創価学会に悩むすべての人へ

創価学会問題の構造を紐解く(※コメント不可。トラックバック歓迎!)

もくじ

2007年01月25日 | Weblog
※このブログの中の、すべてのページを掲載します。
 右クリック「新しいウィンドウで開く」で、上から順番に見て行くのがおすすめ。


創価学会の守護神「愚痴メンバー」

平成17年度任用試験について

創価学会は暖かい?

一本筋の通った創価学会員

精神分裂症と創価学会

真面目な創価学会員が実権を持ったほうが、創価学会は危険!(上)

真面目な創価学会員が実権を持ったほうが、創価学会は危険!(下)

未成年者の脱会について

韓国報道について

新潮の記事(一部抜粋)

立正安国論プロジェクト

マガジン投票のお願い

「まぐまぐメルマガ大賞2005」中間報告

わしにそっくりな女子高性を発見!

応援コメントありがとう!

立正安国論要約(by freeさん)

オーラスなんで、たのんます!

いよいよ、ラストです。

相談室開設のお知らせ!

大晦日です

創価学会略年表

釈迦を超えた、日蓮の仏教

無常・無我の否定

五時八教の教判

四十余年、未顕真実

創価学会側の苦しい言い訳

大御本尊

勤行内容の変更

2世3世問題

恋人(配偶者)が創価学会員問題

結婚問題

集団的狂騒的エクスタシー

主婦が主戦力

政教混交

仏教史上における創価学会の存在意義

独善的な性格

ブログ中断のお知らせ!

(以上)

さるさる日記で記事更新中

2007年01月25日 | Weblog
現在、さるさる日記にて、記事を更新しております。
どうぞ、ご覧ください。

http://www4.diary.ne.jp/user/485270/

ブログ中断のお知らせ!

2006年02月15日 | Weblog
当ブログ「創価学会に悩むすべての人へ」は、
創価学会問題に悩まれている、さまざまな立場の人へ、
問題解決の方策を示す目的で開設しました。

このブログ自体は、昨年10月の開始ですが、
それ以前に、アルクブログとさるさる日記を使用して、
ブログを書いて来ました。
それら全ての記事と、HP「創価学会員駆込寺」、
及びメルマガ「目からウロコの仏教入門」をお読みいただければ、
「創価問題解決の方策」については、必ず、おわかりになると思います。

ですから、一度、このブログに関して、更新を中断させてください。
あまり記事の数が増えすぎると、
過去の記事が読まれなくなるのではないかと危惧しております。

ブログの悲しさは、
新しい記事は読まれても、
古くなった記事は読まれないということです。
ですが、この「創価学会に悩むすべての人へ」は、
過去の記事すべてを読んでいただきたいのです。

また、食べ物も、積め込み過ぎると、腹をこわします。
一度、時間を置いて、消化させる必要があります。
これは、このブログも同じです。
毎日、このブログをお読みになっている人もいるでしょうが、
そろそろ、消化不良になっているはずです。
同じ味に、飽きているかも知れません。
ですから、とりあえず、中断させてください。

わしの新しい文章を読みたいという人は、
メルマガ「目からウロコの仏教入門」をお読みください。
常に新しい記事が配信されます。
創価学会問題を考える人は、仏教を無視できないと思います。
仏教など、自分に関係ないなどと思わず、ぜひ、読んでください。
http://www.mag2.com/m/0000159892.html

メールマガジン「生き方を変えることば」というのも配信しています。
毎日数行の、わしの語録をPCや携帯電話にお届シマス。
http://www.freepe.com/ii.cgi?misakimuga

創価学会問題に、現在、お悩みのかた。
以下のサイトを注意深く読めば、解決策は必ず見つかるはずです。

HP「創価学会員駆込寺」
http://park5.wakwak.com/~soka/

HP「創価学会独立独歩」
http://shunpo.ld.infoseek.co.jp/

ブログ「世の中はウソが多いから生き辛い」
http://blog.alc.co.jp/d/2000570

日記「(旧)創価学会に悩むすべての人へ」
http://www4.diary.ne.jp/user/485270/

もし、わからないことがあれば、
「創価学会のことで悩んでいる人のための相談室」へどうぞ。
http://synapse66.fc2web.com/counseling2.htm

