『憲法の急所』について、次のようなご質問を頂きました。
ちょいと、回答などを。
11~12ページのあたりで、さらっと「公共の福祉」とは
公益のことだ、としているのですが、
先生は、一元内在制約説は、採らないのですか?
ご質問、ありがとうございます。
それでは、解答させて頂きます。
防御権制約の根拠とされる「公共の福祉」の意義については、
1990年代までは、論争があり、
教科書では、
法学協会の『注解日本国憲法』の二元説から、
宮沢俊義の一元内在制約説に発展し、宮沢説が通説になった、
と書くのが通例でした。
一元内在制約説というのは、要するに、
「他者の人権の保護」という理由以外では、
憲法上の自由権を制約できない、とする学説です。
この見解は、多くの支持があったとされていますが、
長谷部恭男先生の決定的な論文
「国家権力の限界と人権」(同『憲法の理性』所収、初出1994年)
以降、宮沢説を支持する見解は少なくなっています。
長谷部論文の宮沢説批判は、要するに、
< 宮沢説だと「美観風致」とか「交通秩序の維持」等の
個人の利益に還元しきれないような客観的法益のための権利制約
が許されないことになる。これは、妥当でないでしょ。 >
というものです。
(もちろん、長谷部論文の内容は、単なる宮沢説批判に尽きない
深い内容があるので、ぜひ、お読みください! )
但し、憲法上の自由権の保護範囲を、ものすごく限定し、
そうした利益を保護するための制約を許さないような権利として位置づけようとする
議論はあり得ます(自由権の権利一段階画定方式と言います)。
しかし、自由権の保護範囲をそこまで限定する見解は、一般的でないため、
長谷部先生の批判が決定的になったわけです。
この辺りの事情は、宍戸先生も『憲法 解釈論の応用と展開』第一章で、指摘されています。
また、宍戸先生もご指摘されていたことですが、
学部試験や国家試験の答案を作成する場合に、
「憲法上の自由権は、他者の人権を保護するためでないと制約できない」
という宮沢説の総論を立ててしまうと、
「道交法の規制とか、わいせつ規制を、規制法の保護法益が他者の人権でないから、違憲」
という非常に硬直的な結論か、
「これは、善良な性風俗への権利という人権の保護のための規制だ」
というムリのある論証をせにゃならず、困ったことになるはずです。
『急所』では、自由権の二段階画定方式を採ることを前提にしているので、
一元内在制約説をとりようがなく、
公益による防御権制約の正当化を一定程度認める議論になる
ということで、あのような記述になっております。
ご質問、ありがとうございました。
ちょいと、回答などを。
11~12ページのあたりで、さらっと「公共の福祉」とは
公益のことだ、としているのですが、
先生は、一元内在制約説は、採らないのですか?
ご質問、ありがとうございます。
それでは、解答させて頂きます。
防御権制約の根拠とされる「公共の福祉」の意義については、
1990年代までは、論争があり、
教科書では、
法学協会の『注解日本国憲法』の二元説から、
宮沢俊義の一元内在制約説に発展し、宮沢説が通説になった、
と書くのが通例でした。
一元内在制約説というのは、要するに、
「他者の人権の保護」という理由以外では、
憲法上の自由権を制約できない、とする学説です。
この見解は、多くの支持があったとされていますが、
長谷部恭男先生の決定的な論文
「国家権力の限界と人権」(同『憲法の理性』所収、初出1994年)
以降、宮沢説を支持する見解は少なくなっています。
長谷部論文の宮沢説批判は、要するに、
< 宮沢説だと「美観風致」とか「交通秩序の維持」等の
個人の利益に還元しきれないような客観的法益のための権利制約
が許されないことになる。これは、妥当でないでしょ。 >
というものです。
(もちろん、長谷部論文の内容は、単なる宮沢説批判に尽きない
深い内容があるので、ぜひ、お読みください! )
但し、憲法上の自由権の保護範囲を、ものすごく限定し、
そうした利益を保護するための制約を許さないような権利として位置づけようとする
議論はあり得ます(自由権の権利一段階画定方式と言います)。
しかし、自由権の保護範囲をそこまで限定する見解は、一般的でないため、
長谷部先生の批判が決定的になったわけです。
この辺りの事情は、宍戸先生も『憲法 解釈論の応用と展開』第一章で、指摘されています。
また、宍戸先生もご指摘されていたことですが、
学部試験や国家試験の答案を作成する場合に、
「憲法上の自由権は、他者の人権を保護するためでないと制約できない」
という宮沢説の総論を立ててしまうと、
「道交法の規制とか、わいせつ規制を、規制法の保護法益が他者の人権でないから、違憲」
という非常に硬直的な結論か、
「これは、善良な性風俗への権利という人権の保護のための規制だ」
というムリのある論証をせにゃならず、困ったことになるはずです。
『急所』では、自由権の二段階画定方式を採ることを前提にしているので、
一元内在制約説をとりようがなく、
公益による防御権制約の正当化を一定程度認める議論になる
ということで、あのような記述になっております。
ご質問、ありがとうございました。
