのは、次の発言だと思います。

「法令違憲と処分違憲の書き分けは一般的になってきたが,
 正確に内容を理解した上で
 きちんと書き分けている答案は余り多くなかった。」

どうやら、司法試験は「法令違憲と処分違憲」の内容を
「正確に」「理解」して受験しなくてはならないようです。

簡単に書いてますが、これはかなり難儀なことです・・・(つづく)。

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6 コメント

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Unknown (Unknown)
2012-01-12 11:02:11
「法令違憲と処分違憲の書き分け」なんて試験委員は言うけど、そもそもそれができるようになるような教育なんてないし、当然教科書も存在しないと思うんだけど…
明快に解説してるものは存在しませんね
Unknown (通りすがり)
2012-01-12 11:29:04
>Unknown (Unknown)さま

宍戸先生の「憲法解釈論の応用と展開」や木村先生の「急所」は、ご指摘の点について、学生に理解の理解を促そうという試みだと思いますが・・・
>みなさま (kimkimlr)
2012-01-12 13:28:31
>Unknownさま
こんにちは。『急所』では頑張ったのですが・・・。

ええ、きちんと教育していい本かけるよう頑張ります。


>通りすがりさま
どうもありがとうございます。

まだまだ分かりやすさが足りないかもしれません。

しかも、この論点、発言すると、
妙にこだわりのある受験生・合格者の方から
「あなたは間違っている」
「試験委員は、そんなこと考えてない」と
攻撃に会ってしまうという、論点なのですよ。

頑張ります。
Unknown (snow)
2012-01-12 15:29:20
お久しぶりです。

批判される方も、相手方の主張をまずは理解した上で批判したほうが建設的でいいのではと思いましたね。これまでの批判のなかにはオヤ!?と思うものもありましたから。

一般的な話なので私自身への自戒を込めてですけど。
Unknown (ジョージ)
2012-01-13 10:10:49
非判民型のところで、判断代置が判断代地になってました。
ついでに、非判民型・判民型のところで質問なのですが、この評釈の違いを答案にも反映させようとするのならば、判例が比較的支持されている分野であれば判民型の答案を書いてひとまず判例追認した上で、その射程とかで争っていくということになり、判例が思いっきり学者に批判されているところは非判民型にした方がいいということになりますか?
まだ新司法試験の答案を書いたことがないので、無知な状態での質問で申し訳無いのですが、よろしくお願いします。
>ジョージさま (kimkimlr)
2012-01-13 16:02:17
どうもありがとうございます。

判例評釈方法論とは、司法試験とは全く次元を異にする話ですので、
試験勉強の際には、そういうことを考える必要はないと思いますよ

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