以上ですが、このブログを更新することになりましたら、
ML「創価学会員独立会議」でお知らせします。
それまで、このブログはチェックしに来なくても大丈夫です。
http://www.medianetjapan.com/10/meeting/soka/ml.htm

なお、ブログが更新されたかどうか、自動的にわかるツールもあります。
ものすごく、便利なので、使ってみてください。
http://www.bloglines.com/

独善的な性格

2006年02月15日 | Weblog
熱心に創価学会の信仰をしている人は、
なぜか自分勝手な人が多い。
宗教や、政治に絡んだ話をするときばかりではない。
あらゆることがらにおいて、
「自分の考えこそが正しい」という思いこみで話をして来る。

デリケートさに欠落し、
言いたいことをズケズケ言ってくる。

こういう性格だから、
周囲には疎まれるのであるが、
当人は、なぜかそのことに気づかない。

創価学会の信仰を、
熱心にやればやるほど、こうした性格的傾向を強めて行く。

創価学会の信仰が、
このような性格をもたらす原因は2つある。

一つは、創価学会の思想の問題点。
創価学会とは、自分達が正しくて、
他の人は間違っているという集団である。
この考え方が、創価学会の会員にも、伝染して来る。
そうなると、上記のような性格が育まれる。

もう一つは、スピリチュアル的な問題点。
創価学会の本尊としている、かの日蓮式曼陀羅を、
創価学会のスタイルで信仰することによる霊障により、
精神的な不安定や、人格の障害をもたらしている。

この「創価学会の思想の問題点」と
「スピリチュアル的な問題点」の2つが融合して、
独善的な性格が生み出される。

関連↓
http://shunpo.ld.infoseek.co.jp/shinbutu.htm

仏教史上における創価学会の存在意義

2006年02月11日 | Weblog
創価学会は、生まれるべくして、生まれた宗教団体である。
江戸時代の寺檀制度と、明治時代の廃仏毀釈によって、一度は死んだ仏教を、戦中戦後、再び魂の篭ったものとして、生まれ変らそうとしたのが、創価学会である。
(少なくとも、そういう名目の上に結成された。)
 
現在でも、創価学会や立正佼成会などの新興仏教教団だけが、若者の信者の精神的拠り所として機能している。
伝統仏教宗派は、未だ半分、死んだままである。
心の拠り所となる仏教寺院も、観光化している所は別として、かたく門を閉ざして、参拝者も迎え入れず、中に通すのは、葬儀屋と弁当屋と法事の参列者だけである。
 
これに対しては、反論する者もあろう。
真言宗のお寺は、霊場として、御朱印マニアを迎え入れ、浄土真宗のお寺は、老人信者を相手に、毎月説法を行う。
禅宗の寺は定年退職した暇なオヤジを相手に参禅会をする。
だから、伝統宗派の寺が、まるで大衆に、門を閉ざしているわけではない。
けれども、そこに若者の姿が無い。
 
創価学会には、若者の姿がある。
この時代に、若者が仏教を求める場合、創価学会に行くしか無いというのが現状である。
本屋や図書館に行けば、仏教書がいくらでも置いているが、確かに文章の上で素晴らしいと感じても、書物は相談相手にはなってくれない。
真に悩める者は、目の前に生身の人間を求めるのだ。
 
創価学会では、若者達が、どうしたら、今の世の中を変えて行ける事ができるか、どうしたら苦難を乗り越えて行く事ができるかという事を、面と向って語り合うわけである。
お寺を含め、世の中のどこにそんな場所があるだろうか?
 
