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創価学会問題の構造を紐解く(※コメント不可。トラックバック歓迎!)

平成17年度任用試験について

2005年10月17日 | Weblog
創価学会においては、創価学会員の教学の実力を試す、「教学試験」というものがある。
その、最も初級の試験が「任用試験」である。
この「任用試験」のテキストが、機関紙「大白蓮華」に掲載されている。
この掲載内容に、創価学会の“現在の”教学が特徴的に表れているので、注目すべきだ。
“現在の”というのは、創価学会の教義は常に変動している。
実に、都合良く変動させている。
教義というのは、宗教の魂であり、コロコロ変わって良いものではない。
にも関らず、創価学会が教義を変動させるのは、創価学会にとって教義とは、道具に過ぎない事を示している。

今年は、創価学会の教学は、どのように変わったか?
さて、大白蓮華を見てみよう。

まず、着眼すべきは、「大御本尊建立」について書かれている。
創価学会が宗門と離脱して以降、創価学会にとって、大石寺にある大御本尊は、手の届かなくなった存在であり、大御本尊について、創価学会は、声を潜める傾向があった。
会合でも、聖教新聞でも、大御本尊は「無かったもの」として片付けようとする傾向があった。
その事については、わしがHPにも書いたし、インターネットで追求して来た。
さすがに、創価学会側も、この事は痛かったに違いない。
「創価学会は大御本尊を隠蔽しようとしているわけではない」という姿勢を見せる必要が出て来た。
その姿勢の表れが、任用試験の範囲にするという形で出たのだろう。

創価学会がインターネット上の批判を、どれほど気にしているかが、手に取るように理解できる。

創価学会の中で、大御本尊をどう定義付けるかが、これまで大きな問題だった。
任用試験の範囲に大御本尊の事を含めるというのは、この「定義付け」が完了したという事だろう。
範囲の中にすら、書いていないが、おそらく、創価学会はこのように「定義付け」しているはずだ。

《日蓮大聖人の広宣流布の大願が表れたものが「大御本尊」である。だから、板曼陀羅という物体が特別な力を持っているという事ではない。大願こそが大事なのだ。その大願は、創価学会が継承している》

と。
こういう事が、いずれ、組織でも語られるようになるから、注目していると良い。

もう一つ、試験範囲で着眼すべき点がある。
それは「五重相対」を試験範囲に含んだという事だ。
昔は、任用試験の範囲と言えば、「五重相対」だった。
だが、「五重相対」は現代仏教学に照らすと、成立しない。
その事を気に病んだか、任用試験から「五重相対」が外された事もあった。
今回は、堂々と「五重相対」が述べられている。

これは、決して「五重相対」を正統化する客観的な論法が見つかったわけではない。
末端の創価学会員で、現代仏教学の知識を有する者は、ほとんど居ない。
だから、論理的に無理のある、古典のような「五重相対」であっても、会員にとっては抵抗が無いと踏んだのだろう。
要するに「馬鹿が相手だから問題ない」と。

しかしながら、どうしても、末端の創価学会員にとって、理解し難い部分は、変更している。
それは、「久遠元初」という概念の除去である。
法華経迹門の釈尊を「久遠実成の釈尊」という事は、天台、日蓮宗を通じて常識である。
富士大石寺流では、この「久遠実成の釈尊」を超えた、「久遠元初自受用報身如来」という存在を立てる。
つまり、「久遠実成の釈尊」を化導する立場の、もっと偉大な根本仏である。
それが「日蓮大聖人」なのだ、という教理である。
荒唐無稽であり、誰にも信じられない。
だが、この「久遠元初自受用報身如来日蓮大聖人」を、創価学会はずっと主張して来た。
任用試験にも出していた。
これが、今回の任用試験では、出て来ていない。
「久遠元初」という文字が無い。

とにかく、創価学会というところは、都合が悪くなれば、昔、最重要とされていた教学も、コロッと捨てる。
まったくのごまかし集団である。