創価学会に悩むすべての人へ

創価学会問題の構造を紐解く(※コメント不可。トラックバック歓迎!)

仏教史上における創価学会の存在意義

2006年02月11日 | Weblog
創価学会は、生まれるべくして、生まれた宗教団体である。
江戸時代の寺檀制度と、明治時代の廃仏毀釈によって、一度は死んだ仏教を、戦中戦後、再び魂の篭ったものとして、生まれ変らそうとしたのが、創価学会である。
(少なくとも、そういう名目の上に結成された。)
 
現在でも、創価学会や立正佼成会などの新興仏教教団だけが、若者の信者の精神的拠り所として機能している。
伝統仏教宗派は、未だ半分、死んだままである。
心の拠り所となる仏教寺院も、観光化している所は別として、かたく門を閉ざして、参拝者も迎え入れず、中に通すのは、葬儀屋と弁当屋と法事の参列者だけである。
 
これに対しては、反論する者もあろう。
真言宗のお寺は、霊場として、御朱印マニアを迎え入れ、浄土真宗のお寺は、老人信者を相手に、毎月説法を行う。
禅宗の寺は定年退職した暇なオヤジを相手に参禅会をする。
だから、伝統宗派の寺が、まるで大衆に、門を閉ざしているわけではない。
けれども、そこに若者の姿が無い。
 
創価学会には、若者の姿がある。
この時代に、若者が仏教を求める場合、創価学会に行くしか無いというのが現状である。
本屋や図書館に行けば、仏教書がいくらでも置いているが、確かに文章の上で素晴らしいと感じても、書物は相談相手にはなってくれない。
真に悩める者は、目の前に生身の人間を求めるのだ。
 
創価学会では、若者達が、どうしたら、今の世の中を変えて行ける事ができるか、どうしたら苦難を乗り越えて行く事ができるかという事を、面と向って語り合うわけである。
お寺を含め、世の中のどこにそんな場所があるだろうか?
 
創価学会が様々な問題点を抱えているにせよ、このような意義をもって登場したという事を、仏教関係者をはじめ、社会全体が、深い反省を伴って考えるべきである。