創価学会が様々な問題点を抱えているにせよ、このような意義をもって登場したという事を、仏教関係者をはじめ、社会全体が、深い反省を伴って考えるべきである。

政教混交

2006年02月10日 | Weblog
教団と言うものは、上から指令を出すと、パッと下まで届き、全体が生き物のように動き出す。
だから、為政者にとって、何とかして味方につけたい存在である。
 
日本最大の政党である自民党は、創価学会の協力がなければ、政権を維持できない。
そのために、自民党が創価学会に気を使い、色々便宜を図ろうとする事は当然である。
 
このようなことから、創価学会は自民党を味方につけること目論んでいた。
このことは、1969年に刊行された、藤原弘達の「創価学会を斬る」の中で、すでに指摘されている。
 
選挙になると、創価学会では、誰を支持するかと言う検討がなされる。
そして、「○○氏を支持すべし」と言う結論が出れば、学会活動それ自体が選挙活動の場となり、創価学会員は、必然的に、その候補の支持をせざるを得ない状況になる。
それでも、末端の会員であれば、「○○氏は嫌いですので、私はしばらく活動を休みます」と拒絶することは不可能ではない。
しかし、「地区部長」「支部長」などの、責任ある役職がついている場合は、そのような事は許されない。
 
国民が、政治に関るには、自分が政治家になるか、あるいは、選挙で、自分の考えを反映してくれそうな候補者を選ぶ事である。
大半の人は、後者の立場なので、選挙と言うものは、自分が政治と関る唯一の道であり、民主主義の原点である。
なのに、自分の意思で候補者を選べないと言うのは、これは「民主主義」と言えるのだろうか?
 
公明党議員はもちろんだが、自民党議員の大半は、創価学会の組織票によって当選している。
自公の連立政権は、果たして民主主義の上に誕生したと言えるのだろうか?

主婦が主戦力

2006年02月07日 | Weblog
夫が活動しない分だけ、創価学会では、仕事を持たぬ主婦に期待される。
創価学会では、やたら主婦を持ち上げ、讃嘆する。
人は誉められるとうれしいので、余計に頑張る。
このようにして、創価学会の主戦力は、主婦となっている。
 
主人が会社勤務で、学会活動ができない人は、そのぶんは奥さんがしっかり活動すればそれでよろしい。(池田大作「指導メモ」)

集団的狂騒的エクスタシー

2006年02月05日 | Weblog
創価学会では、勤行をし、自分で教義を勉強する事は、「広宣流布に進む信心」とはみなされない。
「広宣流布に進む信心」とは、「学会活動」である。
平易に言うと、布教行為と、布教のための作戦会議がそれである。
この学会活動によって、宿業が消え、幸福になれるというのである。
基本的に、創価学会員には、絶えず、学会活動を持続して行く事が求められている。
 
どんなに一生懸命に活動しても、生活が向上しなかったり、創価学会に関するさまざまな情報を知ったり、自分が経験すると、疑問というものが沸いて来る。
疑問が沸くものの、集団で行動するということは、それだけで喜びがある。
目に見えた功徳が無くても、創価学会に問題点があったとしても、集団で行動することが、会員の喜びとなって行く。
 
哀れなのは生活に疲れはてて、だまされて入会した大衆である。ワラをもつかむ心理で信心し、甘言と小利益に目がくらみ、熱心に唱え、踊ったりして、集団的狂騒的エクスタシーに没入する。そして悩みも苦しみも、しばし忘れ、あたかも麻薬中毒症の患者のように、感覚をマヒされ、生活上の苦悩も一瞬感じなくなる。しかし、実際の生活は悪くなる一方で地獄の生活を続けなければならないのである。(折伏教典」昭和43年版)
 
だが、何らかのキッカケで、活動から足が遠のくと、酒が抜けたように冷静になってしまう。
その時に、今まではあまり深く考えられなかった創価学会への疑問が、どんどん、自分の中で膨らんで行く。
それが脱会に結び付く。
だから、創価学会では、活動を休んではならないと指導する。
 
活動について、注意しなければならないことは、エンジンを止めてはいけない。車もエンジンを止めると、再び動かすのにたいへんである。原稿なども、やめると書けなくなるものだ。たえず組織について、着実に活動をつづけていることが大切である。(池田大作「指導メモ」)

