創価学会に悩むすべての人へ

創価学会問題の構造を紐解く(※コメント不可。トラックバック歓迎!)

創価学会は暖かい?

2005年10月19日 | Weblog
創価学会が暖かい集団であるという意見があるが、本当にそうだろうか?

社会学者の加藤諦三の本の中に、しばしば出て来るのが「神経症的人間関係」という言葉だ。
まず、加藤諦三の用いる「神経症」という言葉は、一般のそれとはちょっと趣が異なるので説明しておきたい。
加藤諦三の「神経症」とは、「自分は人に受け入れられないのではないか?」という潜在意識下による不安から生じる、独特の性格的傾向を意味する。
「自分は人に受け入れられないのではないか?」という潜在意識下による不安は、人間同士の単純なコミュニケーションを築きにくくさせる。
「ウラオモテの無い人間」という言葉がある。
イメージとしては、落語に出て来る江戸っ子だろうか?
人前で、自分の感情を素直に表現する。
嘘がつけない。
嘘をついたとしても、しぐさで「これは嘘だ」と相手に伝えてしまう。
だから、その「嘘」には悪が無い。
「純情」とも言えようか。
水戸黄門の「うっかり八兵衛」、西遊記の「猪八戒」のような存在が、象徴的だろう。
人間は、幼い時は、誰しもがこういう傾向があったはずだ。
幼い子供には、ウラもオモテもない。
だが、いつしか「本心を見せると、失敗する」という事を覚え、良くも悪くも「大人」になって行く。
こう考えれば、「うっかり八兵衛」「猪八戒」などは、まだ子供なのだろう。

逆に、大人になり過ぎた人は、自分の本性を出さない。
ありのままの自分を出せば、人に拒絶されると信じ込んでいる。
そういう人間は、人間同士の真のコミュニケーションが築きにくい。

しかし、人は、どこかで自分を受け入れてくれる人を求める。
そういう場合はどうするか?

1.自分よりも、弱い相手に対しては、無理に従わせようとする。

2.自分よりも、強い相手に対しては、従属しようとする。


こういう二通りの手段に出る。
つまり、「対等」な関係ではない。
対等な人間関係とは、お互いに自分のホンネを見せた上で、自在に「拒絶」したり「受容」したり出来る関係である。

例えば、「今日の昼飯、ラーメン食いに行こう」と友人が言う。
だが、自分はあいにく、ラーメンという気分ではない。
どちらかと言えば、あっさりしたパスタが食べたい。
この場合、「いや、ラーメンよりも、俺はパスタが食べたいのだ」
というのが対等な人間関係。
ところが、自分のホンネを見せる事を極度に恐れる人間は、
「いいねえ、ラーメンにしよう」
と、すぐに妥協してしまう。
いわゆる、これが「神経症」である。

しかし、自分が他人に従っているばかりなのも、ストレスが溜まる。
だから、神経症的人間は、自分よりも弱い立場の人間を見つけ、
今度は、一方的に自分の欲求に付き合わせようとする。
こういう場合、付き合わされる相手も、神経症的傾向を持っている。
つまり、神経症同士の依存関係なのだ。

自分よりも弱者を支配下におく。
そうすると、その弱者が、何でも自分の言う事を肯定してくれる。
それで、自分の葛藤が解消される。

逆に、神経症的人間が自分よりも強者の下に入ると、
今度は、自分の意見を言わなくて済むから安心する。

神経症的人間同士が、支配者、被支配者の関係を築いている。
これが、加藤諦三の「神経症的人間関係」だ。
詳細は、加藤諦三の本か、HPを見て欲しい。

加藤諦三の、この説に触れた時、わしは「ああ、これは創価学会の事だな」と、ピンと感じた。
圧倒的な支配者は、池田名誉会長であり、その他の人間は被支配者である。
そして、どちらも神経症なのだ。
創価学会それ自体が、神経症的人間関係なのだと。
だから、トップダウンで、対等な関係が無いのだ。

創価学会においては、池田名誉会長が唯一の強者。
それ以外は、みな弱者である。

池田名誉会長という支配者をたたえ合う事で、会員同士は団結している。
これは、本当の人間関係と言えるのだろうか?

加藤諦三の本には「条件付きの人間関係」という言葉も出て来る。
「神経症的人間関係」イコール「条件付きの人間関係」である。
対等な人間関係とは、YES、NOを自由に言い合える関係である。
神経症的人間関係は、支配者は、被支配者に対し「NO」を言わせない。
もし「NO」とでも言おうものならば、天地がひっくり返ったが如く、罵倒される。
逆に、「YES」と答えている限り、どんな人間関係よりも、暖かく抱擁してくれる。
これは「神経症的暖かさ」であり、本当の暖かさとは異なる。
しかし、神経症的人間は、「神経症的暖かさ」と「本当の暖かさ」を区別する事ができない。
それは、「本当の暖かさ」を味わった経験が無いからである。

創価学会の中での「暖かさ」は、同じく池田大作を崇拝し、それなりのノルマをこなしてこその「暖かさ」であり、これは条件付きの「暖かさ」なのだ。
本当の暖かさとは、相手が言う事を聞こうが、聞くまいが、包み込んでくれる「暖かさ」である。

2世、3世問題の核心とは、もし、子供が脱会しようものならば、絶縁も辞さないという、親側の心理状態にある。
憲法では、信教の自由は認められている。
子供の脱会も認めるべきである。
子供が脱会しようが、法華講に行こうが、暖かく包んで行くのが「親」だろう。
健全な親とは、こういうものである。
だが、創価学会員の親には、子供が脱会しようものならば、絶縁するという人間が、少なからずいる。
わしも、実際に、脱会する事で親と絶縁になったという人を何人も知っている。
つまり、我が子に対してさえ、「条件付きの愛」だったという事である。

これを読んで、みなさんは、創価学会が「暖かい組織である」と、まだ言えるだろうか?