創価学会に悩むすべての人へ

創価学会問題の構造を紐解く(※コメント不可。トラックバック歓迎!)

真面目な創価学会員が実権を持ったほうが、創価学会は危険!(上)

2005年10月27日 | Weblog
創価学会の弊害は、宗教異常者を輩出する事です。
創価学会員全員が、一種のプチ霊能者と同じです。
霊能者というのは、自分の見えている世界、感じている世界を「真理」だと思い、他人に押し付けて来ます。
「供養しなければならない」「祈祷しなければならない」「ああいう本尊を拝んではならない」「こういう本尊を拝まねばならない」等々。
本人は、信念で言っているのかも知れませんが、言われている方は気味が悪いです。

霊能者は商売ですから、相手が「客」にならないとわかれば、もう近づいて来ません。
しかし、創価学会員の場合は、商売ではなく、単に純粋性ですから、何年でも粘り強く、自分の宗教観を押し付けて来ます。
「この御本尊に題目を唱えねば、あなたの今の病気は治らない。」「あなたの運が悪いのは、あなたが邪宗を信じているからだ。」「日顕の本尊を拝んでいるから、いつまでも就職できない。」
赤の他人に、こう言われたならば、その人とはもう関らないようにすればいいだけです。
ですが、最悪な事に、創価学会員が、そうやって宗教観を押し付ける相手は、決まって、家族、親戚、親友、恋人、職場の部下です。
関係を断ち切ろうにも、簡単に断ち切れないのです。

そして、創価学会員は、自分のやっている宗教を絶対だと信じ込んでいますから、相手の不快感が理解できません。
「こんなに素晴らしい信心を勧めているのに、なぜわかってくれないの?」という気持ちです。
ところが、勧められた相手は、ノイローゼになりそうな苦痛を味わっているのです。
そういう「宗教」自体も薄気味悪いし、そういう宗教を、一生懸命に勧めて来る相手も気味が悪いし、こっちが嫌悪を感じているのに、それでも勧めて来る「精神構造」や、その「精神構造」を生み出す宗教団体に、とてつもない不安を感じているのです。
今、この記事を読んで頷いている人は、決して少なくないはずです。
実に、多くの人が、身内の創価学会員に勧誘されて、迷惑な思いをしているのです。
本当にこれは、社会問題です。

その創価学会員は、必ずしも、創価学会の全てに同調している完全にマインドコントロールされた人間ではありません。
こちらが「聖教新聞の座談会っていう記事、おかしいよね?」と質問すれば、
「そうだね、学会員の私から見ても、確かにおかしい」と答えるし、
「無理矢理宗教を押し付けて来る人をどう思う?」と質問すれば、
「宗教は自由だと思うよ。」と答えます。
その態度を見れば、その人は、創価学会員の中でも、かなりの良識的な部類に入る印象を受けるのです。
ですが、実際、創価学会員の大半は、そういう態度の人間なのです。
それでも、現実には、自分が「おかしい」と思っている聖教新聞を購読し、
そして、自分の身内に、宗教を押し付けている
のです。
これは、明らかな矛盾です。
この矛盾に、気付いていないのです。

週刊新潮の不買運動が、創価学会の中であります。
週刊新潮が「悪書」だから、買わないのが一番良いと思うならば、
聖教新聞が「おかしい」と思うのならば、購読を中止すれば良いのです。
ですが、「聖教新聞の論調はおかしい」と良識派ぶる創価学会員も、聖教新聞の購読を中止しないのです。

他の創価学会員が、宗教を人に押し付ける事を「行き過ぎ」と思うくせに、
自分の身内に対しては、何度も、何度も、自分の宗教観を聞かすのです。
「信教はもちろん自由よ。でもね、あなたはわたしにとって大切な人だから、しつこいくらいに聞かすの。」と、相手が精神的に限界に来ているのに、それに気付かず、押し付けて来ます。
これを本人は「押し付けている」とは気付いていません。
そういう人が、自分が「良識的」と思っている創価学会員に多いのです。
自分を「過激な創価学会員」と思っている人間のほうが、「自分はエゲツナイ事をやっている」と自覚しているから、まだいいのです。
「確信犯」よりも、「無意識」で押し付ける人間のほうが、対処しにくいのです。

創価学会の中の「良識派」という人々は、「日蓮仏法」を信じています。
それはそれは、純粋なまでに「日蓮仏法」を信仰しています。
この「日蓮仏法」というのがクセモノなのです。