結婚問題

2006年01月30日 | Weblog
子供が親を失いたくないために、親の言う事に逆らえないように、恋人は恋人を失いたくないために、恋人の言う事に逆らえない。
この心理を、利用して、勧誘するという手口が横行している。

つき合い始めるまで、何も言わず、結婚の話がでるようになってから、自分が創価学会員であるという事をカミングアウトし、「入会してくれなければ結婚はできない」と迫る。
会社では、営業成果をもって実力が評価されるように、創価学会においては、勧誘(折伏)成果の有無によって評価される。
勧誘(折伏)成果の上がらない者は、いかなる優れた弁論ができても、一日、何時間お経を唱えたとしても、評価されない。
逆に、勧誘(折伏)成果を出している者は、弁論が苦手であっても、勤行をさぼっていたとしても、評価を受け、役職が上がって行く。

特に、若い創価学会員が所属する青年部は、勧誘の主力部隊としての役割を担っており、勧誘成果を上げることを、常に期待されている。

だが、戦後の生活苦の時代ならばともかく、豊かで恵まれたこの時代に、簡単に勧誘に乗って来る人間などいない。
まともに、友人に創価学会の話をしても、逃げられるのがオチである。

だが、逃げない相手も存在する。
それは「恋人」である。
恋人同士の場合、相手を手放したくないという執着がある。
勧誘されたからと言って、やすやすと離れて行くことはない。
逆に、恋人を失いたくないがために、二つ返事で入会する可能性さえある。

熱心な創価学会員が、恋人を勧誘する理由が、ここにある。

また、本人が、それほど熱心な創価学会員ではなくても、その親が熱心な創価学会員の場合、我が子の結婚相手には入会して欲しいという願いを持つ。
これは、夫婦で共に信仰しなければ、幸福になれないという、創価学会の思想があるからだ。

信心している人を選ぶか、いない人を選ぶかも、全く本人の自由であり、周囲で干渉すべき問題ではない。本人に信心があれば、相手を信心させて立派にすることもできよう。ただし、信心強盛のつもりでも、かえて信心を崩されて苦しむ場合が多い。所詮、夫婦そろって信心できる家庭でなければ、真実の一家和楽は築けない。(池田大作「指導メモ」)

本来、信教の自由というのは、夫婦間においても認められるものである。
夫婦が別々の宗教を持っていても、構わない。
だが、創価学会においては、そのようなものは無い。
夫婦は、共に創価学会を信仰しなければ、幸福になれないと考えている。

このような考えから、創価学会員の親は、我が子が結婚する場合、その相手を何としても、入会させようとするのである。
その相手が拒絶しようものならば、結婚、それ自体に反対する。
この反対にあって、結婚を断念するケースもある。

相手がさほど熱心な創価学会員ではなく、その親も、我が子の結婚相手を無理に入会させようとしない場合もある。
この場合は、「入会してくれなければ結婚はできない」などと言われないので、安心して結婚してしまう。
だが、結婚し、子供が出来たら、その子供を入会させるかどうかで揉めることがある。
また、創価学会員の墓は、大抵、創価学会専用の墓地だから、自分の遺骨をどこに埋めるのかというトラブルも生じて来る。

結婚段階において、相手が熱心でない創価学会員であっても、それは休火山のようなものであり、何をキッカケに活火山となるか予測がつかない。
熱心でないとは言え、創価学会というものを、一往、認めているから脱会しないのであるから、生活に危機が生じれば、いつ、狂信的になるかわからない。
結婚時に、相手があまり熱心でないからと言って、決して安心はできない。

創価学会員と結婚するということは、金正日崇拝の北朝鮮人と結婚するくらいに、さまざまな問題を秘めている。

憲法では信教の自由が保証されているので、相手の宗教を確認せずに、男女交際をはじめる人間がほとんどである。
だが、それは大変に危険であるということは、認識すべきだ。

2世3世問題

2006年01月30日 | Weblog
創価学会員の子供を「学会二世」といい、そのまた子供を「学会三世」という。
生まれた子供を幼い頃から教団に入れ、教えを植えつけるという行為は、他の教団においても見られる。