そこで、最小限の制約の審査基準が明らかでない。
という記述を論文試験でいつも書いているのですが、複数の友人に
『最小限の制約は何か?と聞いておきながら、明白性の原則を定立したらおかしな事になる、循環論法だ』
と指摘されたのですが。私には彼らの言いたいことがよくわかりません。
13条反対解釈から、最小限の制約しか許されず、
その最小限が、その事案では明白性の原則という審査基準だった。という事はおおいにあり得る話だと思いますし、循環論法でも何でもないように思います。
とはいえ複数の友人に言われると、私の理解が足りてないだけのようにも思えてなりません。
ずっと気になって仕方がありません。どうか教えて頂けないでしょうか?よろしくお願い致します。
これは、効用の最大化を指すことが多いですが、
「公共」の理解は
功利主義的効用最大化の概念とは
違うので、もう少し豊饒な概念だと思っておいた方が無難だと思います。
それが何かを積極的に説明するのは
なかなか難しく、現在論文準備中です。
なんとか今世紀中には書きあげたいなあ。
さて、「公共の福祉」ですが、「公益」ではなく、国民主権のように「全国民の利益」という言葉ではダメなのでしょうか?むしろそちらの方がふさわしいと思うのです。
政治家は現在の国民のためのみならず、将来の国民のために働くのが職務だと思うからです。
また、僕は後輩に公共の福祉論はそれが根本的であるがゆえに空をつかむような、まったく実益がない話で違憲審査基準で権利論VS功利主義を実現すればよいのだと教えておるのですが(僕もまだロースクール生ですが...)、それでよろしいでしょうか?
引用文献をチェックしてみてください。
宮沢先生が引用されていたら一元的内在制約説で、
美濃部先生や初期の判例が引用されていたら
外在制約説です。
ではでは。
この記事に関連した質問をさせていただきたいと思い、書き込みさせていただきました。
高橋ほか『憲法Ⅰ』(有斐閣)では、公共の福祉について、内在制約説と、公共の福祉説、というものが挙げられているのですが(250頁以下)、
①この、「内在的制約説」というのは、「一元的内在制約説」のことを指すのでしょうか。
②また、「公共の福祉説」というのは、一元的外在制約説とは、どのように異なるのでしょうか。
お忙しいところ申し訳ありませんが、ご回答いただければと思います。よろしくお願いします。
厳格な合理性の基準でも、合理性の基準でも
「関連性」とは「規制と目的との関連性」です。
まことにありがとうございます。
関連性については、「規制と」という表現をいれないことも多いので、ああいう記述になってしまったのかと思います。
今後、表記ブレのないよう気を付けたいと思います。
どうもありがとうございます。
今日大学生協で先生の本を見つけたので、衝動買いしました。今年ロー受験なので、じっくり読み込むまではできませんが、宍戸先生の本と共に傍らに置いて勉強させていただきます。
それはさておき、おそらく誤植だと思われるのですが、16頁の厳格な合理性の基準のところで、「B:目的との実質的関連性」となっているのですが、合理性の基準のところでは、「B:規制と目的との合理的関連性」となっているので、厳格な合理性の基準のところでも「規制と」が必要なのではないかと思うのですがどうでしょうか?
細かい指摘ですいません。
よろしければ回答よろしくお願いします。
この問題については、長谷部説(この記事に引用した論文です)による理解で、
解決可能ではないかと考えておりますが、
詳しくは後日、記事にまとめてコメントさせて頂きます。
ではでは、どうぞよろしくお願いたします。
人権を制約する利益について、それを人権に還元できる利益として位置づける場合はともかく、
人権に還元できない公益として位置付ける場合において、その憲法上の位置づけを論じる必要が
あるのではないか、また、その憲法上の価値としての重要度を論じる必要があるのではないか、
という疑問があります。
それは、人権という憲法価値を制約することができる利益もまた憲法価値でなければならない、
という理解を前提とし、また、事実上、法律の留保付きの人権保障ではないことを明確にする
意味でも、その必要性を感じるからです。
そうすると、美観風致の維持の利益にしろ、道路交通秩序の維持の利益にしろ、それが人権に
還元できない公益だとする立場にたつのであればなおさら、憲法価値であることを論証すること
ができてはじめて人権制約の根拠となりうる資格を獲得するのではないでしょうか。
こうした理解が正しいとすると、憲法の答案において人権制約利益たる公益が憲法価値である
ことを憲法条項をもって論じておくべきだと思われます。公共の福祉の具体的内容として公益が
憲法価値であると示すことが、原告側に対する反論として必要なのではないかと考える次第です。
(なお、人権制約の根拠と、その限界を画する審査基準論との関係、およびその論じ方は、今は
横に置いております。)
もし木村先生が人権制約利益たる公益は憲法価値でなければならないという理解に立つのであれば、
公共の福祉概念についての木村先生の立場は、一元的外在制約説ならぬ「憲法価値的外在制約説」
と形容すべきものではないかと推測いたします。