『とてもかくても法華経を強いて説き聞かすべし、信ぜん人は仏になるべし謗ぜん者は毒鼓の縁となつて仏になるべきなり、何にとしても仏の種は法華経より外になきなり、権教をもつて仏になる由だにあらば、なにしにか仏は強いて法華経を説いて謗ずるも信ずるも利益あるべしと説き我不愛身命とは仰せらるべきや、よくよく此等を道心ましまさん人は御心得あるべきなり。』(法華初心成仏抄)

『元より末法の世には無智の人に機に叶ひ叶はざるを顧みず但強いて法華経の五字の名号を説いて持たすべきなり』(同上)

『されば人是を用ひず機に叶はずと云へども強いて法華経の五字の題名を聞かすべきなり、是ならでは仏になる道はなきが故なり』(同上)


「強いて」というのは、「強制的に」「無理矢理」という事です。
「無理矢理にでも信心を聞かせなさい。それが末法の布教方法です。」と、日蓮は言っているのです。

日蓮の教えに忠実であれば、あるほど、過激な信仰態度にならざるを得ません。
日蓮は、過激な思想家です。
ですが、現代人は過激な人間を嫌います。
だから、日蓮宗の人は、日蓮を「丸みを帯びた人間」として宣伝し、過激な部分はできるだけ封印しようとしています。
「日蓮は摂受を重んじていた」などと主張する研究者もいるくらいです。
とにかく、日蓮宗にとって、宗祖日蓮が過激な人間であるという印象が広まると、余計に信者を減らし、死活問題になるから、日蓮の人情味溢れる部分だけを、ピックアップして宣伝しています。
日蓮宗の坊さんの書いた日蓮本は、みな、そういう本ばかりです。
ですから、日蓮宗の坊さんの書いた日蓮本を読むと、日蓮の本質がわからなくなってしまいます。

日蓮正宗は昔から過激であり、創価学会も過激でした。
顕正会は、現在でも過激です。
過激なほうが、日蓮の教えに適っているのです。
ここを、見誤ってはなりません。

「他宗教と融和的な創価学会」という演出を、最近するようになりましたが、
実際は、創価学会は、日蓮宗や立正校正会などと比較しますと、原理主義的です。
その証拠が、最初に述べた、身内へのしつこい勧誘です。

創価学会でも、池田名誉会長をはじめとする一部の上層の人間や、極めて利口な会員は、「日蓮仏法」など手段に過ぎないとわかっています。
彼等が大切にしているのは「プラシーボ効果」であり、日蓮仏法とは「プラシーボ効果」を生み出す一つの材料に過ぎないとわかっています。
言うなれば、創価学会の保持する宗教は「真言宗」でも「キリスト教」でも良かったのです。

たまたま牧口さんが日蓮仏法と出会ったから、創価学会の宗教は日蓮仏法となった、それだけの事だとわかっています。
一部の人間が、そういう事を知っているのです。
その一部の人間こそ、「真のバリバリ創価学会員」です。
狂信的な人間は、ただの「過激な創価学会員」であり、本当のバリバリ創価学会員ではありません。
本当のバリバリ創価学会員は、過激ではありません。
なぜならば、日蓮仏法を「最高」と思っていないからです。
それどころか、日蓮仏法を「欠陥商品」だとわかっています。
おそらく、創価学会教学部のリーダー達は、日蓮仏法が欠陥商品である事を、明確に理解していると思います。
欠陥商品であると、自分達は理解していながら、「絶対的に正しい」として、会員には教えているのです。
なぜならば、それが自分達の「商売」だからです。
大白蓮華など、「欠陥」とわかってながら、あえて「日蓮仏法はパーフェクトだ!」と書いているのです。
それを純粋に信じて読んでいる末端会員が哀れです。

ですが、末端会員の中でも、極めて利口な一部の人間は、大白蓮華も日蓮仏法も、欠陥である事を承知しています。
けれども、その事は、決して口にしません。
口にしてしまう事で、組織の中で、不利になる事をわかっているからです。
わしも、そういう人間を何人か知っています。
現実に出会って来ました。
酒を飲みながら、そういう人間に対し、
「なぜ、同志にあなたの知っている真実を伝えようとしないのですか!」
と食ってかかると、
「おまえも青いなあ。世の中を知らないんだな。まあ、飲め!」
と言って、はぐらかされるだけでした。