教団側から見ると、もともと、教団外の人間に、布教をかけて、入信させようとする事は、極めて困難な作業である。
相手の、蓄積された人生観を、一度、ひっくり返す必要があるからだ。
しかし、子供というのは、スポンジのように、親の価値観を吸い取る習性がある。
そこで、布教の手間を考えた場合、子供を入信させたほうが早いという事になる。
そこで、教団側は、子供ができたら、必ず教団に入れるように言うのである。
 
子供は親の保護を受けねば生きて行けない。
だから、親の言う事に逆らえない。
その事を利用し、子供に宗教を押しつけるなどという事が、道義的に許されて良いのか?

子どもを 立派な後継者に ! 広宣流布の信心を そして 大福徳を 断じて 途絶えさせるな ! (平成17年3月10日、聖教新聞「わが友に贈る」)

勤行内容の変更

2006年01月28日 | Weblog
法華経の、方便品と寿量品の読誦を、ワンセットとしたものが「一座」であり、朝はこれを五回繰り返すから「五座」、夕方は三回繰り返すから「三座」という。
昔の創価学会では、この「五座・三座の勤行」という事を、やかましく言われた。
 
勤行は早からず遅からず、声は大きからず小さからず中道がよい。
五座・三座の勤行をきちんとやれば体がきちんとする。
やっていない人に限っておかしくなるのだ。(池田大作)

 
ところが、平成16年9月10日付の聖教新聞に
《創価学会の「勤行」および「御観念文」の制定》という記事が出た。
 
したがって、「方便品・自我偈の読誦と唱題」には、大聖人の仏法における勤行の本義と目的が欠けるところなく具わっているのである。
ゆえに、現代の広宣流布を担う創価学会として、この「方便品・自我偈の読誦と唱題」をもって、正式の勤行として実践していくことを定めたのである。
(中略)そして、世界広宣流布の時を迎え、各人の一生成仏と、広宣流布を進める勤行という日蓮大聖人の本義に基づき、時に適った勤行のあり方として、「方便品・自我偈の読誦と唱題」という方式を実践することを定めたのである。

 
つまり、「五座・三座の勤行」というものは不要である。
ワンセットのみでいい、という事になったのである。
以前の創価学会では、五座三座の勤行をしっかりしなければ、大宇宙のリズムに乗り遅れて行くという指導をしていたのである。
だから、創価学会員の子供は、「勤行しなければ、御飯を食べさせてあげませんよ!」
といわれ、泣く泣く五座三座の勤行をしていたのだ。
 
方便・自我偈の勤行に
『大聖人の仏法における勤行の本義と目的が欠けるところなく具わっている』
のであれば、なぜ、創価学会は、昔から、そのように教えてくれなかったのか?
創価学会は、「宗門との関係を考えて、仕方なくそうして来た。」
と言い訳するであろうが、宗門から独立して作られた、最初の創価学会版経本でも、五座三座の勤行になっているのだ。
 
創価学会では、戸田第2代会長の時代に、自分たちの修行として五座三座の勤行を行っていくことを決めました。
勤行は修行である以上、一定の形式を設けて挑戦していくのは大切なことです。
しかし、五座三座ではなく、たとえ方便品・自我偈(じがげ)の勤行や、唱題だけしかできないことがあっても、真剣に心から祈っていけば、勤行の功徳に変わりはありません。
それで罰(ばち)が出るなどと、心配する必要も、絶対に、ありません。
(創価学会公式ホームページより)

 
旧指導 ─→ やっていない人に限っておかしくなるのだ。
現指導 ─→ それで罰(ばち)が出るなどと、心配する必要も、絶対に、ありません。

 
この変化を、どのように思うか?

