伊達だより 再会した2人が第二の故郷伊達に移住して 第二の人生を歩む

田舎暮らしの日々とガーデニング 時々ニャンコと

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ジャコシカ85

2018-11-26 15:41:38 | ジャコシカ・・・小説

俺の友人の弟が、お前と同じ学部なのは知っているな。

 彼は教室でお前の顔を見たことがないと言っている。一体お前はどこの大学に行っているのだ」

 「ばれてるなら仕方がない。推察通りだよ。学校には行ってない」

 「理由は何だ。弁護士になる夢は諦めたということか。まさかお前が歯が立たない分けではない

だろう。それとも他にやりたいことでもできたか」

 「理由は別にないけれど、なんかやる気が起きない。さっぱりなんだ」

 「そのようだな。学校に行って調べてみた。このままでは留年か退学だ。まるで出席していない。

お前一体何を考えているのだ」

 最初怒りに吊り上がっていた眼が、次第に軽蔑と哀れみに変わっていた。

 「何か考えがあるのか」

 「何もない。ただ行く気にならないんだ。

 実は大学に入ってから、だんだん気力が萎えていくみたいで、3年になってからは特にひどい。

 体中のねじが弛んで、蝶番も外れてしまって、グズグズと崩れていく気分だ。何もやる気がしな

い。兄さん、俺は病気かな。兄さんも父さんも医者だ。専門科じゃなくても、それでも医者だ。今

まで俺を見ていて、おかしいとは思わなかったか。

 病気じゃないかと思ったことはないか。

 俺自身は自分が病気だという気はしないが、それでも周りを見ると、自分はどこか変だと思って

いる。

 だから今までに自分なりに、原因や理由やらを探していた。

 あれが悪いとか、これが良くなかったとか大体は人のせいにしたり、社会のせいにしたり、時代

のせいにもしてみた。
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いつの間にか親と同じ道を歩んでいた

2018-11-26 07:50:46 | 家族
 父は私が中学を卒業するまでイベントのたびに

 民謡を唄っていた。

 隣村までにも遠征していたらしい・・・。

 太鼓と三味線に合わせてよく響く声だった。

 普段は寡黙な父だったので驚きとともに恥ずかしかった。

 母は機嫌のよい時はよく鼻歌を歌っていたが私はいつも音痴とバカにしていた。

 が

 父が亡くなり母は70歳過ぎてから民謡を習い

 施設訪問までするようになった。

 声も凛として昔の音痴ではなかった。

 私は幼少の頃から歌が大好きだった。

 唄が友達だった。

 小学低学年の時学芸会で独唱をした。

 声質が高く頭の天辺から声を出す子だと笑われ

 母は恥ずかしくて小さくなっていた。

 若い音楽の女教師が小さなコーラスをつくり胆振の音楽祭などいろいろと

 参加した。

 学生時代は合唱部で思いっきり声を出した。

 中学の教師になっても年に一回の合唱コンクールでは生徒と一緒に声をだした。

 退職したら退職者教職員の合唱に入ろうと思っていたが札幌から伊達に移住した。

 移住して10年やっぱり歌いたいという思いが目覚め生涯学習の長生大学で

 コーラスを唄い、伊達童謡の会にも参加してステージにも立つようになった。

 二年前カラオケクラブにも入部した。

 今ここで私は年三回施設訪問をして唄っている。


 現役時代には考えもしなかった施設訪問

 何かこれも縁なのでしょうか・・・

 最近親と同じ道を歩んでいる自分に気が付き驚いている。

 両親も天からやっぱりネとニコニコしてみているかな?

 
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