「真の」バリバリ創価学会員は、創価学会が「実益」の場であると知っています。
職員にとっては、金儲けの舞台であり、末端会員にとっては「福祉」あるいは「福利厚生」の場です。

例えば、現代社会における老人は孤独です。
ですが、創価学会には「多宝会」というものがあります。
これは一種の老人会です。
ここに参加していれば、淋しくありません。
また、世間とは異なり、創価学会では、老人をいたわってくれます。
たまに、会員さんが訪問してくれます。
行政でも、一人暮らしの老人を、職員がたまに見回ってくれたりしますが、手薄です。
創価学会は、頻繁に誰かがやって来てくれます。

また、失業してしまった場合、再就職先を、組織で紹介してくれる事もあります。
再就職先とまでは行かなくても、つなぎの「バイト」くらいは、誰かが紹介してくれます。
病気で働けなくなった時は、公明党の議員に頼んで、生活保護を、通常より有利に勧めてくれます。

結婚が出来ない人は、組織の中で「見合い」を設定してくれる事もあります。
ですが、最近は、問題が多いという事で、組織内での見合いが少なくなりました。
しかし、男子部と女子部は、一往、タテマエとして距離を置くようになっていますが、
実際、接触する機会が多く、たまに一緒にカラオケに行ったりします。
巧みな人は、そういうチャンスをうまく生かします。
それだけの目的で、組織に出ている人間もおります。
「職場が男ばかりで、女性と出会うチャンスがまったく無い」という人間も世の中には居ますから。

わしは、こうして、創価学会を「福祉」あるいは「福利厚生」の場として、活用している創価学会員には何も言えません。
本当に、一言も反論する言葉がありません。
なぜならば、彼等は完全な「エゴイスト」ですから。
完全なエゴイストに対し、わしは何も言えません。

日蓮仏法を不完全な欠陥商品であると知りながら、
それを「メシの種」として会員に信じ込ませる職員も、完全な「エゴイスト」です。
わしは、彼等には何も言えません。
わしが、彼等に何を言ったとしても、彼等は
「ああそうだよ。私達はアクドイ事をしているよ。それが何か?」
と開き直られるだけでしょう。

池田名誉会長がもし、目の前に表れても、わしは何も言えないと思います。
ただ、「ふざけんな!」と叫ぶのみでしょう。
まともな話の通じる相手ではありません。

ビートたけし主演の「教祖誕生」という映画では、
主人公の「司馬」という、宗教団体の理事長が、二束三文で仏像を量産して、信者に高額で売り付けようとします。
それを見た、ピュアーな信仰心を持った部下が、怒って、その仏像に火を付けます。

わしは、このシーンを観てわしは、創価学会の執行部と、末端の狂信的会員にイメージがダブりました。
宗教をビジネスとしか考えていない「司馬」は、創価学会の執行部であり、ピュアーな信仰心を持った部下は、末端の狂信的会員です。
創価学会では、まだ末端の狂信的会員は、執行部のホンネがわかってませんから、怒り狂いません。
ですが、もしホンネが分かれば、怒り狂うでしょう。
そしてどうするでしょうか?
脱会するでしょうか?

わしはそうは思いません。
おそらく、末端の狂信的会員は、創価学会において「革命」を起こそうとするでしょう。
日蓮仏法を純粋に信じる「狂信的会員」が、現在の幹部を押しのけて、やがて創価学会における権力を持つ事をたくらむでしょう。

こうなれば、みなさん、創価学会はどうなると思いますか?
いい宗教団体になると思いますか?

わしは、ますます創価学会が、狂信的な組織になると思います。

現在の創価学会の指導者は、日蓮仏法を信じていません。
だから、「社会」との間に、まだ「節度」を保つ事が可能なのです。
ですが、もし、純粋に日蓮仏法を信じる人間が創価学会の指導者になれば、どうなると思いますか?皆さん。
日蓮仏法の原理的な集団になるんです。
つまり、現在の顕正会のようになるんです。
顕正会の「浅井」先生は、日蓮仏法を純粋に信じていると思います。
その結果が、あの強烈な布教方法なんです。