恋人(配偶者)が創価学会員問題

2006年01月27日 | Weblog
わしに寄せられる相談で、最も多いのが、
自分の恋人(配偶者)が、創価学会員で、大変に困惑しているというものだ。
創価学会が、あまり良くない宗教団体であるから、
できれば恋人(配偶者)を脱会させたいという。

だが、その恋人(配偶者)には脱会の意志も無くて、
基本的には、創価学会が好きなのだ。

創価学会を「良くない」と思う理由を、恋人(配偶者)に伝えても、
彼は「そんな情報は承知した上で、かつ、創価学会を信じている」という。

このような場合、その恋人(配偶者)の価値観と、
創価学会の価値観が、ピッタリと一致しているわけだから、どうしようもない。

例えば、自分の恋人(配偶者)が、あるアーティストがとても好きで、
部屋にいる時も、車に乗っている時も、そのアーティストの曲ばかりを聴いている。
なぜ、そのアーティストが好きかというと、
歌詞の中にある価値観と、自分の価値観が一致しているからだ。
自分の思いを、そのアーティストが代弁してくれているから好きなのである。

同じように、恋人(配偶者)がその宗教団体を好きなのは、
その宗教団体の指導者なりが、自分の思いを代弁してくれているからである。

私に相談に来る人は、創価学会の教えが、とても肌に合わず、
池田名誉会長の話を聞くと、吐き気がするというのだが、
その人の恋人(配偶者)は、逆に、それが好きなのである。
つまり、その恋人(配偶者)と、創価学会(池田名誉会長)は、似たもの同士なのだ。

こういう話をしても、私に相談して来る人は、決して受け入れようとしない。
恋人(配偶者)を、創価学会に騙されている被害者だと主張する。
これは、自分の恋人(配偶者)を、良く思おうとする心理が作用している。

客観的に見れば、創価学会の教えや、池田名誉会長が嫌いならば、
それに心酔している恋人(配偶者)の性格も嫌いなはずだ。
冷静になって見れば、その事がわかるはずだ。

冷静になった人は、自分の人を観る目が狂っていたことを認め、
恋人(配偶者)と別れを決意する。
今まで、創価学会がらみで、何人もの人が別れを選択して来た。
それは、すべて正解だと思う。

世の親達にお願いしたいのは、
もし、自分の娘の嫁ぎ先が、創価学会の家ならば、
「子供を連れて戻って来い!」と言ってやって欲しい。

だが、不思議なもので、
別れを決意した瞬間に、恋人(配偶者)が目を覚ますことがある。
別れを言い出されたことで、自分の価値観と、
自分の恋人(配偶者)の、どちらが大切かをようやく考えるようになり、
最終的に、価値観を放棄し、恋人(配偶者)を選択する。
まさに、捨て身の効である。
最高の成功例として、こういうケースもある。

最も悪いのは、お互いに胸に一物を抱えたままの関係を、ズルズルと続けることだ。
心が通じ合わないという悩みを抱えたまま、ずっと行く。
ズルズルと続けた結果、熟年になって、対立して離婚するケースもある。
これでは、長い結婚生活が、一体何だったのか、疑問になる。

百尺(約30m)の竿頭から、一歩を進む気持ちで、
思い切った決断をすることが、最終的に自分にベストな結果をもたらす。

ま、そもそも、付き合う前に、相手の宗教くらい、確認しておけって言いたい。

大御本尊

2006年01月12日 | Weblog
ドライブする時、地図を頼りに
「この国道をまっすぐ行けば、温泉に辿りつくんだな」と判断する。
 
同様に、信者にとって、宗教における教義とは、人生の地図である。
「このまままっすぐ行けば、幸福になれるんだな」と。
 
ところが、創価学会というのは、主要な教義をコロコロと変えてしまう。
それも、信者への説明も、謝罪もなく。
 
その代表的なのが、大御本尊の件である。
「大御本尊」とは、日蓮正宗(※)総本山、富士大石寺に祀られている、
木彫りの曼陀羅である。
この曼陀羅というのは、
色んな神様、仏様、
坊さんの名前が文字で書き並べてあるものだ。
 
