創価学会に悩むすべての人へ

創価学会問題の構造を紐解く(※コメント不可。トラックバック歓迎!)

大御本尊

2006年01月12日 | Weblog
ドライブする時、地図を頼りに
「この国道をまっすぐ行けば、温泉に辿りつくんだな」と判断する。
 
同様に、信者にとって、宗教における教義とは、人生の地図である。
「このまままっすぐ行けば、幸福になれるんだな」と。
 
ところが、創価学会というのは、主要な教義をコロコロと変えてしまう。
それも、信者への説明も、謝罪もなく。
 
その代表的なのが、大御本尊の件である。
「大御本尊」とは、日蓮正宗(※)総本山、富士大石寺に祀られている、
木彫りの曼陀羅である。
この曼陀羅というのは、
色んな神様、仏様、
坊さんの名前が文字で書き並べてあるものだ。
 
大御本尊は、日蓮によって遺されたという伝説があり、
信者がこれに祈れば、どんな願いでも叶うという。
 
かつて、創価学会は、日蓮正宗の内部団体だった。
その時の創価学会は、日蓮正宗の宣伝部隊だったので、
大御本尊についても、盛んにたたえていた。
 
日蓮にはたくさんの弟子がいたが、
日蓮が死んでから、弟子がみな、バラバラに宗派を作った。
日蓮正宗も、その中の一つだが、大御本尊は日蓮正宗総本山、富士大石寺にしかない。
そこで創価学会は、南無妙法蓮華経という題目は、大御本尊に対し、祈ることで、
はじめて功徳があるのであり、大御本尊に祈らねば、功徳は無いと言い切った。
 
各家庭にある本尊も、総本山大石寺から、大御本尊の分身としていただいている。
だから、功徳があるという考えかたである。
 
あくまでも、物体としての大御本尊に価値があると、創価学会は主張していた。
その大御本尊を拝まない他の日蓮宗は、謗法だと斬り捨てた。
 
三大秘法とは、本門の本尊と本門の題目と本門の戒壇との三つであり、この本門の本尊すなわち弘安二年十月十二日に顕された一閻浮堤総与の大御本尊に対して題目を唱えるのが大聖人の教えである。
現在のように種々雑多のものを祭って本尊としたり、お守りにしたりして、これに向って唱題しているということは、根本的な誤りであり、大聖人の教えに背いている仏敵である。
ガラスをいくらダイヤモンドだと思い込んでも、その価値は生じないのである。
「南無妙法蓮華経」の実体に対して関係したときこそ、初めて価値を生ずるのである。大聖人の正しい教えを聞きたければ、大聖人より日興上人に御付属があって以来、富士大石寺に七百年間、連綿として血脈相承されている日蓮正宗についてのみ、日蓮宗を正しく知ることができるのである。大聖人の御書のうえからも、哲理に照らしてみても、また現証のうえからも正邪の区別は判然としている。
看板だけを無断借用しているニセ日蓮宗と称するものは、大聖人に背いているゆえに、たとえ小利益があったとしても、その後には必ず大罰が出、ついには生命を弱らせたり、一家離散したりして不幸に陥るのである。
(「折伏教典」昭和43年版)

 
ここでは、明確に『「南無妙法蓮華経」の実体対して関係したときこそ、
初めて価値を生ずるのである。』と書かれている。
つまり、大御本尊とは、概念的なものではなくて、実体だからこそ、尊いとされて来たのだ。
ところが、創価学会が、富士大石寺から離別してしまった現在、その実体を拝むことができない。
これについての、創価学会側からの釈明は、2006年1月現在まで、一切無い。



※日蓮正宗:日蓮の弟子の日興が開いた宗派。富士宮に総本山大石山がある。戦後、創価学会を信徒団体としたことで、信徒数を急増させるも、後に主導権争いが生じ、創価学会を切り離した。