もし、日蓮仏法を純粋に信じる会員が創価学会の指導者となれば、創価学会は現在よりも過激な集団になるでしょう。
かつて、カトリックが腐敗し、信仰の純粋性をうたったプロテスタントが生まれ、
そのブロテスタントは、純粋なゆえに、過激であったように、
日蓮仏法に純粋な人間が指導者になれば、必ず過激になると、わしは考えています。

日蓮宗が穏やかなのは、おそらく日蓮宗のトップが、日蓮仏法を信じていないからです。
立正校正会なんて、日蓮仏法を80%捨てています。
創価学会がそれほど過激ではないのは、創価学会のトップが日蓮仏法を信じていないからでしょう。
日蓮正宗の日顕管長も、おそらく、日蓮仏法をあまり信じていないと思います。
だから、現在の日蓮正宗は、布教がやわらかいのです。
ですが、日蓮正宗の中でも、ある講は、指導者が日蓮仏法を純粋に信じているがゆえに、過激なのだと思います。

これを読んで、

「日蓮大聖人が過激な考えを持っていた事も、日蓮教学に矛盾がある事も、日蓮大聖人の布教方法が現代に通用しない事も、全て知っている。だから、将来の創価学会の指導者は、そういうところを踏まえた上で、修正的に日蓮仏法を用いて行けば良い。」

という反論をしたい人もいるでしょう。

実際、「修正的に日蓮仏法を用いる」という立場の創価学会員を、たまに見かけるようになりました。
ですが、「日蓮仏法修正主義」というのは、わしが言い出した事です。
それまでは、誰もそんな事を言いませんでした。
インターネットで、わしが数年前に言い出した事が、現在になって少しずつ広まり出したのです。
しかも、「日蓮仏法修正主義」を理解している人間は、かなり勉強している人だけです。
それ以外の創価学会員は、なぜ、日蓮仏法を修正しなければならないのかが、理解できません。
圧倒的大半の創価学会員は、日蓮仏法を純粋に信仰しています。
そういう人間を相手に、どうやって、「日蓮仏法修正主義」を説くのですか?

創価学会は昔から「日蓮仏法は完璧な宗教である」と主張して来たのです。
現在も、大半の人はそう思っています。
最初から、日蓮仏法に対し、原理的じゃなかった立正佼成会とは違うのです。

それに、創価学会では、宗祖日蓮は「本仏」なんです。

「凡夫本仏論」という事が、最近になって創価学会内で言われるようになりましたが、
これは松戸行雄と、正信会系のある僧侶と、インターネットではわしが言い出した事です。
しかも、この概念は、理解するのが難しいのです。
「欠陥のある未熟な凡夫だからこそ本仏としての価値があるのだ」というのが「凡夫本仏論」です。
ですが、普通の創価学会員は、「本仏」と言われたら「完璧」と思うでしょう。
そういう創価学会員の前で、どうやって宗祖日蓮が欠陥人間であったと主張できますか?

ですから、創価学会の現執行部、教学部は、できるだけ波乱を起こさないように、
「宗祖は未熟な人間だった」とか「日蓮仏法には欠陥がある」などと、言わないようにしているのです。
それは、会員の「レベル」が掌握できているからです。
もし、聖教新聞や大白蓮華で、「宗祖は未熟な人間だった」とか「日蓮仏法には欠陥がある」などと書いてしまえば、脱会者が続出するでしょう。

それでも、

「脱会者が出るかも知れないけど、これからの創価学会は、日蓮仏法修正主義で行くしかない」

と主張する人間がいるとしましょう。
ならば、お尋ねします。
なぜ、欠陥商品である日蓮仏法を、いつまでも後生大事に抱えている必要があるのですか?
欠陥商品とわかっている日蓮仏法を、人に勧める必要があるのですか?
どんな宗派にも欠陥はあると思いますが、少なくとも日蓮仏法よりもマシな宗派もあるでしょう。
マシな宗派が無いというのならば、自分が宗祖になって、マトモな仏教を確立すれば良いでしょう。
そして、創価学会員を脱会させて、自分の宗派に入れれば良いのです。

なぜ、欠陥だらけの日蓮仏法に、いつまでも創価学会員をしがみつかせておこうとなされるのですか?
それが、現在の創価学会の執行部のように「商売だから」という答えならば、わしも反論できません。
ですが、創価学会を純粋な宗教団体にしたいと願う人間が、なぜ、欠陥ある日蓮仏法に拘泥するのか?
それが不思議でなりません。(続)