大御本尊は、日蓮によって遺されたという伝説があり、
信者がこれに祈れば、どんな願いでも叶うという。
 
かつて、創価学会は、日蓮正宗の内部団体だった。
その時の創価学会は、日蓮正宗の宣伝部隊だったので、
大御本尊についても、盛んにたたえていた。
 
日蓮にはたくさんの弟子がいたが、
日蓮が死んでから、弟子がみな、バラバラに宗派を作った。
日蓮正宗も、その中の一つだが、大御本尊は日蓮正宗総本山、富士大石寺にしかない。
そこで創価学会は、南無妙法蓮華経という題目は、大御本尊に対し、祈ることで、
はじめて功徳があるのであり、大御本尊に祈らねば、功徳は無いと言い切った。
 
各家庭にある本尊も、総本山大石寺から、大御本尊の分身としていただいている。
だから、功徳があるという考えかたである。
 
あくまでも、物体としての大御本尊に価値があると、創価学会は主張していた。
その大御本尊を拝まない他の日蓮宗は、謗法だと斬り捨てた。
 
三大秘法とは、本門の本尊と本門の題目と本門の戒壇との三つであり、この本門の本尊すなわち弘安二年十月十二日に顕された一閻浮堤総与の大御本尊に対して題目を唱えるのが大聖人の教えである。
現在のように種々雑多のものを祭って本尊としたり、お守りにしたりして、これに向って唱題しているということは、根本的な誤りであり、大聖人の教えに背いている仏敵である。
ガラスをいくらダイヤモンドだと思い込んでも、その価値は生じないのである。
「南無妙法蓮華経」の実体に対して関係したときこそ、初めて価値を生ずるのである。大聖人の正しい教えを聞きたければ、大聖人より日興上人に御付属があって以来、富士大石寺に七百年間、連綿として血脈相承されている日蓮正宗についてのみ、日蓮宗を正しく知ることができるのである。大聖人の御書のうえからも、哲理に照らしてみても、また現証のうえからも正邪の区別は判然としている。
看板だけを無断借用しているニセ日蓮宗と称するものは、大聖人に背いているゆえに、たとえ小利益があったとしても、その後には必ず大罰が出、ついには生命を弱らせたり、一家離散したりして不幸に陥るのである。
(「折伏教典」昭和43年版)

 
ここでは、明確に『「南無妙法蓮華経」の実体対して関係したときこそ、
初めて価値を生ずるのである。』と書かれている。
つまり、大御本尊とは、概念的なものではなくて、実体だからこそ、尊いとされて来たのだ。
ところが、創価学会が、富士大石寺から離別してしまった現在、その実体を拝むことができない。
これについての、創価学会側からの釈明は、2006年1月現在まで、一切無い。



※日蓮正宗:日蓮の弟子の日興が開いた宗派。富士宮に総本山大石山がある。戦後、創価学会を信徒団体としたことで、信徒数を急増させるも、後に主導権争いが生じ、創価学会を切り離した。

創価学会側の苦しい言い訳

2006年01月08日 | Weblog
仏教文献学を専門に勉強した経験が無い者でも、「スッタ・ニパータ」や「ダンマ・パダ」などの原始仏典を少しでも読めば、法華経が釈迦の説法ではないであろうことは、簡単に想像がつくのである。

だが、もし、法華経が釈迦の説法ではないとするならば、日蓮の論拠、そのものが崩壊してしまう。
日蓮の論拠が崩壊すれば、日蓮を尊ぶ創価学会の立場も崩れ去るので、創価学会としては法華経が、何としても釈迦の教えでなければ困る。
そこで、創価学会では、大乗非仏説(※)を証明しつつある、仏教文献学への反論として、かなり苦しい釈明をする。

たしかに、最近の仏教学の傾向は、そうした実証的な研究を重視するようになっていますね。今後、仏教が更に世界的な宗教として発展していくためにも、客観的な歴史的解明がなされていくのは、大いに喜ばしいことであると思う。
しかし、法華経をはじめとする大乗経典が、まったくの歴史的所産であって、釈尊自身の教えにはなかったという考えは、あまりに独断的にすぎると思う。つまり、人間の思惟、宗教心といった、かけがえのないものを、すべて歴史的・社会的背景に還元する方法論、すなわち宗教を研究する近代的な学問論に問題があるといえます。むしろ最近は、そうした学問的態度を反省する傾向も強まっていることは、やはり当然といえますね。したがって、法華経や他の大乗経典に盛り込まれたような内容の教えを、やはり釈尊自身、すでに説いていたものとみるのが妥当でしょう。(池田大作「私の仏教観」)


創価学会では、当然のように、法華経を釈迦の説いた最高の説法であると主張し、会員には、そう信じさせていた。
ところが、仏教文献学によって、法華経が釈迦の法門ではないことが定説化されて行くと、「妥当」という言葉でお茶を濁すことになったのである。
もちろん、「妥当」とする根拠など、どこにも無い。

さらに付言すれば、もしこの考古学的見地から、大乗教典が仏説でないとするならば、釈迦が在世中に、法華経をはじめとする大乗教典のなかに含まれているような教えを説かなかったという有力な証拠を、他に見いださなければならないでしょう。(「創価学会入門」創価学会教学部編)
 
法華経とは、釈迦が説いたものだと主張しているのが創価学会なのだから、釈迦が説いたと証明する責任があるのは、創価学会の側である。
「説明責任」とは、常に主張した側にある。
 
それは釈迦が説いたから偉大だというのではないのです。すべての人間の現実生活を力強く革命していく、根本の生命の法則性を看破した教えであるがゆえに最高なのです。(「創価学会入門」創価学会教学部編)
 
ここでは、法華経が釈迦の説法ではないという事を、半分、認めてしまっている。
法華経が、釈迦の説法でなくても、法華経の思想そのものが最高だから、法華経が最高の経典なのだ、という主張をしている。
だが、「内容が尊いから最高」というのでは、客観的説得力に欠けてしまう。
なぜならば、法華経を読んで、尊いと感じる人もいれば、そう感じない人間もいるからである。



※大乗非仏説:大乗経典が、釈迦の説法を反映したものではない、という説。近代仏教学以前より、江戸時代の富永仲基という学者が、これを指摘していた。

四十余年、未顕真実

2006年01月08日 | Weblog
法華経を第一の経典とする具体的根拠が、無量義経(※)に書かれている「四十余年、未顕真実」(※)の一文である。
 
したがって、今日、釈尊自ら「四十余年、未顕真実」ときらった四十余年の経を依経とする既成仏教にすがりついていることは、不幸になる根本原因である。(「折伏教典」昭和43年版)
 
無量義経は、サンスクリット語の原文が無く、中国で作られた経典ではないかというのが、仏教学の世界では有力な説である。
また、この経典には、「法華経」という言葉が、一つも出て来ていない。
 
浄土の三部経(※)は、方等部であり、四十余年の説で、権教方便の教えである。後八年の法華経こそ実経であり、釈迦出世の本懐であることは無量義経に「四十余年未顕真実」と、また方便品に「正直捨方便、但説無上道」と。(「折伏教典」昭和43年版)
 
「四十余年、未顕真実」の文は、法華経を実経、つまり真実の経典とする根拠にはならない。
ましてや、法華経方便品に「正直捨方便、但説無上道」と書いてあっても、それは自画自賛であって、まったく根拠にならない。
法華経が釈迦の説法であるという根拠があるならばまだしも、その根拠など、どこにも存在しない。



※四十余年、未顕真実:善男子、我先に道場菩提樹下に端坐すること六年にして、阿耨多羅三貎三菩提を成ずることを得たり。仏眼を以って一切の諸法を観ずるに、宣説すべからず。所以は云何、諸の衆生の性欲不同なることを知れり。性欲不同なれば種種に法を説きき。種種に法を説くこと方便力を以ってす。四十余年には未だ真実を顕わさず。是の故に衆生の得道差別して、疾く無上菩提を成ずることを得ず。(無量義経説法品第二)
※浄土の三部経:法然が選んだ、浄土宗の拠り所とする経典で、「無量寿経」「観無量寿経」「阿弥陀経」の三典。